第19話 半音階おもらし

 ピアノを弾いていた。もはや輪郭もよく知らない旋律を。


 玲香「はぁ……」


 指が動かない。なにか足りてないような気さえしてくる。


 玲香「せめてあの子がいてくれたらね……」


 ことばに出すタイミングとは不思議なもので、未咲から電話がかかってきた。


 未咲「もしもし玲香ちゃん? 元気してるかな?」

 玲香「声を聞いてある程度判断してほしいものだわ。わからない?」

 未咲「んとねー……もじもじしてる、とか?」

 玲香「なんでわたしがそれをしてるからってこんなこと言ってると思ってるのよ」

 未咲「それは……ピンチなのかなーって……」

 玲香「未咲はあいかわらずね……ちょっと大人になってくれてよかったけど」

 未咲「わたしっていままで子どもだったの?!」

 玲香「えっ自覚なかったの? また病院いきましょっか」

 未咲「やぁっ、もうあんなところいきたくない!」


 わりとしっかりめに泣いてくれたことで、わたしもほんとうのことを話す心の準備ができたかもしれない。


 玲香「……楽器ができなくなってたのよ。不思議なものね、これまでちゃんとできてるものだって勝手に思ってたんだけど」


 丁寧になぞっているつもりでも、本家とはどうしても違って聴こえてしまう。


 玲香「あの子たちがよほどできた存在だって、いまさら知るはめになるなんて」

 未咲「あの子たちって、玲香ちゃんが学生のころにやってたバンドのこと?」

 玲香「もちろんあのメンバーだからできたってこともあるかもしれないけど、離れるとその感覚も忘れるものね。いまとなっては連絡をとろうとも思わないし」

 未咲「そのメンバーだった子たちにもそれぞれの生活があるもんね……」

 玲香「そうね……ねぇ未咲」

 未咲「なに?」

 玲香「これから一緒にやりましょう、ピアノ」

 未咲「……うん。わたし音感あるかどうかわからないけど、やってみるねっ」


 けっこうあっさり決まってしまった。大変になることも知らずに。


 ♦


 玲香「ちょっ……密着しすぎでしょあんたってばほんとにね……」

 未咲「えへへ……こうしたほうが弾きやすいかなーって」

 玲香「知らないわよちょっ……落ち着きなさいってば!」


 ピアノの鍵盤を強く拳打したことで、玲香ちゃんの怒りぐあいがはかれた。


 未咲「ごめんなさい……もうしません……」


 思わず泣いてしまった。さすがにやりすぎたと感じてしまう。


 玲香「こちらこそ取り乱してごめんなさい……音楽ってのはね、演奏に繊細さが求められるのよ。未咲にどれだけ理解してもらえるかわからないけど、できるかぎりのことは教えたいから、とりあえず立って演奏しましょう。鍵盤の配置がよくわかるし、座るよりも演奏する感覚がよくわかるはずなのよ。わたしの経験上だけど」


 この、わたしにとって長いと感じる玲香ちゃんの説明ですっと理解するまでに時間がどうしてもかかってしまい、とりかかるまでにかるく一分は考え込んでしまった。


 玲香「えっ、そんなに考えることだったかしら?」

 未咲「あのね玲香ちゃん……わたしね、玲香ちゃんのとなりに座ってしたいな」

 玲香「……ほんとにわたしの話聞いてた? あんたピアノぜんぜん弾いてなくて初心者よね? わたしの言うとおりにしたほうがいいと思うんだけど」

 未咲「それもいいけどね、ちょっと小さいころのことを思い出しちゃって」


 それは、幼稚園の先生がピアノでおうたを歌おうとしたそのときだった。


 みさき「せんせー、わたしピアノよこでひきたーい!」

 先生「えっ? みさきちゃんが弾いてくれるの?」

 みさき「うん! おぼえたてのきょくがあって、それひくの!」

 先生「そう。先生もいろいろ弾きたいから、そのあとでもいいかしら?」

 みさき「やーっ! いまひきたい!」

 先生「もう、しょうがないわね……みんな! これからみさきちゃんがピアノをひいてくれるみたい。知ってるうただったらうたってあげてねー!」

 みんな「はーい!」


 弾いたのはあの「かえるのうた」だった。簡単な旋律だったけど、みんなの前で弾けてうれしかった。


 未咲「ふふんっ」


 ちょっととくいになっちゃった。それからずっとそればっかり弾いてたっけ。


 玲香「……やっぱりやめましょう」

 未咲「なんで?! あのころみたいに弾きたいのに!」

 玲香「いや、これからわたしが弾こうとしてる曲ってむずかしいのよ。ただでついてこれると思ったらそれは違うってこれから教えるつもりなんだから」

 未咲「ぶ~っ……やらせてくれないと玲香ちゃんの前でおもらしするからね?」

 玲香「それはやめてほしいわ……できればどちらもやめてほしいんだけど」

 未咲「わかった……」


 やさしい玲香ちゃんの手。思わずさわりたくなる。


 玲香「ひゃっ……あんたねぇ~~~~っ」

 未咲「わー、玲香ちゃんがおこったー。先生にいっちゃおっかなー」

 玲香「どこにいるのよそんな存在が……まぁ実質いまはわたしが先生ってことは間違いなさそうよね」

 未咲「なんだかややこしいね……玲香ちゃんの先生って意味で言ったんだけど」

 玲香「わかってるわよそんなこと。はい、やるわよ」


 手をたたいたとき、わたしの中で少しスイッチが入る感覚がした。


 未咲「おぉ……玲香ちゃんってこんな音でもやる気にさせてくれるんだ……」

 玲香「当たり前じゃないの。立ってるわよね? ちゃんと」

 未咲「うん、このとおり!」

 玲香「それでこそわたしの未咲だわ」

 未咲「なんかその言いかた、つきあってるふたりみたいでえっちだね……」

 玲香「馬鹿なこと言ってないで、ほら、さっさとはじめるわよ」


 なでられるようにたたかれて、わたしはちょっとうれしかった。


 玲香「ほんと未咲のあたまってどこまでもそっちいっちゃうんだから……」


 そんな未咲とはもうなんとも思ってない。ただの幼馴染だと思った。


 玲香「あの子とはうまくいってるの?」

 未咲「進くんのこと? うん、とってもやさしいし、つきあってよかったなーって……」

 玲香「わたしも早く相手みつけなきゃだめね……こんなことしてる場合でもないんだけど、どうしても最近ちょっと思い出してまたやり始めちゃったのよね……」

 未咲「音楽がすきな男の人とかいないの?」

 玲香「いても大変でしょ。好みが完全に一致してるなんてまれだし」

 未咲「そこは柔軟にいかないとだめだよ~! もしかするとある拍子にぱちんってピースがはまるかもしれないよ?」

 玲香「音楽だけに、かしら?」

 未咲「あっそんなつもりなかった……ごめんね玲香ちゃん、いまの取り消して?」

 玲香「あいにくだけどもう耳に入っちゃったわ。音楽だけに」

 未咲「……それ、あんまりうまくない気がする」

 玲香「これで相殺されたでしょ。これは逆位相ね。わたしのことばで、さっきの未咲の音を消したってわけ」

 未咲「そんなので消えないよ……もっと感じたいな、音楽のこと」

 玲香「そうね、よくよく考えたらまったく逆になんてなってなかったわね……わたし、どうしちゃったのかしら……気持ちは十分受け取ったわ。早速やりましょう」


 同じことばをくりかえしていてもしょうがない。まずはやっていこう。


 玲香「どうかしら、ちょっとは慣れたわよね?」

 未咲「うん……あのね玲香ちゃん……」

 玲香「?」


 よく見ると、太ももがあぶない感じになっている。


 未咲「玲香ちゃんの音楽を頭の中でずーっとくりかえしてたらね、おしっこ……したい気持ちがどんどんあふれてきちゃって、どうしたらいいかわからないの……」


 白鍵と黒鍵を行ったり来たり。目の前のもので喩えるとそうなるかな……。


 玲香「えぇっ……早くいってきなさいよ」

 未咲「だめ……あんなの聴いちゃったらもうどうしていいかわからなくて……やっ……玲香ちゃんあのねっ、いまパンツにちょっとでちゃった……」


 あのときの未咲を見ているようで、動揺が隠せない。


 未咲「そこに花瓶あるよねっ、とって……じゃないと間に合わない……」


 言われたとおり手でつかんで、未咲に差し出す。


 玲香「でもこれ水あるわよ? 抜かなくていいの?」

 未咲「あっそっか……わたしぜんぜん頭まわってない……やっ……」


 ぷじゅっ……久しくこんな音聞かなかったわね……。


 玲香「えっちょっとやめてよ……この水抜いてくるから待ってなさい」

 未咲「鳴りやんで……わたしの頭の中の玲香ちゃんの旋律……あぁっ」


 頭の中で鳴らすたびに制御がきかなくなる。すごい……これすごい。


 未咲「だめだめ玲香ちゃんはやくっ……ぜんぶでちゃう……」

 玲香「はいはいちょっと待って……」

 未咲「だめ……もう間に合わない……よぉっ……」


 内股になるのも久しぶりな気がする。目線は下。


 未咲「おしっこでちゃう……玲香ちゃんの音でわたしの頭めちゃくちゃにされておしっこもれちゃう……こんなの進くんには言えないよぉっ……」


 頭の中のあまいところをずっと刺激されてるような不思議な感覚だった。ふわふわしてるとも感じる。空を飛んでみたい気がする。


 未咲「出す、ね……それがいい気がする……玲香ちゃんになんて思われちゃうかな……いっぱい叱って……わたし玲香ちゃんのとりこになっちゃう……」


 もちろん音楽のことだったけど、とりようによってはそうも聞こえる。


 未咲「あぁ~~~っ♡」


 みじかく叫んだあと、小刻みに震え出してこぼれ落ちていった。寒くはないけど、これだけ我慢したからやっぱりどうしてもそうなってしまう。


 未咲「ごめんね玲香ちゃん……わたし間に合わなかったみたい……」


 もとよりそんなつもりがないように見えてしまいそうで怖かった。動きたくないほど放心してしまった結果、こんなことになっちゃった。


 未咲「これからもいっぱい聴かせてね、玲香ちゃんの音・楽……♡」

 玲香「わたしそんなつもりで別に弾いてないけど……」

 未咲「わたしにはそう聞こえたからいいの……玲香ちゃんってすごい……」


 これでよく過ちがおきないなって思ってしまう。食べてもおかしくないくらい。


 未咲「はぁっ、玲香ちゃんがお肉だったらぜったい買ってるのに……」

 玲香「音楽の話はどうしたのよ」


 あいにく肉断ちもしているので、もはやまったく関係なくなってしまってる。


 未咲「しゅき、しゅきぃっ」

 玲香「やめなさいよ……たんなる動物になってるんだから……」

 未咲「いっぱい聴いて、わたしいつか玲香ちゃんになるぅ……」

 玲香「音楽の話よね、なんとなくちょっと寒気したわよ……」


 胸を両腕で覆う真似をしながら、わたしは気づかれないようにその場を退いた。


 未咲「あれっ、玲香ちゃんどこー?」


 知らない間に出かけてしまって、わたしは水たまりの上に置いてかれた。


 未咲「音楽グッズでも買いに行ってるのかな……待ってよーっと」


 後始末をして、若干しのびないと思いながら玲香ちゃんを待つ。


 玲香「はぁ……」

 未咲「あっ、玲香ちゃん帰ってきた。おかえりー、何してたの?」

 玲香「わたしの家だけどね……トイレ行ってただけよ」

 未咲「えっ? 家にあるのに?」

 玲香「いま入ったら未咲に何されるかわかったものじゃないじゃないのよ……」

 未咲「それもそっか、賢明な判断だねっ」

 玲香「はっきり言ってめんどくさいわよ……未咲のこと考えなきゃいけないし」

 未咲「もうちょっとわたしのこと信じてくれてもよかったのに……」

 玲香「そうもいかないわよ、あんたずーっとふらふらしてたじゃない」

 未咲「玲香ちゃんの音楽でわたしよっぱらいさんになっちゃった~」

 玲香「いい加減にしなさーい!」


 我慢できなくなった玲香ちゃんにチョップもらっちゃった。もう醒めてるよ?


 未咲「いまのでちょっとすっきりしたかも~」

 玲香「やっちゃったあとにそれ言うのやめてもらえるかしら?」


 もうきっと鳴り響いてないんだなと思うとちょっと寂しい。またやろう。


 玲香「今度は大丈夫よね? これで最後よ」

 未咲「うんっ、お願い♪」


 一曲だけ聴かせてもらって、わたしは満足して帰ることができた。

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