カムザネ

北里有李

プロローグ:降誕の追思

 走る、走る。いつから走っているのか覚えていない。でも走らないとダメなんだ。誰かが呼んでいるから。応えないとダメなんだ。それが生まれた意味。誰にも代わりは果たせない、自分だけの使命。今まで気付けなかった真実だ。

 あらゆるところから血を流し、着ていた服はもうその役割を果たすことはない。靴はとうの昔に壊れ、どこかに行ってしまった。体は滅茶苦茶に傷ついていて、てらてらと赤色に輝く傷口からはとめどなく血が溢れる。でも痛みは感じない。疲れも感じない。何故かはわからないけれど、とても気持ちがよかった。踏みしめる土が、底のない空が、激しく流れる川が、ざわざわと騒ぐ木々が、その全てが自分のためだけに存在している。世界が、歓迎している。

 先は見えない。でも世界が導いてくれる。だから怖くない、いくらでも進んでいける。思わず声が出る。笑いが出る。

「ありがとう世界!ありがとう神様!あはははははははは!」

 風が気持ちいい。顔に当たる風は優しく撫でてくれた。目を閉じると誰かが抱きしめてくれた。

 突然、足が宙に浮いた。いや、地面が無くなったのだ。重力を感じ、視界が上へと流れていく。内臓が浮き、不快感が体を支配する。息が詰まり、目は開いているので精一杯で世界を理解できなかった。どうしようもなく、転落していった。

 無限とも思える時間が流れた後、足が地面に触れ、破壊される。腰の骨が鈍く折れる音がして、下半身が動かなくなる。音とは裏腹に鋭い痛みが波となり、脊髄を伝って脳までやってくる。叫ぼうとしても喉で止まってしまい、声を出すことができなかった。痛みを声で逸らすことが出来ず、直接的な苦しみに悶えるしかなかった。

 先ほどまですべてを肯定してくれていた世界が、なぜこんな苦しみを与えるのだろうか。世界はもう自分に興味を失ったのだろうか。

 そんなはずがないことに、周りへ注意が向けられるほど冷静になってから気付いた。周りは屍で満たされていた。その屍の顔は今死んだかのように表情を保ったままだったが、首から下は朽ちて無くなっていた。そして最も異質だったのは、それから木が生えていることだった。木は天に向かって伸びていて、その最も高いところに果実をつけていた。

 少し前の自分であれば悲鳴を上げて後ずさりをしていただろう。しかし今なら、世界がこれを望んでいることが分かる。迷うことなどない。

 自然に手が果実に伸び、もぎ取った。手が震えているが、それが恐怖でないことは明確に分かった。頭は実を失い、急速に朽ちて無くなった。

 果実を口に当て、ゆっくりと齧りとる。流れる果汁の一滴も残さぬように、すべて啜って味わった。何度も噛んで、その意味を理解した。飲み込んだ後、涙が流れていることに気付いた。

「それが使命——導きか……。」

 砕けていたはずの下半身はいつの間にか元通りになっていた。立ち上がり、天を仰ぐ。遺骸の頭から出る枝は森のように広がり、無数の果実をつけていた。隙間から光が漏れ出る。手を広げ、恵みを自分の全てを以てして受け止める。

「必ず成し遂げます。しかし少しの間、猶予が欲しい。」

 涙はとめどなくあふれ続けた。同時に笑いかける。慈母のような邪悪な笑みだ。

「未だやり残したことがあります。二度と愚かが生まれぬよう、私が必ずや全てを喰らいましょう。」

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