3 猫又幽矢弥という父親

 遠い意識の向こうで何かが鳴っている。甲高くがなるそれは、うとうとと曖昧な意識を強引に現世へと引き戻す。その現象に身体が追い付かない。しかし音は鳴り響き続ける。体の輪郭が戻ると、甲高い音はアラームであることが判り、自然と自分は危機的状況にあると認識させられる。その瞬間、身体機能の全てが接続・覚醒した。

 「ハッ!」と声を上げて上体を起こした。途端に身体が軋む。どうやら無理な体勢で眠りについてしまったらしく、特に腰に痛みが集中している辺り、まったく歳を感じさせられる。

 自分が元居た場所を見ると、ナオも目覚め始めたようだ。振動しながらアラームを鳴らし続けている携帯も、ナオの隣にある。アラームを停止させるついでに、時間を確認した。5:40……急がねば!

 幽矢弥は体中の関節を鳴らしながら立ち上がると、急いでキッチンに向かった。幸いにも白米は昨日の内に炊いてあった。偉いぞ、幽矢弥。

 今回の弁当のメインはから揚げにする予定なので、まず真っ先に油を温め始めなければならない。このボロアパートのガスは死んでいるようなもので、なぜか知らないが湯が沸くのが遅い。油も例外ではなく、目標温度百七十度に達するまでに長くて三十分かかる。これ間に合うのか?

 火にかけている間、他のおかず……の前にナオの朝ご飯を用意しなくてはならない。なにかご飯のお供をすぐに用意しなくては。

 幽矢弥は冷蔵庫から卵とハムを取り出した。油を敷いたフライパンに、まずハムを適当に並べ、その上に卵を落とす。それを適度に加熱して、胡椒をまぶす。五分もせずに完成だ。

 「朝ごはん食べるならご飯盛って。」と、幽矢弥はナオに促した。ちょうど顔を洗って戻ってきたナオが、声を捻りだすようにして返事をした。

 ナオが隣で茶碗に米をよそっている間も幽矢弥の調理は続く。

 先ほどまでハム・エッグを作っていたフライパンで、今度は卵焼きを作る。と言ってもフライパンの形状が形状なので、できるものはさしずめオムレツだろう。仕方がない、洗い物を増やすことは悪なのだ。ナオは甘い卵焼きを好む。卵焼きイコールだし巻き卵のような人生を送ってきた幽矢弥からしたら、それは異文化との交流だった。今となっては慣れてしまったものだが、それでも砂糖は目測で入れられない。その為卵焼きに関しては、冷蔵庫の側面に材料と分量が張られている。言うなれば「ナオ用卵焼きのレシピ」である。それを参考に卵を溶き、再度油を敷いたフライパンに垂らし、形を整えつつ焼いていく。四年続けてきたのだ。慣れたものだ。慣れたもののはずだ。幽矢弥の手先の器用さを総動員してどうにかこうにか形の整えられた卵焼きは、まな板に移され、食べやすい大きさにカットされた。端の部分は幽矢弥がおいしく頂いた。

 さて、弁当作りが一段落したところで、ナオが朝食を食べ終わったようだ。使い終わった食器類を台所のシンクに持ってきた。

 「洗うから置いといて。」

 幽矢弥が声を掛ける。

 「いいよ。やる。」

 ナオが返しながら、スポンジを手に取った。

 「ありがとう。」

 「ううん。」

 「今日どこ行くんだっけ?」

 「M海浜公園。」

 「ずいぶん遠くまで歩くんだな。」

 「ね。」

 「あ、水筒。」と幽矢弥は足元の戸棚からナオの水筒を取り出した。

 「ちょっと蛇口借りるわ。」と断りを入れてから軽く水筒を濯ぐ。

 「今日そんな熱くないってよ?」

 ナオが言った。

 「わからんよ? 予報も外れる時は外れる。」

 「雨は降らないよね。」

 「雨は降らんな。」

 「よかった。」

 油の温度が上がった。今日はコンロが生きていたようだ。

 「油使うから気を付けてね。」と幽矢弥は隣で食器を洗うナオに声を掛けて、冷蔵庫からタレに漬けておいた鶏むね肉を取り出した。

 小麦粉をまぶして、油に放った。

 バチバチと雨のような音を立てながら、早速衣が黄色くなっていく。

 脇目にナオが、幽矢弥が使った調理器具まで洗ってるのが映った。

 「それまでやらんでいいよ。」

 「時間あるもん。」

 「あそう? ありがとう。」

 「ううん。」

 から揚げをおいしく上げるコツは、肉の中心が生の状態で油から上げてしまうことにあるそうだ。その後、余熱で中まで火を通すことでジューシーな仕上がりになるそうだ。問題なのはその「中心が生の状態」が見てわからないことだ。日頃、油の処理が面倒で、揚げ物を忌避していた幽矢弥だが、遠足の日にはから揚げを弁当に入れてほしいというナオの要望に応えて、幽矢弥は二か月ぶりに揚げ物を作っている。しかし二か月というブランクは、彼から揚げ物のノウハウを奪ってしまった。ちゃんと火が通っているのか、判らない。いっそ少し焦げていた方が安全か? いや、それではナオの期待に沿えない。もはやから揚げの雰囲気を見て油から上げるか判断することにした。

 「ああ、これはもう食べてほしそうだな。ああ、これはまだその時ではないって言ってるな。」と言った具合だ。

 そうして完成した一つを、試しに半分に切ってみた。じゅわっと脂が漏れ出し、生姜の香りも漂っている。完璧だ。半分口にする。塩気が少し強いが、ご飯のお供になることを考えるとちょうどいいだろう。美味い。非常に美味い。

 「ナオ。」

 手が泡だらけのナオが幽矢弥に顔を向ける。

 幽矢弥がから揚げのもう半分をナオに近づけると、ナオが少し首を伸ばしてそれを咥えた。幽矢弥がそれを押し込むと、ナオは咀嚼をはじめた。

 「おいしい。」と鼻から満足気に息を吐いた。

 (よかった……。)

 弁当作りも残るは盛り付けと隙間の埋め合わせになった。四角形の箱の半分より少ないくらいに白米を詰め込み、残るスペースにから揚げ数個と卵焼きを、仕切りと一緒に詰める。生まれた隙間には解凍した冷凍ブロッコリーを差し込み、上から少し醤油を垂らした。後は弁当が痛まない様に冷まし、見た目のバランスを見て安直にプチトマトを放るだけだ。いったい何度プチトマトに救われたことか。

 この段階に到達したとき、時刻は六時半を過ぎた所であった。ナオが家を出るのは七時半なので、余裕をもって弁当を完成させたと言えるだろう。忘れない内に水筒に麦茶を用意し、これで落ち着ける。幽矢弥はナオの朝食と同じものを用意して、テレビ前の足の低いテーブルに着いた。同じく足の低いソファに腰かけ、ニュースを見ながら朝食を摂り始めた。

 幽矢弥の隣にはナオが、インスタントのミルクティーを啜りながら、幽矢弥のようにテレビを眺めていた。テレビは直近に起きた大火事のその後について報道している。

 幽矢弥の暗殺が報道されたことは、今までで一度しかない。幽矢弥やその他の暗殺者の仕事は、大抵が庶民に見せるべきではない裏社会の面なので、電波に乗ることはまずない。稀に裏と関わりのあった著名人が殺されたことはニュースになるが、そのほとんどにカバーストーリーが適用されている。幽矢弥が大物演歌歌手を殺害したときもそうだった。

 それに比べて、この大火事のニュースは平和だ。しかも原因は寝たばこだというじゃないか。

 「ふぅん。」とナオが唸っている。ミルクティーが減っていない辺り、まだ熱いのだろう。

 そうこうしている内に、番組が七時を告げた。ナオもミルクティーを飲み終えていた。

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