第二章  緑髪の催眠術師②


「これはどうです? というかもうこれで決定でも……」

 着替え終わった寺島は、試着室を開けて一周回って全体を見せる。


「うーんだめね。惜しいけど、サイズ感がちょっと違うわ」

「……なあ、これ何回繰り返すんだよ」


 新しい服を着ては脱いでを、もう十回以上は繰り返している。流石に疲れた。


「納得いくまで。あ、店員さんあそこの一列のシャツ全部持ってきてくれる? あとそれに合いそうなジーンズやパンツも持ってきてくれると助かるわ」


「か、かしこまりましたっ!」


 試着室の前。ただの客であるはずの雅が、店員と寺島に指示を出し続けてオーナーのように店全体を動かしていた。店長すら額に汗を浮かべて走り回っている。


「な、なあ、お前はこの店の所有権でも掌握してるのか……?」

 店員が次のコーディネートを持ってくるまでの間、急激に老けた顔の寺島が訝しげに試着室から雅を覗いた。


「間違っているとは言えないけど人聞きが悪いわね。WSZグループは広告代理店以外にアパレルの方にも最近手を出したのよ。だからこのお店はそのうちの一店舗ってこと」


「だから顔を見るなり、店員さんが凄まじい表情してたのか……」


つい声を出して寺島が納得すると、大蛇のような目でギロッと睨まれた。


「……まあ、実を言えば今日、兄は会社の会議に参加していて家を空けているから、野々宮と口裏を合わせて実地調査に来ていることにしているの。だから後で感想を聞かれた時のために、このお店に来たってわけね」


「なるほど……って、バレたらどうすんだよ」


「バレたら……そうね、私が全て謝るから大丈夫よ。でも絶対秘密にしておいて?」

「それは分かってるけどさ」


 その後、三十分以上に渡って試着を繰り返し、ようやく決まるとそのまま着替えて店を出た。

 支払いは寺島が試着している間に雅が先に済ませてくれていた。寺島も財布を出した所でレシートに記載された額の半分も足りない事に気づき、有難く買っていただくことにした。


 ショッピングモールのような商業施設に初めて来た雅にとっては、目の前の全てが新しい体験だった。ゲームセンターや特にガチャガチャには満面の笑みで興味を示したが、本体に貼られた対象年齢のシールを見ると、ひとつ咳払いをしてその場を去ろうとした。


「高校生がやっても別に変なことではないぞ」とすかさず寺島が助言すると、今度は瞳を輝かせて雅はガチャガチャを楽しんだ。金が城学園高校に通うお嬢様とはいえ、雅の中身は普通の女子高生と何ら変わりのない。



「ごめんなさい、ちょっと止まっていいかしら」

 三階までのフロアにあるお店を全体的にウインドショッピングして最上階に上がると、通路を離れた休憩スペースのソファーに雅が腰を下ろした。


「ちょっと靴ズレを起こしてしまったみたい……」


 苦い顔をしながら履いていた黒のヒールをゆっくり脱ぐと、アキレス腱のちょうど下辺りが赤く滲んで皮が剥がれていた。

 酷い傷ではないが、長時間我慢したのが窺える傷だった。


「おい、なんで早く言わなかったんだよ」

「その……気を遣わせてしまうかもしれないと思って……ごめんなさい」


 瀬崎家の令嬢であり『K』であるが故の相手への配慮だろうか。自分の怪我のせいで相手に余計な心配をさせてしまうことを避けたかったのだろう。


「馬鹿かお前は。ちょっとこっちに向けろ」

「え? ちょ――」


 当然意識の外ではあるが、姫に忠誠を誓う王子のように寺島が雅の前で片膝をついた。尻ポケットに入った財布から二枚の絆創膏を取り出し、躊躇なく雅の足を手で持ち上げる。そして皮が剥けた部分に絆創膏を優しく丁寧に張った。


「俺はデートとかしたことないから分かんないけどさ、男としては気を遣わせるとか考えずに頼ってほしいと思うんじゃねーの。仮に今日はデートの練習だろ? 本番でも怪我を隠したりする必要はないと思う」


 素早く絆創膏を貼り終わると、寺島は優しく雅の足を床に下し、靴をそっと履かせた。


「――はい。っと、これ結構良い絆創膏だから簡単には剥がれたりしないはずだ」

「……え、えっと、その、ありがとう……」


 雅は恥ずかしそうに頬を紅潮させたが、礼を告げる時は寺島の顔をしっかりと見つめた。これも瀬崎家の令嬢としての矜持だろうか。


「なんかあると思って昨日財布に入れといただけだ。相談係として一応な」


 寺島は特別なことでもないという風に立ち上がり、雅の隣に腰を下ろす。


 二人が座った最上階にある休憩スペースのソファー前には、一面に窓ガラスが張られていて、外の景色が一望できるようになっていた。



七年前であれば高層ビルが立ち並び、都会の雑多な雰囲気や混雑した街の様子をゆったりと高みから眺められただろう。しかし、目に付くのはビル群や高速道路、風力発電が発達した都市――その至る所に虫食いの如く広がる荒廃した土地だった。



立ち入り禁止のフェンスに囲まれた敷地内に、倒壊した建物や乱雑に積み上げられた瓦礫の山の一端が見て取れる。


「こういう景色を見ると、あの日が夢じゃなくて現実だったんだって思い返されるわね」

 雅は円らな瞳を曇らせ、憂いを含んだ声で呟いた。



あの日とは七年前、東京の半分が破壊した日――《戦慄の水曜日》のことだ。



あの日、地球外生命体が襲ってきたわけでも、人間同士の戦争が勃発したわけでもない。起こったのは《催眠術師》による反乱。


予想されていた人類の進歩より格段に現在の世界が発展していない理由を《戦慄の水曜日》は背負っている。


《催眠術師》――対象者の潜在意識を支配すると同時に深層心理に暗示をかけることで、個人が特別に有する《催眠術》を発揮できる者。


 以前TV番組でエンターテイメントに使用されていた催眠術と、現代でいう《催眠術》は全く意味が異なる。


 二〇三九年における世界中の共通認識――《催眠術》とは、殺傷能力や戦闘能力を宿した人外的な異能の力。


「十年前に国際条約で核兵器が全面廃止されて、世界は平和に向かうと思った。けれど、そう簡単には上手くいかなかった。まさか新しい兵器開発の対象が人間だなんて……誰が思いついたのか不思議だと思わない?」



 平和を願う人類の想いとは逆行して、世界は核の保持に次ぐ覇権争いを始めた。

 行き着いた先が人間の《催眠術》の開発だった。


数十年前から、催眠や心理に関する研究は国際的な協力を経て実施されてきた。


元々は催眠療法の更なる発展を期待していたわけだが、いつの間にか本来の目的は置き去りにされ、副産物としてできた催眠術を応用した戦力の研究が極秘に為されていた。



「あれは今世紀最大の人類の過ちだっただろうな……」



特に日本では施設にヒトを集め、人間兵器としての《催眠術》の会得、利用、発達に尽力を注ぎ、水面下で人間兵器製造を企て、軍事力の増大を図っていたという。


《戦慄の水曜日》は突如勃発した。研究施設に幽閉されていた催眠術師達が反乱を起こしたとされている。それでも実際は、大きく薄い風船を知らずに膨らませ続けていた結果で、破裂したのが早かっただけの話。


 その日、街中で理性を忘れた人間が暴れ狂った。建物は崩壊し、歩道には赤黒い血が流れ、日本中に混乱が渦巻いた。


 しかし、次の日には暴れ狂っていた人間全員が意識を失い、街中で倒れているのを発見されたことで台風が通り過ぎるように《戦慄の水曜日》は終焉を迎えた。


保護された後の調査で、凶暴化し暴れ狂った人々は大半の記憶を失っているのが確認された。彼らが口々に言うのは――



『何者かに《催眠術》のような暗示を掛けられた気がして、目覚めたら世界が変貌していた』



その後、世界中の国々で《催眠術》を応用した人間兵器の開発を行っていたという事実が明るみになり、最も研究の進歩していた国が日本だったというのも判明した。


それからというもの、人々は《催眠術師》という存在に戦き恐れることになった。


相談係というのも《戦慄の水曜日》で孤児や遺児になった子どもたちが殆どだ。富豪たちは彼らを養う代わりに、治安の悪化した現在の日本で、自らの娘、息子の世話や護衛させるべく教育してきた。


寺島も《戦慄の水曜日》で孤児になった内の一人だ。



しかし、《戦慄の水曜日》は七年前の話。最初は恐怖に震撼した人々も、今では《催眠術師》の存在を忘れつつある。


街に一歩繰り出せば、そこら中にあるあの日の残骸に夢ではなかったことを実感できるが《催眠術師》はその後一度も現れていない。



治安の悪化した現代は《催眠術師》のことよりも強盗や意識のある人間による殺人の方がよっぽど注意が必要だ。


「今じゃ《催眠術師》なんて最初から存在しなかったとかいう都市伝説もあるけど《催眠術》は魔法や魔術とは違う。国も人間兵器の開発を施設で実施していたことを正式に発表している以上は《催眠術師》でなくとも《戦慄の水曜日》を起こした存在はいるってわけだよな」


「将生君そういう話に詳しいのね」

 雅が意外そうにこちらを見た。


「人並みには、な」


 荒廃した土地を見て思い起こすのは、雀との出会い。瓦礫の下で埋まっていた寺島を発見した当時はまだ人見知りを発揮する前の飛鳥馬雀だった。


「将生君は、何か特別な力でも持っているの?」

 同じく外の景色を見つめる雅が、視線を窓の外に戻して寺島に尋ねた。


「ん?」

「ほら、あなたは腐ってもK24の相談係でしょう? 何か特別な資質があるのかと思ったの」

 聞き返されたら答えられるよう、事前に考えて来たような言い回しと返しの速さだった。



「腐ってもって……俺は普通の相談係だ。『主』はほとんど家に籠りっぱなしだし、特別なものは何も必要とされないよ。K24の相談係ってのも名ばかりだな」

「……そう、なのね」

 寺島の即答に、雅の表情はどこか残念そうにも見えた。


 寺島が――K24の相談係が――何者かであることを期待したように。

 そして突然、雅が寺島に向き直って、脈略も突拍子もないことを尋ねた。



「将生君は赤の他人が《催眠術師》に命を狙われていると知ったらどうする?」

 寺島の瞳は鮮明に雅を捉えていたが、表情や仕草からその真意を探ることは出来なかった。唯一感じられたのは、悲哀や痛苦に近い――そんな曖昧な感情だった。



「命を狙われているとしたら――?」

 寺島が聞き返すと、緑と青の中間色である榛色の瞳がミルクティーベージュの髪の下で静かに揺れ、雅は冗談よ、と小さく微笑してソファーから立ち上がった。


「なんだよ冗談って。何か聞きたい事でもあるのか?」

「いいえ本当に何でもないの、忘れてくれればいいわ。……それより、七年前の話をして折角のデートなのに気分を損ねさせてしまったわね」

 雅がうーんと伸びをする。



 あくまでデートの練習だと強調する寺島だったが、雀以外の女性と外に出歩いたことは初めての経験で、悪いものではないと内心思ったのも確かだ。


「あ、そうだ将生君。そこでソフトクリームを買ってきてくれない?」

 振り返って雅の視線と同じ方向に目をやると、フードコートにあるラーメン店がデザートとしてソフトクリームも販売しているようで、旗が立ててあった。


「抹茶とバニラのミックスでお願い。服は買ってあげたからソフトクリームは奢ってね。私はここで待ってるから」


「……はいはい。すぐ買ってきますよ」


 寺島も重たい腰を上げ、渋々フードコートへと一人で向かう。


 先ほど気を遣うなと言った手前、断るわけにはいかない。デートの練習だと言うならば一緒に付いて来た方が良いものだが、本番のデートでも男性が女性の分まで何かを一緒に購入して女性の待つ場所まで戻ってくるというシチュエーションは確かにありそうだ。


 寺島は食券機でソフトクリームを二つ購入し、店員さんに食券を渡し、ソフトクリームを両手に受け取った。雅は抹茶とバニラのミックスで、寺島はチョコ味だ。

出来るだけ急いで雅の待つ元へと戻ると、その場で足を止めた。




 ――雅が、いない。




 は――? 


 思考回路が一瞬停止した。



ソファーの上には雅が肩に掛けていた桜色のショルダーバックが無造作に置かれていて、辺りを見渡しても雅の姿は見当たらない。お手洗いに行ったか。いや、ならば手荷物を置いて行くわけがない。隠れて遊んでいるのか。



 ソファーに置かれた荷物を監視しながら隠れられるような場所は周囲にない。寺島の脳が急速に回転を始める。



厭な胸の騒めき方がする。心臓が血潮を押し出して、心拍音が全身に広がった。



『将生君は赤の他人が《催眠術師》に命を狙われていると知ったらどうする?』



何気なく聞き流した言葉が、頭の中で残響した。


 命を狙われていたら? 

 催眠術師に? 

 もう《戦慄の水曜日》からは七年前も経過した。


 

街にはあの日の爪痕が残っている。けれど《催眠術師》は姿を消した。誰も怯えずに生活ができるようになった現在に至ってそれは考えすぎ――。



「ねーねぇお兄さん。もしかしてさっきここに座ってたお姉さんを探してるのぉ?」

 振り返ると、小学生くらいの少年がきょとんとした顔で背後に立っていた。


「……もしかして君、どこに行ったか知ってる?」


「うん。なんか男の人がお姉さんと腕を組んで向こうに歩いて行ったよぉ?」


 見た目は子供、頭脳は大人なあの名探偵風語り口の少年が小さな指で示す先は、下の階に続くエスカレーター。


「……そうか、ありがとう。これ、二つあるけどもし良かったら食べてくれ。お腹壊すなよ」


「二つもぉ! ありがとうお兄さん!」


「いや、こちらこそありがとうだ」


 着てきた服を畳んで詰め込んだ袋を、寺島はピンクのショルダーバックを隠すようにソファーに置き、素早く脚を動かして中央の吹き抜けから下の階を見下ろした。


吹き抜けに近い通路沿いを早歩きしながら、現在寺島がいる四階から最下層の一階までを満遍なく視界に収めてミルクティーベージュの髪を探す。


 なぜこんなに焦っているのか。雅が物陰に隠れながら戸惑う寺島を楽しんでいるという可能性と、何者かに連れ去られたという可能性の二つが均等な割合で寺島の脳内に併存し合った。  


 ただ、少年の証言を信じ、もし本当に雅が連れ去られた場合、重大な事件になり得る。


ならば、と連れ去られた可能性で雅を探索することに寺島は脳内決定を下した。


 少年によると『男の人がお姉さんと腕を組んで向こうに歩いて行った』。


つまり、密接に体を寄せあった状態の二人組の男女がどこかを歩いているはず。いや、少年が男と女を間違えているという説も安直に捨てるべきでない。お姉さんとは実は蘭姉ちゃんで雅でないという説だって無きにしもあらず。いやそれはないが。



大勢の人で賑わうショッピングモールの中、時間が経過すれば見つけ出すことさえ不可能になる。寺島は右通路から左通路へと繋がる中央通路を走り、エスカレーターを駆け下りた。



マナー違反ではあるが、この状況でそんな悠長な事を言ってられない。


視線を常に四方八方に飛ばす。腕を組む二人組、ミルクティーベージュ、男、瀬崎雅――視線の端に映る人影も見落とさないように寺島は黒い瞳を鋭く光らせた。


あそこか⁉ 



数メートル先、派手な髪にチェックのロングコートを着た女性が男と腕を組んで歩く姿を捉えた。姿勢を落とし、その後ろ姿に駆け寄って後ろから手を掴む。



「きゃっ! な、なに急に!」

 しかし、振り返った女性は、雅とは似ても似つかない年上の女性だった。


「あ、すいません。人違いでした……」

「おい何してんだてめぇ、何か用かよ」

「いえ、すいません……。人を探していて、後ろ姿が似ていたもので……」


 彼氏らしき隣の男が、突然背後から女性の手を掴んだ寺島をギロッと睨む。

 鎖骨辺りから首元まで緑と黒が混じった刺青を施している、よりにもよって厳つい男だ。


「おい、テメェ待てこら。……何なんだお前、俺の女に用があんなら言えや」


 高校生が刺青の男と歩く女性に用がある訳ないだろ。そう思いながらも確認もせず咄嗟に手を掴んだ方に非がある。冷静さを欠きすぎた寺島は何を焦ってんだ、と今一度自分を戒めた。


「まだ話は終わってねぇぞこのガキコラァ」

「すいません。人違いでした。……僕が悪いです、すいません」


 寺島は謝罪しながらも視線は三階以下のフロア全体に散らす。それに気づいた刺青の男が今度は寺島の襟元を掴み、雅に買ってもらった新品のシャツがぐぃと音を立てて伸びた。


「ねえあんまりやりすぎないでよぉ」


 周囲の視線が気になっている様子の隣の女性は、関係者ではないと言いたげにため息をついてその場から距離を置く。

 結婚までには発展しないだろうな、この二人は。



「わーってるよ。だけどこいつムカのがよ、全然俺に怖がってねぇんだよこいつ」

 シャツのボタンが千切れそうだ。しかし案外鋭いな。



「そんなことないです。本当にすいません……離してください。ただの人間違いなんです」


 怯える寺島が伏せるように視線を下げたその先――



 一階フロアに見覚えのある姿が映った。



 黒い帽子を深く被った男が、女性の華奢な腕を無理やり引っ張って、出入口の外へ連れ出そうとしている。何かを叫ぶ女性は派手なロングの髪を左右に振って拒絶を示していた。


周囲の人間も異様な光景に目を奪われている。しかし、堂々としすぎているほどの男の行動が正当さを醸し出して、彼らを制止させようとする者は現れない。片足を痛そうに引き摺る女性は力に抗いきれず出入口へと吸い寄せられて行く。


「すいませんどうしても急がなくちゃいけないんです。離してくれっ!」

「あぁ? 目上の人に対してなんだその口の利き方はよォ!」

「すいません! でも、離してもらわないと困るんです! 離してもらわないと――」



 瞬間、襟元を掴んだ男の手のさらに内側に、表情を消した寺島が自分の左手の指全体を潜らせると、手首を回転させてシャツから男の手を剥がした。



 男は手首を捻られたことにより体の軸が右側にくらっと、ぶれる。


すかさず抑え込むよう地面に向かって垂直に手首を押すと、いとも簡単に刺青の男は背中と足元に敷かれた絨毯と背中を合わせることになった。


「――きゃっ! ど、どうしたのよ!」

余所見をしていた女性が振り返ると、高校生くらいの若い男は姿を消し、両手で震える手首を包むこむ彼氏が足元で蹲っていた。


「まずい、外に出るまでには追い付かないとっ!」

 エスカレーターを駆け足で下り、最後の数段を跳躍してさらに次の階へ。


 二度目は人間違いではない。一階に到着した寺島は人混みを避けながら、数時間前自分が入ってきたと同じ出入口へ脇目も降らず猛進した。


 視界に出入口が入った時、既に雅と男の姿はない。衝突しながら半ば強引に自動ドアをすり抜けると、通路を越えた遠い先、無数の自動車が往来する片道三車線道路が広がっていた。


 寺島の目が捉えたのは、道路の片隅に停車する一台の黒塗りのボックスカー。

――そして、遠近法で小さくなった雅が車内に押し込まれる最後の瞬間だった。


「雅っ!」


 寺島の叫ぶ声に雅の顔が上がり、二人の視線が交差する。走馬灯のように時間の流れが緩やかになり人々の喧騒が静まると――世界は一瞬だけ音を消した。


今にも零れそうな雫を瞳に溜めた彼女は、何かを告げようと開口して、

でも最後は諦めるように薄く桜色に染まった唇を噤んで、小さく微笑した。


――ガシャンッ! 


 と後部座席ドアが閉まると、喧騒が再び寺島の鼓膜を震わせ、世界は元の流れを取り戻した。近頃珍しい手動タイプのドアを勢いよく閉めた男は助手席に飛び乗り、当然寺島を待つことなく停止していた車が即座に発進する。



 最後、寺島はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



『将生君は赤の他人が《催眠術師》に命を狙われていると知ったらどうする?』


 あの時、雅は何を言おうとしたのだろうか。言葉の裏にある意味は何だったのだろうか。もしそれが私だったら助けてくれる? そんなことを雅は言おうとしたのだろうか。


 ――じゃあ、今はなんて言おうとしたのだろう……?


「むかつくなぁ……」

 爪が突き刺さるほど拳を強く握り、奥歯をぎりっと噛む。アドレナリンのお陰か手のひらの痛覚は正常でないようで痛みは感じない。けれど心臓が飛び出そうなほど胸が疼く。


「何だか知らねえけどさ。あんな顔……俺が助けられないから諦めたみたいじゃんかよ」


 自分の限界を決められたようで、腹が立つ。寺島は立ち尽くした自分を嘲笑うと、前傾姿勢で前の通路を車が往来する道路へ向かって駆け出した。その思い切った姿に躊躇は皆無だ。


脚を限界まで回す。


目先にあるのは、忙しなく自動車が過ぎ去る片道三車線道路。


――高跳びの線を踏み切るように、寺島はまっしぐらに歩道から道路へと飛び出した。

緊急停止時のビービーという耳障りな音が鳴り、後方車から僅かなクラクションが響く。


衝突まで約5センチのところ、緊急停止の警告音とは反対に一台のタクシーがすっと静かに停止した。緊急停止機能と自動運転補助機能が搭載された現代にクラクションはお飾りのようなもので鳴らす者の方が少ない。代わりにか、窓から運転手が顔を出して怒鳴りを上げた。


「お、おいコラお前! 死にてぇのかガキ! は、早く退けボケぇ!」


 お前やらガキやら普通一日で何度も吐かれる言葉ではないが、寺島はそんなのお構いなしに運転席の方へ回る。窓を開けて𠮟責を飛ばすタクシー運転手も、まさか運転席までガキが来るとは思わず、驚いた表情を見せた。


「お、おいなんだよお前はよぉ!」

「いいからちょっと外に出て下さい! 緊急事態なんだ!」


「はぁ⁉ お前は新手のタクシージャックか⁉ って、おいドアを開けるな、引っ張るなっ!」


「なんですかタクシージャックって、バスジャックなら聞いたことありますけど!」


 抗う姿勢を見せるタクシー運転手だったが、寺島の形相と力量に負けて車の外へと追い出されてしまい、入れ替わりに乗り込んだ寺島が運転席のドアを閉めた。


「コラ待て! 警察呼ぶぞ警察! 何してんのか分かってんのかお前はぁ!」


「警察に通報したければ今すぐにでもしてください。ただし、この場所で誰にも連絡することなく待機していれば、あなたが提示する額のお金を必ず戻ってお渡しします」


「あほかガキ! 大人を舐めるなよ! お前みたいな小僧が持つ金なんてのは大したことねーんだよ! 早く降りろ! お前の少年院行は決定だからな!」


 額の横からダラダラと汗を流すタクシー運転手が、今しがたまで自分が運転していた自動車の窓を外側から渾身の力で叩く。対して寺島は窓越しに話をした。


「あなたも金が城学園高校は知ってるでしょ?」

「か、金が城……?」

「そうです。俺は金が城の生徒なんですよ。だからあなたが警察に通報したとて問題は大事にはなりませんし、時間の無駄になるだけです。黙って待つのが得策ですよ!」



 寺島はシートベルトを装着すると、ブレーキを踏んでギアをPからDに入れた。運転手は寺島に文句を言うためわざわざギアをPに入れていたらしい。



「すいませんねおじさん」


 呟くと、後ろから追い越す車の隙間を狙って、寺島はタクシーを発進させた。

 スイッチを長押しして自動運転から従前の自主運転にシフトさせる。



『空車』の表示が『回送』に切り替わった。



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