第一章 一話:愛を知らぬ少年
空を眺めていた。いつも変わらない青に、同じような形の雲がいくつも流れていく。ずっと続くあの奥に何があるのだろうか。
村のみんなはいつも口を揃えて言っている。ずっと空の向こう側、人の手の届かない場所から神様が見守っていると。神様にお祈りをしないと神様が怒って、災いが起きるそうだ。そんな神様のことが嫌いで、お祈りなどしたくなかった。
「トレイシー!」
向こうから甲高い声が聞こえてきた。いつもいつもその声はトレイシーに浴びせられていて、例に違わずそれはトレイシーの母が発する声だった。トレイシーもまた、いつも通り口を尖らせる。
「なんだよ。」
「お祈りの時間だったのにどこでなにしていたの!もう終わったけど!」
最初はこの発言も愛ゆえだと思っていた。しかし、もうトレイシーはそれが愛からでないことに気付いていた。住人からの視線が痛い。それは母も同じだろう。
「見りゃ分かるでしょ。ここで空を見てたの。」
「神様が怒るよ!」
こちらの話を微塵も聞こうとしない。この村の住人はいつもそうだ。なによりも神様が第一で、その他は我が子だろうと二の次だ。神様は人を愛していると聞いたが、それも無償の愛ではない。そして神様を信じる人も、無償の愛なんてものは持っていない。一人が他人に持てる愛の量は決まっていて、それは全て必ず見返りが求められる。トレイシーはくだらないとしか思えなかった。
トレイシーは目線だけを動かして母を見た。様々なところに皺を作ってまで怒っているせいで、もともと皺だらけの顔がもっとシワクチャになっている。
「わかったよ。ごめんなさい。明日はきっと行くから。」
「昨日もそう言っていたよね?今度こそ約束守ってよ?」
わざと面倒くさそうな声を作って、ハエを追い払うようなジェスチャーをしてみせた。
「わかったって。もういいでしょ?」
大きなため息をついて母はどこかに行ってしまった。トレイシーはまた空を見上げる。瞳が吸い込まれるような感覚が心地よかった。
向こうの家の陰からこっそりと近づく足音に、トレイシーは気付いていた。あえて気付かないふりをして、浮足立つ心を抑える。足音の主は、やがて真後ろまでやってきて大きく息を吸った。そんなことをして気付かれていないと思っていることに笑みがこぼれるが、その中にトレイシーが嘲笑の意図を込めることはなかった。
「わあっ!」
耳元で大声が聞こえたと同時に、弱い力で肩をたたかれた。キーンとする耳を抑えながら、こぼれる笑みを隠して振り向く。そこにはトレイシーと同じくらいの年齢に見える可愛らしい女の子が笑っていた。
彼女はリタ。トレイシーとは同い年で、5年前にこの村に越してきた。以来この村の子供たちと馴染めないトレイシーとも仲良くしてくれる珍しい女の子だ。
「びっくりした?」
「耳が痛いんですけど。」
迷惑そうに眉をひそめて言った。少女はそんなことを意に介さず、屈託なく笑った。
「あはは。また怒られてたね。今日もお祈り行かなかったの?」
「あんなの行っても意味ないだろ。祈ったら神様がなんかしてくれんのかよ。なんであんなの真面目にやるんだか。」
「知らない。でも怒られるよりいいでしょ。」
「そうか?怒られるのなんて怖くないけどな。」
「そんなんじゃ明日もまた怒られてそう……。怒られるの好きなの?」
トレイシーは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに元の調子を取り戻した。
「……ああ好きだよ。馬鹿みたいに怒鳴ってる大人が見られる機会なんてそうそうないんだぜ?」
トレイシーは眉を片方だけ釣り上げて、キザに見えるように笑いながら言った。
「あ、性格悪い。」
トレイシーはわざとらしく呆れ笑う。
「へっ。俺の性格が悪いことなんてとっくの昔から知ってんだろ?」
トレイシーは期待を込めてリタの顔を見た。しかし予想に反してリタは不愉快そうな顔をしていた。トレイシーは思わず自信なさげな声を出してしまう。
「えっ……。どうしたんだよ、リタ……。」
「——ううん、なんでもないよ。……あっ、そうだ。忘れてた。お母さんのお手伝いしなきゃ。」
リタはそういうと踵を返して走り出した。
「じゃあね、トレイシー」
トレイシーに一瞥もくれることなく、リタは走り去ってしまった。トレイシーにできたことは、聞こえたかも分からないほどの声で「またな」ということだけだった。
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