幸子の部屋にて

「寒いからコート着たままでいいよ」

 雅貴まさたかを部屋に入れて、幸子さちこは言った。雅貴は「大丈夫」とコートを脱ぐ。

「ここに座って」

 幸子は壁際に置いた三つ折りのマットレスを指定した。そして、その側に小型の電気ストーブを移動させる。


「狭いし、物は少ないし、つまんない部屋でしょ」

 幸子は電気ポットに水を注ぎながら言う。

「そんなことないよ。幸子の部屋に来れて嬉しい」

 その言葉に反して、雅貴はなぜかいぶかしげな顔をしていた。幸子は生活の質の差が原因だと思い、恥ずかしい気持ちになった。


 玄関を入ってすぐの小さなキッチン。部屋の奥では、すのこを山型に立てて掛け布団を干すように被せている。小さめの棚と折りたたみテーブル、小型の家電。クローゼットだけは少し大きい。




 前日に雅貴の部屋に泊まった幸子は、雅貴の希望で部屋まで送ってもらうことになった。

 最寄り駅に着いたのは昼前。互いにあまりお腹が空いておらず、そのまま幸子の部屋に向かうことにした。途中、幸子は「ここのケーキ大好きなの」と、近所の洋菓子店でお気に入りのシフォンケーキを買ってきた。


「部屋の中、いい匂いするね」

 雅貴が鼻で思い切り息を吸う。

「たぶん、ヒノキの匂い、かな」

 そう言って幸子は精油の小瓶とアロマストーンをテーブルに置き、使い方を説明する。一滴のオイルが瓶から落ちると、ストーンにじわりと染み込んだ。

「それだけでいいの? 俺も使ってみたいな」

「火とか使わないし、いいと思うよ」

「俺の部屋を幸子の部屋と同じ匂いにするんだ」

 雅貴は嬉しそうに笑って言った。

「えー、雅貴さんの部屋は雅貴さんの匂いがいいよ。同じアロマオイル使うんだったら、わたしも雅貴さんと同じ香水が欲しい」

「メンズのだけど、幸子がつけるの?」

「えっと、寝る前に枕元につけたら、一緒にいる気分になれるかなって・・・・・・」

 幸子は照れて視線をそらした。

「ダメ。匂いで満足されたら俺が必要なくなっちゃうから、ダメ」

「匂いだけで満足なんてできないよ」

 幸子は湯が沸いたと理由をつけて立ち上がった。自身の発言によって顔が熱くなっていた。雅貴の腕が幸子に向かって伸びるのが視界の端に見えたが、気づかないふりをした。


 幸子はシフォンケーキの乗った皿とマグカップを二つずつテーブルに置き、熱い緑茶を注いだ。そして、テーブルを挟んで雅貴の正面に座る。

「もしかして、暖房ってこれだけ?」

 雅貴は電気ストーブを見ながら言った。

「うん。あと大きめのブランケットとか湯たんぽとか使うよ」

 幸子は畳んでおいたブランケットを両手で広げて見せる。

「やっぱ寒いんでしょ? これ使って」

 ブランケットを掛けようと雅貴に近づくと、幸子は手を引かれた。雅貴は幸子を隣に座らせ、肩を寄せながらブランケットを二人の膝に掛ける。

「これなら一緒にあったかいよ」

 幸子はうなずいて雅貴に寄りかかった。


「幸子、あーんして」

 雅貴がフォークに一口大のシフォンケーキを刺して幸子の口に近づける。幸子はそれをパクリと食べて、雅貴にも同じようにして食べさせる。

「幸子に食べさせてもらうとおいしい」

 嬉しそうな顔をする雅貴の口に、幸子は次々とケーキを運んだ。あっという間に食べ終えてしまったので、幸子の分も雅貴に食べさせた。

「あ、全部食べちゃって、ごめん」

 雅貴は二人分のケーキを食べていると気付いていなかったらしい。

「だって、雅貴さんがすっごくおいしそうな顔してたから、嬉しくて」

 幸子が笑うと、雅貴も「すっごくすっごくおいしかった!」と言って笑った。




「あのさ、ここって友達とかよく来るの?」

 雅貴が探るように尋ねた。

「来ないよ。たまに家族が来るくらいかな。どうして?」

 雅貴は何か考え込んでいる。

「一人暮らしのわりには食器がペアで揃ってるよね。・・・・・・っていうか、玄関の男物の靴とかさ、すっごく気になる!」

 靴だけではなく、男物の服もハンガーでカーテンレールにかけっぱなしになっている。幸子にとっては日常の景色だった。

「あー、それ兄の。女の一人暮らしは危ないから男の影があった方がいいって」

 幸子が実家を出て一人暮らしを始める時に、長兄が心配をして置いていった物をお守り代わりにずっと持っている。食器は家族が来た時に使うのだと説明した。

「お兄さんのかー。誰のだろうって嫉妬で気が狂いそうだったよ」

 話を聞いた雅貴が安堵するように息を吐いた。雅貴の訝しげな顔はそのせいだったようだ。

「でも、もう心配ないね。俺がいるから」

 雅貴が幸子の手を取りながら言い、幸子も手を握り返して「うん」と頷いた。


「もしかして、お兄さんの服を引っ張る癖ない?」

「あんまり意識したことないけど、あるかも」

 雅貴はクスクスと笑って「やっぱり」と呟いた。

「幸子、俺の服も引っ張ることあるよね」

「え? 本当? ごめんなさい」

「謝ることじゃないよ。むしろ、やってほしい」

 幸子は「こう?」と言って雅貴の袖を軽く引いた。

「それ。なんかキュンとする」

「そうなの? じゃあ、雅貴さんもやってみて」

 幸子がそう言うと、雅貴が幸子の服を脇腹のあたりでつまんだ。

「んっ、そこ、くすぐったい」

 仕返しに幸子も雅貴の脇腹に触れた。幸子は雅貴が笑うと思っていたのに、予想とは違う甘い声を漏らした。

「くすぐったくないの?」と、幸子は雅貴の脇腹をさらに触った。

「もう、それ以上はやめて」

 雅貴は苦しそうな表情で、息を荒くしていた。幸子はやりすぎたと反省して「ごめんなさい」と謝った。

「いや、幸子は悪くなくて・・・・・・。本当は触られたいんだけど、今はダメなんだよ。ごめんね」

 幸子の頭を優しく撫でながら、雅貴が微笑ほほえんだ。

 



「年末年始は帰省するの?」と雅貴が尋ねる。

「うん。いつもなら帰らないんだけど、今年は家族と過ごしたいなって思って。雅貴さんは?」

 幸子は冷めてしまった緑茶を飲みながら話す。

「俺は日帰りで帰る予定。遠くないからサクッと行ってくる感じかな」

「そっか。今度、雅貴さんのことを家族に紹介したいな」

「えっ? 本当に? それってさ、つまり・・・・・・」

 幸子が何の気なしに言ったことに雅貴が強く反応を示した。

「先月ね、お兄ちゃんたちに会って、好きな人がいるって話したのね。それで、ちょっと心配させちゃって。雅貴さんに会えば、安心してもらえるだろうし」

「そっか。そういうことか」

 雅貴は少し残念そうな表情を浮かべた。

「ねえ、いつか一緒に旅行したいね」

「それいいね。・・・・・・あー、温泉とか行きたいなー。幸子の浴衣姿、見てみたい」

 雅貴が楽しそうに話すので、幸子はホッと胸を撫で下ろした。


「旅費のために短期のバイトもしようかな」

「いや、そこは俺が出すから大丈夫だよ。幸子と会う時間が減るの嫌だし」

「自分のは自分で払うよ」

 幸子がそう言うと、雅貴がため息をついた。

「俺、頼りなく見えてるのかな」

 悲しそうな声に幸子の心がチクリと痛んだ。

「そんなことないよ。いつもリードしてくれるし、わたしの知らないことを教えてくれるし、すごく頼りにしてるよ」

「じゃあ、もっと頼ってよ。幸子って気を遣いすぎるとこあるけど、俺には遠慮しないでいっぱい甘えてほしい」

 雅貴の目が潤んでいるように見えた。

「たくさん甘えてると思うし、あんまり迷惑かけたくない」

「なんで? 俺が幸子のこと迷惑に感じると思うの?」

「どのくらい甘えていいのかわからないし、甘えすぎて嫌われたくない」

「幸子が思ってる以上に、俺は幸子のこと好きだよ。大好き」

「わたしも雅貴さんのこと、大好きだよ」

「じゃあ、難しく考えないで甘えてみてよ。キスしたいとか、一緒に寝ようとか、幸子から言ってくれて嬉しかったよ」

 幸子は少し考えた後、雅貴に抱きついた。

「今はこうやって、くっついてたい。いい?」

「いいよ」

 雅貴は優しく笑って、幸子を受けとめた。

「幸子のことを尊重して、普通のデートは割り勘にするけど、特別な時は俺が出すから。彼氏にかっこつけさせるのにも慣れてね」

「うん」と幸子は頷いた。


「もっと聞かせて。幸子のしたいこと。なんでも言ってみてよ」

 雅貴の顔を見ながら幸子は考えた。雅貴は待ちきれないという様子でソワソワしている。

 幸子は水族館、動物園、散歩など一緒に行きたい場所を挙げていった。雅貴は頷きながら聞いている。

「ねえ、雅貴さんのしたいことも知りたい」

「俺のしたいことは、怖いくらいに叶っていってるよ」

 部屋に泊まってくれたこと、幸子の部屋に来られたこと、たくさんキスしたこと・・・・・・。そして、これから先は花見や海に行きたいと言った。

「あとは、まだ内緒」

「なにそれ、ずるい。わたしは言ったのに」

「じゃあ、幸子が帰ってきたら一緒に初詣に行こう」

 幸子は「絶対に行こうね」と雅貴に笑いかけた。


 温もりを感じ合いながら、互いのことを知っていく。とても幸せな時間を過ごした。そして、次の日曜日に会う約束をして雅貴は帰っていった。






 しかし、約束の日曜日、幸子の体調が悪くなってデートは中止になった。


 幸子は布団の中で、ぼんやりと雅貴のことを考えていた。急に行けなくなってしまった申し訳なさで泣きそうだった。


 午後十二時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。ゆっくりと体を起こして玄関に向かう。ドアスコープを覗くと、雅貴の姿が見えた。急いでドアを開ける。

「なんで・・・・・・」

「心配だから来てみたんだけど、熱は? 大丈夫?」

 雅貴は幸子のひたいに手を当てた。

「熱はなさそうだね。・・・・・・部屋、あがらせてもらうね」

 幸子はうまく言葉を発することができず、無言で雅貴を室内に入れた。


 雅貴は手に持っていたレジ袋をテーブルに置いた。

「プリンとかゼリーとか食べやすそうなのと、スポーツドリンク。お昼ご飯、食べた? 今、何か食べる?」

 優しく気遣う雅貴に、幸子は泣いて謝った。

「ごめんなさい。風邪とかじゃなくて・・・・・・。生理痛、なの。痛み止めがなかなか効かなくって。恥ずかしくて本当のこと言えなくて、ごめんなさい」

 弱々しく言葉を口にする幸子を、雅貴の腕が優しく包み込む。

「泣かないで。本当に具合が悪いんでしょ? 謝ることなんて全然ないんだよ」

 雅貴は幸子の頭を撫でて、背中をさする。雅貴の声と体温が、幸子を安心感で満たした。


「俺にできることって何かあるかな? ご飯作るとか、足りないものがあれば買ってくるし。何でもするよ」

「うーん。・・・・・・あのね、添い寝してほしい」

 幸子が言うと、雅貴が「いいよ」と答えた。

「すぐ寝ちゃうと思うから。そしたら帰っていいから」

 幸子は部屋の鍵を「郵便受けに入れておいて」と雅貴に渡した。


 布団と雅貴が幸子を包む。

「腰に手を当ててもらっていい?」

 幸子に従って雅貴は手をそっと腰に添える。

「あったかい。ありがとう」

「今日、来てよかったよ。幸子に会えたし、甘えてくれたし」

「わたしも会えて嬉しい。でも、迷惑かけちゃってごめんね」

「もう謝るのやめにしよ? 俺が来たくて来たんだから」

「ごめん」

「ほら、またー」

 雅貴が笑うと、幸子もつられて笑った。

 

「今日の幸子、ふわふわしてて可愛いね」

「えー。可愛いのはフリースでしょ」

「違うって。それを着てる幸子が可愛い」

 幸子は「嬉しい」と言って、雅貴にぴたりとくっついた。

 まぶたが重くなり、幸子は言ったとおりすぐに眠った。




 幸子が目を覚ますと、おいしそうな匂いが部屋に漂っていた。布団にはいつも以上に温もりがあって、とても心地良い。そして、寝起きのぼんやりした視界には誰かの姿がある。目をこすると隣で横になる雅貴がはっきりと見えた。その目は幸子を見つめている。

「えっ? なんで?」

「具合どう? 大丈夫?」

 幸子は雅貴がいる理由を思い出した。

「えっと、だいぶ、楽になった」

「よかった」

 雅貴の心配そうな表情が笑顔に変わった。

「帰らなかったの?」

「郵便受けに鍵を入れとくの危ないなって思って。幸子に何かあったら嫌だし」

「ごめん。添い寝なんてお願いしたから・・・・・・」

「謝るのなし、って言ったの忘れちゃった? 俺は一緒にいられて嬉しいよ」

 雅貴は幸子をそっと抱きしめた。

「雅貴さん、大好き」

「俺も大好きだよ」


 グウーと幸子のお腹が鳴った。午後三時を過ぎていた。

「お腹すいたでしょ。スープ作っといたんだ。食べる?」

 幸子は首を縦に振って答える。

「用意するから待っててね」

 幸子が眠っている間に買い物と料理をして、再び布団に戻ったのだと雅貴は言った。


 白いスープが入ったお椀がテーブルに置かれた。

「鶏肉とホウレンソウのクリームスープだよ。口に合うといいな」

「いただきます」と両手を合わせて、スプーンを手に取る。フーフーと息を吹きかけて、スープを口に運ぶ。

 雅貴は幸子の反応をじっとうかがっている。

「おいしい!」

 幸子がそう言うと、雅貴はホッとした表情で笑った。

「ネットで調べたら、ホウレンソウとかが良いって出てきたから、こういうのはどうかなって。体も温まるし」

「わざわざ調べてくれたの? ありがとう」

「幸子のためにできることをしたかったから。役に立てて嬉しいよ」

 雅貴の優しさによって、幸子は心も体も温かくなっていた。




「俺がいると休めないよね。寂しいけど帰るね」

 食器の片付けを終わらせた雅貴がコートを羽織りながら言う。

 玄関を出る前に「ゆっくり休んでね」と雅貴が幸子の頭を撫でた。幸子は離れ難くて雅貴に抱きついた。

「ありがとう。愛してる」

「そんなこと言われたら、帰りたくなくなっちゃうなあ」

 幸子を強く抱きしめて、雅貴も「愛してる」と耳元でささやいた。


「次に会えるのはクリスマスだね」

「うん」

「出張、行きたくないなあ・・・・・・。毎晩、電話していい?」

「うん」

 玄関で抱き合ったまま、幸子は雅貴の言葉を聞いていた。

「体が冷えたら悪いから、本当にもう帰るよ」

「・・・・・・うん。帰る前に、キスしてほしい」

 雅貴が幸子の唇に軽くキスをすると、幸子は「もう一回」とねだった。

「可愛すぎて帰れなくなりそう。けど、もう今日は終わりね」

 もう一度だけ唇を重ねて、雅貴は帰っていった。


 布団に戻った幸子は、かすかに残る雅貴の匂いを感じていた。雅貴の温もりが欲しくて欲しくてたまらなかった。雅貴の声で何度も何度も名前を呼んでほしいと思った。恋しくて恋しくて涙が溢れた。

 全てを捧げるから満たされたい。幸子の雅貴を思う心は止まらなくなっていた。

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