第一章 三話:やってきた悪

 奇妙な物音がして、目が開いた。まだ外は暗く、誰かが起きているとは思えなかった。この状況が夢か現かも分からない。はっきりとしない頭で考えることも出来ず、勝手に体から力が抜けていく。脱力に身を任せ、もう一度眠りに落ちようとしたとき、今度ははっきりと音を聞いた。外からだった。頭の中まで入ってきて、脳を震わすような高く悲痛に満ちた声。背筋を虫が這ったような気色の悪い冷たさが、トレイシーの睡魔を殺してしまったようだった。横を見ると母はおらず、そこには空虚が横たわっていた。

慌てて外に出ると、赤い光が見えた。蛍のような火の粉が縦横無尽に飛び回り、炎は堆く燃え盛っている。黒い影が踊り、炎の渦の中に人がいるのは確実だった。ジマリハ村の家屋はほとんど密集している。あれほど大きい炎に飲まれたらひとたまりもないだろう。しかしあれほどの炎がただの火事で発生したとは思えなかった。はじかれたように走り出したトレイシーは、踊り狂う影の中に異常なものを見つけた。頭の無い人間のような姿をしていたが、人にしては異質に大きく、獣にしてはあまりにも人に似すぎていた。決定的だったのは、そいつがその膂力で村の男を弾き飛ばしていたところだ。やられた男のほうは赤いシャワーとなって降り注いでいた。異形はその手についた血を、切り落とされた首の断面についた、裂けたような口で舐め、満足そうにしていた。

トレイシーは迷うことなく炎のなかに飛び込んだ。母が家にいないのなら、村のどこかにいるはずだった。リタの安否も気になる。こんな状況で一人で生きられるはずがない。異形は突如現れたトレイシーを歓迎しているように見えた。それは異形のものに貰っても嬉しくないものだった。

屠殺者ブッチャーか……?」

 話には聞いたことがあった。悪魔の遣い。悪魔の誘惑に屈した人間たちの屍から発生する、異形の怪物。頭だけが残る遺体に対して、屠殺者には頭がない。その力は人間では到底敵うはずもないものだ。そんな存在が今、目の前にいる。村の祭司が、屠殺者は「頭樹の森」からやってくると言っていたはずだ。この辺りにはそんなものなかったはずだ。なぜこんなところに……。

 屠殺者はトレイシーの方へ向かってきていた。しかし何の策もなくそんなものと対峙しても勝てるはずもなく、肉塊にされるだけだ。トレイシーは最速で走りだした。屠殺者が追いかけてくることはなかった。他の獲物を見つけたようで屠殺者の向かう先には、昼間にトレイシーから逃げていった少年の一人が腰を抜かしているのが見えた。トレイシーはこちらに訴えかける目線から逃げるように、顔をそむけた。大して知らない人間を助けて大事な人を助けられなくなるくらいなら、何人だろうと見殺しにできる。……しなければならない。

 トレイシーは祭儀所に向かっていた。そこは避難するにはうってつけの場所で、戦える者も少しはいたはずだった。走る中、何度も屠殺者が人を殺しているところを見た。皆一様に、頭を粉砕され、屠殺者はその中身を啜っていた。屠殺者は群れを成してやってきたらしく、村は包囲されているようだった。何度も目を背け、その度に謝った。自分のことを嫌っていたとは言え、その人が死ぬのは気分が良くなかった。

「あいつらは神様に愛されてる……。きっと望んだところに行ける……。だから俺が心配する必要なんてない……。大丈夫、大丈夫……。」

しかし何より自分が信じていない神の救いがトレイシーにとって気休めになるはずはなく、自分の矛盾と罪悪感に苦しむばかりだった。そんなことは分かっているのに、謝ることはやめられなかった。

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