クリスマス、結ばれる夜【最終話】

 付き合い始めてから約一か月。雅貴まさたか幸子さちこの仲は、数回のデートとほぼ毎日の電話によって急速に深まった。幸子が雅貴の部屋に泊まったことも、雅貴が幸子の部屋で添い寝をしたこともあった。互いに互いを欲する気持ちが強くなっている。


 雅貴はクリスマスデートの計画を入念に立てていた。幸子を絶対に喜ばせたいと張り切った。

 カジュアルな洋食レストランを選んだのは、幸子がかしこまった場所を好まないことも知っているからだ。

 いつもスニーカーを履いている幸子が、この日はショートブーツを履き、ワンピースを身にまとっている。まだ雅貴の知らない幸子の姿があるのだと分かった。




 夕食の後、雅貴はあらかじめチェックインを済ませておいたホテルの部屋に幸子を案内した。中に入ると幸子は子どものようにはしゃいだ。窓から見える夜景に、大きなベッドに、広い浴室に。

「すごいね! わたし、こんなとこに泊まったことないよ! ・・・・・・ねえ、ここって高いんじゃない? やっぱり、わたしも少し払うよ」

「こういうときは彼氏にかっこつけさせてって言ったでしょ。幸子が喜んでくれれば、俺は最高に嬉しいよ」

 幸子は「ありがとう」と言って雅貴に抱きついた。


 ソファに並んで腰掛け、プレゼントを交換する。

 幸子からのプレゼントは革製のキーケースだった。一緒に渡された封筒にはクリスマスカードと幸子の部屋の合鍵が入っていた。

 幸子が生理痛のためにデートの予定がキャンセルになったことがあった。幸子はその日のことを申し訳なく思い、雅貴に合鍵を渡すことにしたのだと話した。

「これって、いつでも幸子の部屋に行っていいってことだよね」

「うん。いつでもいいよ」

 幸子から信用されている証だと感じた。

 二つ折りのクリスマスカードを開こうとすると、幸子が止めた。

「あの、恥ずかしいから、帰ってから読んで」

 頬を赤く染めながら幸子は雅貴の袖を掴んでいる。

「分かった。帰ってからじっくり読むね」

 そう言って雅貴は幸子を包み込むように抱きしめた。


 幸子は雅貴が渡した大きな紙袋の中身を見て「わあっ」と嬉しそうな声をあげた。

 雅貴からのプレゼントは、人気があるブランドのルームウエアとソックスだ。モコモコしていて触り心地がとても良い。薄ピンクのものを選んだ。

「ありがとう。すごく可愛い」と言って、幸子はそれらをギュッと抱きしめた。

「その色、好きでしょ?」

「うん」

 普段はモノトーンカラーの服を着ている幸子だが、本当はピンクが好きなのだ。雅貴は聞かなくても分かっている。幸子の部屋はその色でいっぱいだからだ。部屋着も寝具も。

 クリスマスプレゼントとは別に、指輪も用意している。幸子に恋人がいるのだという印にしたい。一緒にいられない時、幸子が他の男に絡まれないように。

 指輪のサイズは幸子が寝ている時にこっそり測っておいた。夜景を見ながら、良い雰囲気になったところで「一緒に暮らそう」と言って渡す予定だ。


 幸子が落ち着かない様子で「お風呂に入るね」と言って浴室に向かった。雅貴はその間にクリスマスカードを読むことにした。

 カードを開くとクリスマスツリーが立体的に起き上がった。そして、丸い文字で文章が書いてある。

〈好きになってくれてありがとう〉

 その一文に胸が熱くなった。読んだことが幸子にバレてしまうが、雅貴はホテルのポストカードにメッセージを書いた。「俺ならすぐに返事を書く」と中学生の雅貴は初恋の人に言ったのだ。


 しばらくして、幸子がバスローブを着て出てきた。いつも露出の少ない服装をしている幸子の素肌が見えて、雅貴は生唾なまつばを飲み込んだ。

「早かったね。ちゃんと温まってきた?」

 雅貴は興奮を隠しながら紳士的に振る舞う。

「うん。雅貴さんも入ってきて」と幸子がかした。

 雅貴は風呂にかりながら、このまま欲望を抑え切れるのだろうか、と自信がなくなっていた。少しくらいは先に進みたいが、幸子に嫌な思いをさせたくない。




 雅貴が浴室から出ると部屋の明かりが少し暗くなっており、ベッドの上にはバスローブ姿ままで正座をする幸子がいる。

「どうしたの? えっと、パジャマもあるよ」

 雅貴はチェストの上に用意されたホテルのパジャマを手に取ろうとした。

「ここ、座って」と幸子が膝の前を指したので、従って同じく正座をする。

 突然、幸子がバスローブを脱いだ。大きな花の刺繍が目を引く紺色の下着を身につけている。

 紺色。それは数日前に雅貴が教えた好きな色だ。クリスマスプレゼントの話だと思っていたが、もらったのは茶色のキーケースで、何のために聞かれたのだろうと不思議に思っていた。


「あのね、今日、しようよ」

 幸子がまっすぐに雅貴の目を見て言った。

「するって、何を?」

 言いたいことは分かっているが、雅貴は急な申し出に戸惑ってしまった。

「えっと・・・・・・」と、幸子は頬を赤くして言葉を発しようとしている。

「ごめんね。分かってるよ。本当に大丈夫? 俺は幸子の心の準備ができるまで待つよ?」

 正直なところ、セックスの話を幸子から切り出してくれるのはありがたかった。待つと言った手前、急かしているようで雅貴からは切り出せないと思っていた。

「ちゃんと勉強してきたから大丈夫、だと思う」

「勉強?」

「そういうシーンがある映画を観たの。ほら、雅貴さんがエッチなビデオで勉強したって言ってたでしょ? でも何をどうするのか分からないから調べて・・・・・・」

 幸子がもぞもぞと自分の二の腕や太ももをさする。

「それで、自分で体を触ってみたりもしたんだけど、すごく雅貴さんに触ってほしいなって思って・・・・・・」

 雅貴は片手で口元を押さえて顔を下に向けた。幸子が可愛すぎて笑みを抑えきれない。どこをどう触ったのだろう、と想像するだけで興奮が増した。

「ごめん。こんなの変だよね。っていうか、肌も綺麗じゃないし、スタイルもよくないし、がっかりしたよね?」

 幸子は雅貴の態度を悪く受け取ったらしい。ずっと見たかった幸子の体にがっかりするわけがないのに。

「すっごく綺麗! 今すごく嬉しくて、たぶん気持ち悪いくらいニヤけてて、だから・・・・・・」

「雅貴さんの嬉しい顔、見せて」

 幸子が前屈まえかがみになって、雅貴の顔を覗き込んだ。我慢しきれずに幸子をギュッと抱きしめる。

「可愛いすぎ。好き」

「わたしも、大好きだよ」

 じかに伝わってくる幸子の体温が心地よかった。


「嫌だなと思ったら言ってね。俺はちゃんと幸子に気持ちいいと思ってほしいから。約束できる?」

 雅貴がそう言うと、幸子は枕の下からコンドームの箱と潤滑ゼリーの容器を取り出した。

「えっと、これって・・・・・・」

 ここまで用意しているとは思わず、驚いてしまった。

「調べてきたっていったでしょ?」

 照れながらも堂々とした言い方をする幸子が可愛くて、思わず笑みがこぼれた。

「分かった。せっかく幸子が準備してきてくれたから、できるとこまでしようね」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 互いに目を合わせて笑った。


「部屋の温度は大丈夫? 寒くない?」

「大丈夫。雅貴さんは?」

 幸子はこんな時でも雅貴のことを気にかける。そんな幸子を大切にしたいと強く思う。

「平気」と雅貴は言ってバスローブを脱ぎ、眼鏡をサイドテーブルに置いた。

「触ってもいい?」と幸子が尋ねたので、頷いて答えた。

 幸子の指が雅貴の胸に触れた瞬間、心臓が大きく跳ねた。そのまま幸子を抱き寄せて、何度も何度もキスをする。唇の快楽に溺れそうになりながらも、幸子を傷つけないように優しくしなければ、と雅貴は自分自身にしっかりと言い聞かせた。


 ずっと触れたいと願っていた幸子の体に、手で、唇で、そっと丁寧に触れていく。その肌は柔らかく、滑らかだ。しかし、筋肉は硬く強張っていて緊張しているのが伝わってくる。

 最後までできなくたっていい。幸子が少しでも触れられることに慣れてくれれば、それでいい。

「くすぐったい」と幸子は笑っていたが、だんだんと甘い吐息が漏れていく。

 幸子の同意を得て下着を脱がせ、一糸纏わぬ姿にした。指先で、口で、敏感なところを刺激していく。幸子の気持ちよさそうな反応に雅貴の興奮は高まった。


「雅貴さん、どうしよう」

 幸子が目を潤ませながら言った。

「ごめん、やめたくなった?」

 雅貴は咄嗟に謝った。幸子は首を横に振りながら、雅貴の腕に触れる。

「そうじゃなくって、すごく気持ちよくて、頭の中がふわふわしちゃって・・・・・・」

 頬を紅潮させた幸子の頭を優しく撫でる。

「大丈夫だよ。初めての感覚に驚いたんだね」

「あのね、お尻のとこ、湿っちゃってるけど平気かな?」

 雅貴は幸子の下腹部にそっと指を添わせる。

「えっと、大丈夫だと思うよ。幸子の体が俺を受け入れようとしてくれてるなら嬉しい」

「そうだったら、わたしも嬉しい。けど、ベッドが汚れないかなって」

 予想外の返事に思わずクスッと笑ってしまう。幸子が心配しているので、脱いだバスローブを敷いた。


「指、入れてみてもいいかな? もし嫌ならここでやめておこう」

「やめないで。もっと、触ってほしい」

 雅貴の提案に恥ずかしそうにしながらも、欲しがる幸子の姿を愛おしく思った。

 幸子が用意した潤滑ゼリーを使ってゆっくりと中を撫でていく。心地よい温かさが指に伝わる。


「ねえ、雅貴さん。繋がりたい」

 幸子が泣き出しそうな声で言った。

「えっと、もう少し指で慣らすのがいいと思うよ」

「やだ。我慢できない。雅貴さんが欲しい」

 幸子が雅貴にキスをした。幸子からされるのは初めてだ。辿々たどたどしくも強く求めるような口づけに、こたえずにはいられない。

「準備するから、リラックスしてて」

 目に涙を浮かべる幸子の頭を撫でた。

 幸子が用意してくれたコンドームの箱を開ける。今日のために真剣に調べて考えて買ったのだろうと想像して嬉しくなった。


「緊張してる?」

「うん、ちょっとだけ」

 見つめ合いながら互いに指を絡ませる。

「もう少し力抜ける? 一緒に深呼吸してみよっか」

 雅貴の呼吸に合わせて幸子も呼吸をする。そして、幸子の力が抜けたところでゆっくりと体を重ねた。このまま溶け合って一つになりたい。離れることなくずっと繋がっていたい。

「痛くない? 大丈夫?」

「うん。今、すごく幸せ」

 幸子が雅貴の背中に腕を回した。

「雅貴さん、ありがとう。大好き」

 そう耳元でささやかれて、雅貴の抑えていた欲望が一気にあふれ出した。夢中で幸子を抱く。ゆっくりと優しく動きたかったのに、我慢できない。

 艶のある幸子の声が部屋に響く。幸子の腕が、脚が・・・・・・雅貴を強く締め付けた。




 終わった瞬間に雅貴は後悔の念で胸が痛くなった。本能のままに体が動いてしまい、幸子への思いやりが足りなかった。

 恐る恐る幸子を見ると、息を整えながら雅貴をまっすぐに見つめていた。

「ごめんね。痛くなかった?」

「うん。どこも痛くないよ。雅貴さんは大丈夫? 強くしがみついちゃってごめんなさい」

「大丈夫だよ。密着できて、すごくよかった」

「わたしも」と言って、幸子は嬉しそうに笑った。その顔を見た雅貴の胸には込み上げるものがあった。

「お風呂にお湯、入れてくるね。汗かいたし、冷えないように」

 涙が溢れそうになり、幸子に背中を向けて浴室に向かった。






 雅貴の顔が一瞬、苦しそうに歪んだのを幸子は見逃さなかった。胸騒ぎがして雅貴を追う。

 浴室のドアをそっと開けると、雅貴が両手で顔を覆っていた。湯が注がれる音に紛れて雅貴の泣き声が聞こえる。

「雅貴さん?」

 幸子に顔を向けた雅貴は、目を真っ赤にして涙を流していた。

「ごめん。セックスの直後に幸子のこと放っておくとか、ありえないよね」

 無理に笑顔を作ろうとする雅貴を幸子は抱きしめた。

「ごめんなさい。わたしが間違えちゃったんだよね? どこがよくなかった? ちゃんと教えてほしい」

 痛みに耐えていたのが雅貴に伝わってしまったのだろうか。思っていることが顔に出てしまうタイプだから、雅貴に顔を見られないように抱きついていたのに。繋がった時、本当は少し痛かった。でも、それ以上に嬉しいと思った。

 雅貴が準備してくれた特別な夜だから、絶対に一つになりたいと強く思っていた。今夜できなければ、いつまで雅貴を待たせてしまうのだろうかと不安だった。


「ごめん。幸子が悪いわけじゃないんだよ」

「じゃあ、どうして泣いてるの?」

 雅貴が言葉を詰まらせた。答えが返ってこない。

「言えないこと? もしかして、本当はしたくなかった? わたしのわがままで困らせた?」

 きっと喜んでくれると思っていた。でも、そうではなかったのかもしれない。気持ち良かったのは、自分だけだったのだろうか。何度も「幸子」「好き」と囁く雅貴の色っぽい声に、強く突かれる快感に、酔っていた。過去の嫌なことは全て、初めての日を雅貴に捧げるためにあったのではないかとさえ思った。

「そうじゃない。幸子が準備してきてくれて、幸子と一つになれて、すごく嬉しい。だけど・・・・・・」

 雅貴の声が震える。

「途中から優しくできなくて、終わってから急に怖くなった。幸子を傷つけてたらどうしよう、って。でも、嬉しそうに笑ってくれて、すごくホッとした」

 幸子は雅貴がいつもしてくれるように、雅貴の頭を撫でた。

「俺、幸子のことリードしないとって思って余裕のあるふりをしてるけど、本当はそんなに経験ないんだよ。ちゃんと好きな人と付き合うの初めてで。だから、幸子のことを絶対に大切にするって決めたんだ。なのに、抑えきれなくなった」

 初めてだからという理由で雅貴に甘えすぎたのだと幸子は思った。雅貴の「頼ってほしい」という言葉をそのまま受けとっていた。勝手に経験が豊富なのだと思っていて、雅貴が不安を抱えているなんて考えもしなかった。


 雅貴が幸子の目を見つめる。

「ごめんね。俺、こんなで。がっかりしたでしょ?」

「なんで? 雅貴さんは雅貴さんでしょ? がっかりなんてしないよ。大好きだよ」

 幸子は雅貴から不安を取り除くように体をさすった。

「わたしには雅貴さんだけだから、ずっと一緒にいるよ。離れたりなんかしない。かっこつけなくていいし、泣いたっていいよ」

「俺は幸子が思ってるような人間じゃない。幸子の全部を俺のものにしたいし、誰にも触らせたくない。もっと激しく抱きたいとか、欲望まみれで汚いんだよ」

「それなら、わたしだって汚いよ。雅貴さんにわたしのことだけ見ててほしいと思う。ずっと、ずーっと、わたしは雅貴さんだけのものだよ。だから、したいようにしていいよ」

 これは本心だ。雅貴の傍にいられるなら、どうなったっていい。

「怖くないの?」

「うん。だって、すっごくすっごく好きだから。雅貴さんなしの人生なんか考えられないくらい大好き」

 雅貴は嬉しそうに口元を緩めた。

「俺も幸子なしの人生なんか考えられない。愛してる。絶対に幸せにする。だから、俺と結婚してほしい」

 幸子はギュッと雅貴に抱きついた。

「嬉しい。わたしも絶対に幸せにするね」

 強く抱きしめ合った。

 



「ねえ、お風呂入ろ?」

 幸子は湯が溜まったバスタブを指差しながら言った。

「幸子が先に入って。俺は後でいいから」

「そうじゃなくて・・・・・・一緒に入ろうよ。大きいから二人で入りたいなって。ダメ?」

 映画で観たことのあるカップルが一緒に入浴するシーンを、雅貴とやってみたいと思った。

「ダメじゃない。一緒に入ろう」と、雅貴は嬉しそうに笑った。


 幸子は雅貴の脚の間に正座をして向き合う。

「俺に背中を向けた方が楽じゃない?」

「ちゃんと雅貴さんの顔を見ていたい。また泣いちゃうかもしれないでしょ」

 雅貴は困ったように笑い、幸子を抱き寄せた。幸子も雅貴の首に腕を回し、もたれかかった。

「ちょっと冷静になって考えたら、さっきのタイミングでプロポーズってさ・・・・・・」

 雅貴がモゴモゴと言葉を口にする。

「もっといい雰囲気でしたかったし、されたかったよね」

「わたしは嬉しかったよ。雅貴さんの本音を聞けて、結婚しようって言ってくれて」

「そっか。幸子が喜んでくれたなら、俺も嬉しい。今日、本当はさ、一緒に暮らそうって言おうと思ってたんだ。幸子と会えない時間がつらくて。また誰かに嫌なことされてないかな、とか考えて・・・・・・」

「わたしも雅貴さんと離れてる時はすごく寂しい。ずっと雅貴さんのことを感じてたい。離れたくない」

 雅貴と幸子は甘い口づけを交わす。


「あのね、ちゃんと話したいことがあって・・・・・・」

 幸子は抱えていた不安を口にすることに決めた。

「雅貴さんは、えっと、子どものことって考えてる?」

「んー、考えてないよ。どうして?」

「わたし、四十歳になったでしょ。これから年齢を重ねていくと、難しくなってきちゃうのかなって不安で。雅貴さんの期待に応えられなかったら嫌われると思って・・・・・・」

「話してくれてありがとう。子どものことは幸子が一人で考えることじゃないよ。二人で一緒に考えよう」

 幸子はホッとして泣き出してしまった。雅貴が優しく頭を撫でる。

「幸子は子どものこと、どう考えてるの?」

「まだ分からない。雅貴さんのことを好きになるまで、わたしの人生には結婚とか出産っていう選択肢がなかったから」

「これから話し合っていこう。結婚したからって子どもがいなきゃいけないわけじゃないんだから。ね?」

「でも、雅貴さんのご両親は? 孫の顔が見たいとか思わない?」

「大丈夫だよ。俺の弟のとこに四人も子どもがいてね、俺には期待してないから」

 それでも幸子の心は晴れなかった。長男である雅貴に期待しないことなどあるのだろうか。もし子どもを授かることができなくても歓迎してもらえるだろうか。そんな不安を察したのか、雅貴は幸子を強く抱きしめて「大丈夫」と繰り返し言った。

「今みたいに言いたいことがあったらちゃんと言ってね。ちゃんと聞くし、幸子が不安なんて感じないくらい、全力で愛するから」

 幸子も強く抱きしめ返した。

 



 幸子がホテルのパジャマを着て浴室から出ると、同じパジャマ姿の雅貴が窓辺に立っている。カーテンを開けて夜景を見ているようだ。

 雅貴が手招きをして幸子を呼び寄せる。指示されたところに立つと雅貴はひざまずいた。そして、両手に収まるほどの小箱を開くと、中にシルバーの指輪が入っているのが見えた。

「受け取ってくれる?」

 幸子は驚きのあまり声が出ず、黙って頷いた。雅貴が幸子の左手の薬指に指輪をはめる。

「見て。俺とお揃い」

 雅貴の左手にも同じ指輪が光っている。波を打つような曲線が美しいデザインだ。

「シンプルな方が普段から付けやすいかなって。幸子はアクセサリーを身に付けないから」

「ありがとう」と言うのと同時に涙が頬を伝う。セックス、プロポーズ、同棲、これからのこと・・・・・・。全てが嬉しくて、幸せすぎて。

「どうしたの? 気に入らなかった? ちゃんとダイヤの指輪も買うし、もう一回プロポーズするし・・・・・・」

 幸子は慌てふためく雅貴に抱きついた。

「違う。嬉しいの。本当はずっと憧れてた。わたしには必要ないって強がってたけど、雅貴さんが叶えてくれて嬉しい」

 出会ってから雅貴は何度も幸子の願いを叶えてくれた。

「泣くほど喜んでくれて、俺も嬉しいよ。幸子の夢は俺が全部叶えるから、遠慮しないで言ってね」

「雅貴さんの夢は? わたしも雅貴さんの夢、叶えたい」

「じゃあね、お姫様抱っこさせてくれる?」

「重いよ?」

「平気、平気。幸子はそんなに重くないから。俺の夢、叶えさせて」

 雅貴の指示に従って首に腕を回すと、ひょいっと幸子を抱き上げた。そのままベッドへと向かう。


 広いベッドに横たわって抱き合う。

「明日、幸子のとこに泊まっていい?」

「わたしが雅貴さんのとこに行くよ。疲れてる雅貴さんに遠くまで来てもらうなんて・・・・・・」

「俺、もらった合鍵を早く使ってみたいからさ。これからのことも早く話したいし」

「うん」と頷いて、幸子は雅貴の胸に顔をうずめた。

 幸子は眠ってしまうのが怖くなった。幸せすぎて、夢を見ているのではないかと思った。






 翌朝、幸子が目を覚ますと隣で眠る雅貴の姿がある。夢ではなかったのだと、胸を撫で下ろす。

 幸子が雅貴の寝顔を見るのは初めてだった。幸子がその愛おしい顔を眺めていると、雅貴も目を覚ました。

「おはよう」と雅貴は寝起きのフニャフニャとした声で言い、幸子を抱き寄せる。

「おはよう」と幸子も返す。

 互いの髪を撫で合う指には揃いの指輪が輝いている。


「今晩のごはんどうする?」

「幸子がいつも食べてるものが食べたい。作ってもらっていい?」

「いいよ。やっと雅貴さんのために作れるね。あ、でも、雅貴さんの料理がおいしいから、あんまり期待しないでおいてね」

「じゃあ、期待しないで楽しみにしてる」

「なにそれ」と言って笑い合う。

「今日は仕事、できるだけ早く終わらせて帰るから。俺が行ったら、おかえりって言ってほしい」

「じゃあ、ただいまって言ってね」

 どちらからともなく自然に唇を重ねた。


 二人は手を取り合い、未来へと歩み始めた。

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不器用なアラフォーの恋 紗久間 馨 @sakuma_kaoru

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