第一章 二話:憎を知る少年

 あてもなく村を歩いた。誰かに声を掛けられることはない。神に祈りを捧げない者に親切にしてやる謂れはないらしい。トレイシーの相手をしてくれるのは足元で弄んでいる石ころだけだった。

  この村——ジマリハ村には300人ほどが住んでいて、15歳以下の子供は70人かそこらだ。主都からは近くはないが、街道が通っているおかげで時折旅人や商人が訪れる。リタの家族は金持ちの商人で、近くを通った時にここの景色を気に入ったらしい。確かにここから見える山や川は美しいが、だからと言って移り住んでしまうほどだろうか。酔狂なことだが、リタに出会えたから感謝すべきなのだろう。

 リタの家族、アルダーソン家は金持ちということで最初は嫌われていた。しかしよほど世渡りがうまいのだろう。あっという間に村に受け入れられ、今ではトレイシーのほうが嫌われ者である。嫌われているのはお祈りをしないからという理由だけではないだろう。

 弄んでいた石がどこかに飛んで行ってしまった。力が入りすぎてしまったようだった。目で追いかけると、石は村の子供たちが遊んでいる近くで止まった。石が飛んできたことに気付いた子供たちは、その石の主を探し出し、それがトレイシーだと気付くと逃げ出すように解散してしまった。近くにいた大人がトレイシーに向かって声を張り上げた。

「この野郎、うちの子供に近付くんじゃねえ!」

 吐き捨てるようなその声はトレイシーを拒絶するには十分だった。トレイシーはこんなことには慣れていた。痛みは麻痺と同じで新たな痛みを隠してしまう。傷は確実に広がっているのに、痛みは感じない。この傷は気付くことなく広がり続けるのみだ。

 気付けば空が赤くなっていた。トレイシーはいつもと同じように今日を無為に生きていた。人間の相手をすることは極端に少なかったし、それを望むこともなかった。橋に腰を掛け、足を揺らしながら流れる水を眺める。水面に写った顔は酷く歪んでいて、目元はその中でも最も歪んでいる。落ちるならば自分から落ちてしまえと思って、川に飛び込んだ。頭まで潜り、息が続かなくなって顔を上げる。荒い息を抑えようと努力しながら先ほどまで座っていた場所を見ると、木でできた橋は濡れ、いくつかの暗い染みをつくっていた。トレイシーは染みを覆うように水をかけ、橋の大部分を濡らしてしまった。

「あー……くそ。」

 漏れ出るようなその声は、向かうべき場所を見失っていた。



 村のはずれ、村民は滅多に来ないであろう場所にトレイシーはいた。足元がわずかに見える程度の明るさしかなかった。周りには沢山の小屋が打ち捨てられていた。トレイシーの目の前にあるのはその中の一軒の貧相な家。明かりのない闇の中で、それは確実に存在していた。家畜でも寝ていそうなぼろ屋だが、中に入ると微かに母の寝息が聞こえる。一定のリズムを崩すことなく、安寧のなかで眠っていた。トレイシーは物音を立てないよう慎重に茣蓙に寝転んだ。母とは部屋の反対側に位置する場所だ。雨風がどうにか防げるような、四角いだけの家である。トレイシーは大きく息を吐き、目を閉じる。こうして目を閉じると、自分も何かに包まれるように安心できた。

 服の擦れる音が響き、母が寝返りを打ったのが分かる。目をやると、暗い中で微かに見える母の手は所々ひび割れ、日中の仕事の様子を思い起こさせる。対してトレイシーは拳ばかりが厚く、手のひらは赤子のように柔らかかった。トレイシーは母の手を見ていられなくなって、反対側を向いてしまった。街にはアロエが売っているとリタが言っていた。明日にでも買いに行ってやろうと思った。体力のあるトレイシーなら日があるうちに戻ってこれるだろう。そうと決まれば早く寝ねばと、目を閉じた。


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