第一章 四話:愛を知らぬまま喪失を知る
あと一つ角を曲がれば祭儀所に着くといったとき、その角から一際大きな屠殺者がのそりと現れた。今までの屠殺者が立った熊ほどの大きさだったのに、トレイシーの目の前にいる屠殺者はその倍以上あった。その形も人とはかけ離れてしまっており、地面に着くのではないかという巨大で太い腕と、体中を覆う鎧のような蔦が時折揺れている。巨大な上半身と比べると貧相な下半身をしていて、そのバランスのおかしさに、トレイシーは自分の目が歪んでしまったのかと疑うほどだった。屠殺者の腕にはピンク色の泡立ったような肉がこびり付いており、浴びた血でその体は真っ赤に染まっていた。何度も何度も人の肉を潰し、ミンチになって空気を沢山含むまで殴り続けたのが目に浮かんだ。肩の辺りには蔦の鎧をかいくぐるように短い槍が刺さっていた。あの槍は祭儀所を守っている男たちの武器だったはずだ。やられてしまったのだろうか。
「祭儀所が……。」
つぶやいたトレイシーに屠殺者は、その図体には見合わない速度で距離を詰め、あっという間にトレイシーは屠殺者の間合いに入ってしまった。まずいと思ったときにはその剛腕は振るわれていた。躊躇のない頭への拳は、当たった瞬間に骨を砕け散らせる想像をするに容易かった。考える時間などなく反射的にトレイシーは体を反らせて間一髪で避ける。次の一撃が来る前に大きく飛びのき、屠殺者の間合いから出た。今のは運が良かっただけで、次はそうはいかない。冷汗が腋を濡らし、気持ち悪い。気を抜いたら次の瞬間に死んでもおかしくない状況で、トレイシーは息が詰まる感覚を覚えていた。二度と覚えることはないと思っていたこの感覚。死が目の前まで迫ってきている。
トレイシーは次の瞬間には走り出していた。遅れをとれば死ぬのは必然。ならばこちらから迎えに行ってやろう。
屠殺者はトレイシーの頭を潰すことしか考えていないようだった。奴らの好物は頭だ。そこを狙ってくると予測していたトレイシーは、屠殺者が動きだすのと同時に重心を下げた。頭の上を大きな拳が通り、風を感じたが、ひるむことなく更に近付いた。屠殺者は近すぎて殴ることも出来ず、トレイシーを掴もうとしていた。しかしトレイシーは屠殺者に刺さった槍を目掛けて飛び、それを掴んでも勢いそのままに屠殺者の肩まで駆け上る。屠殺者はトレイシーの捕獲に失敗し、今度は逆の手を動かしだした。トレイシーは力任せに槍を引っ張っている。後ろを見れば、トレイシーを捕まえようと迫ってくる異形の手。
「早く抜けろよ!」
捕まればきっと潰されるだろう。武器が無ければ戦うことも出来ず、あの速さで追いかけられれば、逃げることもできない。最悪の想像しかできなくなったとき、急に体の支えが無くなった。槍が抜けたのだ。そのまま下に落ち、尻餅を着く。上では屠殺者の手が空を掴んでいた。トレイシーは素早く立ち上がり、距離をとる。
手には金属の棒の先を尖らせただけのような短い槍。しかし敵と向き合ったときに感じる圧が少し和らいだ気がした。今度は勝負をできると思った。
屠殺者はすでに動きだしていた。また大振りで頭を狙ってくる。トレイシーは今度は間合いの内側に入ることで避けた。その勢いのまま駆ける。トレイシーはこの屠殺者を見たときから思っていた。
「足が貧弱なんだよ!」
叫びながら屠殺者の膝を貫き、力の限り押した。屠殺者はトレイシーを捕まえるために手を伸ばしていたせいで体を支えることが出来ず、よろけて倒れこむ。トレイシーは槍を持ったまま横に捻り、屠殺者の骨が砕ける音を聞いた。屠殺者は声を出すことなく悶えた。槍を引き抜いたトレイシーは、背中を駆けて口まで向かった。その槍を屠殺者の首の断面についた口にぶち込む。一度刺すと一気に力が抜けた。何度も刺した。屠殺者は太い腕が背中に届かず、上半身が巨大すぎて起き上がることも出来ないようだった。何度も何度も、痙攣を起こし始めても、トレイシーはやめることが無かった。やがて屠殺者の口の原型が分からないほどに潰れ、完全に動きが止まった時、トレイシーは思い出したように立ち上がった。まだリタと母の安否を確認していなかった。しかし、トレイシーはもう期待はしていなかった。もう随分前から悲鳴が聞こえることも無くなっていたからだ。ただ家の焼けるパチパチという音しかなくなっていた。
先ほど屠殺者が現れた角を曲がると、そこには天井の落ちた祭儀所があった。何人も死んだようで、一人分とは思えない量の肉が散らばっていた。トレイシーは努めて無心で辺りを漁った。やがて母のものと思しきボロボロの服を見つけた。もともとボロボロだった服は虐殺の跡を大量に残していた。トレイシーはそれを腕に巻き、歩きだした。リタの家に行かなければならない。リタの家——アルダーソン家の屋敷は村の中心にある。アルダーソン家を中心に村が再構築されたからだ。包囲された村の中心に位置する屋敷など、無事であるはずがなかった。トレイシーが目にしたのは、跡形もなく崩れ去った屋敷の残骸だった。
トレイシーは立ち尽くすしかなかった。なぜ神に熱心に祈っていた彼らが死んで、自分だけ生き残っているのか。なぜいるはずの無い怪物が大挙して押し寄せたのか。なぜ沢山の人が死ななければいけなかったのか。なぜ、なぜ、なぜ。
背後から瓦礫の崩れる音がした。そこには屠殺者がいた。最後の人間の匂いに吸い寄せられたのだろうか、村中にいた屠殺者が全てトレイシーのもとへやってきたようだった。トレイシーは持っていた槍を強く握った。
「お前ら、何人殺したんだよ。思い出せよ。俺が今から、その分だけ殺してやる。」
トレイシーは走った。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。楽しかった。
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