雅貴の部屋にて

 朝、炊飯器の電子音で雅貴まさたかは目を覚ました。ほのかに米の匂いが漂っている。

「あれ? 米、炊いたっけ?」

 そして、いつも以上に温かい布団、体に感じる重み。視線を体に向けると、雅貴を抱き枕にするように腕と脚を絡めて眠る女性の姿がある。

幸子さちこ? ・・・・・・あー、そうだった」

 前日に幸子を部屋に招いて、そのまま泊まらせたことを思い出した。






「どうしよう。わたし、葵君のこと泣かせちゃった」

 二人で訪問した吉村家で予想外の展開になり、慌てて帰ることになってしまったことを、幸子は気にしていた。

 吉村夫妻が気を遣って二人で過ごすよう勧めてくれた。とてもよく晴れていて良いデート日和だと雅貴は思っていた。

「俺が大人気ないこと言ったのが悪いんだから、幸子は悪くないよ」

 雅貴がそう言葉をかけても、幸子の心は晴れない様子だ。

「・・・・・・よかったら、うち来る?」

 きっともう今日はデートをする雰囲気ではないが、まだまだ一緒にいたい。そんな気持ちで言葉を発した。

「あー、ごめん。付き合い始めたばかりなのに、部屋に誘うとか普通じゃないよね。ごめん。他に考えるね」

 考えなしに言ったことを雅貴はすぐに取り消した。幸子が雅貴のコートの袖を引く。

「雅貴さんがいいなら、行ってみたい」

 その答えに思わずガッツポーズをすると、やっと幸子が笑顔を見せた。雅貴は胸を撫で下ろした。




 雅貴の部屋に入った幸子は緊張して落ち着かない様子で、部屋の端で立ったままでいた。

「ここにおいで」

 雅貴はソファに腰掛け、隣をポンポンと叩いて呼んだ。幸子が座ると同時に、雅貴は腰に腕を回して抱き寄せる。

「幸子が俺の部屋にいるなんて、夢みたいだ」

「夢、だったらどうする?」

「醒めないように、ずっとこうやって抱きしめてる」

 それを聞いた幸子は照れながら笑い、雅貴に抱きついた。


 リビングには二人掛けのソファとローテーブル、大きなテレビが存在感を放っている。テレビを囲む壁面収納には本やDVDなど趣味の品が置いてある。反対の壁には寝室へと続く引き戸が見える。立派なキッチンにはデザイン性の高い調理家電がいくつか並んでいる。

 幸子に振られてから部屋が荒れていることもあったが、片付けておいてよかったと雅貴は心の底から思った。




 互いに視聴したことのない海外のラブコメディ映画を観ることになった。ソファで肩を寄せ合いながら、たくさん笑った。ラブシーンが流れた時、幸子の反応が気になって横目でチラリと見た。クッションをギュッと抱いている姿にキュンとして、自分が代わりに抱かれたいと思った。


「ずっと不思議に思ってたことがあってね。映画とかドラマで、みんな普通にキスするじゃない? あれってなんでかなって」

 観賞後に感想を話していると、幸子がそう言い出した。

「それはさ、相手が好きで、したいと思うからでしょ。俺だって幸子といっぱいキスしたいよ」

「うーん。そういうことじゃなくて。キスし慣れてる感じがあるってこと。さっきの映画の主人公はモテない設定だったでしょ? でも、キスの仕方が上手に見えたから、ちょっと腑に落ちないっていうか・・・・・・」

「舞台がアメリカだったし、そういう文化の違いもあるんじゃないかな。ほら、家族とか友達とよくハグするイメージもあるし」

 幸子はさらに納得いかなさそうな表情で雅貴を見る。

「じゃあ、雅貴さんは? 初めての時ってどうだった?」

 幸子が思いもよらない質問をしたので、雅貴は面食らった。

「えっと、俺はさ、相手が経験者だったから、してもらったって感じ? あ、あと、エッチなビデオも見たりして、勉強したんだよ」

 雅貴は焦りで声が裏返った。必死になって何を説明しているのか、雅貴自身が分からないほどに混乱した。

「ふーん」と幸子は口をとがらせた。


「あのさ、幸子って映画を見る時さ、いつもバッグとかクッションとか抱きしめてるでしょ。そうやって俺のことも後ろから抱いてみてほしいんだけど・・・・・・」

 雅貴は話題を変えようとした。幸子は「いいよ」と頬を赤く染めて答える。

 雅貴が背中を向けると、幸子の手がそっと背中に触れて、腕がゆっくりと胴に回る。そして、背中に重みを感じるほどぴたりと頭がくっついた。

「雅貴さん、ドキドキしてるね」

「聞こえちゃってる? ちょっと恥ずかしいな」

「大丈夫だよ。わたしもドキドキしてるから」

 雅貴は振り返って「幸子のも聞かせて」と胸に耳を当てた。その柔らかさに誘われて顔をうずめたが、すぐに離れて謝った。

「ごめん。嫌だよね」

 すると幸子が雅貴の頭を胸に抱き寄せて「雅貴さんだから平気」と言った。雅貴は口元が緩むのを抑えきれなかった。




 夕食は雅貴が冷蔵庫にあるもので簡単に炒飯を作った。幸子が「おいしい」「すごい」と言って喜んだので、雅貴はまた作ってあげたいと思った。


 その後も手を繋いだり、互いのどこかに触れながら会話をした。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、幸子が「そろそろ帰るね」と言った。雅貴はひどく寂しい気持ちに襲われた。

「まだ八時だよ。もうちょっと・・・・・・」

「んー、あんまり長居したら悪いかなって」

「じゃあ、幸子の家まで送ってくよ」

「いや、それも悪いし・・・・・・」

 幸子が雅貴に気を遣っているのはよく分かっている。今日は幸子がこの部屋を出ていくところで終わりなのだ。

 引き留めたいと強く思う一方で、しつこくしすぎて嫌われたくもなかった。せめてあと少しだけ・・・・・・。

「帰る前に、さっきの映画のキス、してみない?」

 雅貴の提案に幸子は頬を赤らめた。濃厚なキスシーンを思い返して、早まったと思った。

「ごめん、今のなかったことにして。少しずつ進もうって言ったのに、急すぎて困るよね。ごめんね」

「えっと、嫌とかじゃなくて・・・・・・。してみたいけど、どうやってすればいいのか分からなくて。雅貴さんが教えてくれる?」

 雅貴はホッとして幸子の髪を撫でる。

「俺に任せてくれればいいよ。もし嫌だなって思ったら止めてね」

「うん。・・・・・・えっと、こういう時って歯磨きしてから、だよね?」

「俺は気にしないけど、幸子は気になる?」

 幸子はバッグから携帯歯ブラシとタブレット菓子のケースを出して、それらを交互にみる。

「じゃあ、ミント食べるだけにしとくね」

 そう言って幸子は小さな粒を口に入れた。雅貴は「俺にもちょうだい」と一粒もらうことにした。


 顔を近づけると、爽やかな香りの息が混ざり合う。そっと触れるくらいのキスを繰り返し、次第にゆっくりと深いものになっていく。喉から漏れる幸子の甘い声が、雅貴の耳をくすぐった。

 

 幸子が急に肩を叩いて離れる。浮かぶ涙と苦しそうな表情に、雅貴は花火大会の夜を思い出して胸が痛んだ。

「ごめん、嫌だった?」

 雅貴の問いかけに、幸子は息を整えながら首を横に振って答えた。

「そうじゃなくて、呼吸のタイミングが分からなくなって・・・・・・」

 幸子を優しく抱きしめる。

「夢中になりすぎて、苦しい思いさせたね。ごめん」

「謝らないでよ。気持ちよかったから、大丈夫」

 幸子は雅貴の首に腕を回して強く抱きついた。


「このまま泊まっていかない? 俺、まだ離れたくない」

 考えるより先に出た言葉に、雅貴は再び反省した。謝ろうと口を開きかけると、幸子が「うん」とうなずいた。

「泊まらせてもらおうかな。本当はね、わたしもまだ一緒にいたい」

 雅貴は飛び上がるほどの嬉しさで、勢いのあまり幸子をソファに押し倒してしまった。幸子が雅貴の目をまっすぐに見つめる。

「さっきの続き、する? 今度はちゃんと息するから」

 想像もしていなかった言葉に驚き、愛しさがあふれた。

「じゃあ、もっとゆっくりしようね。たっぷり時間あるし、ゆっくりね」


 何度も何度も口づけを交わす。幸子も雅貴に応えるように舌を動かした。その刺激に雅貴は耐えきれず、平静を装ってキスするのをやめた。幸子とのキスが気持ちよすぎて、体が熱くなった。それ以上は我慢できる気がしなかった。

「雅貴さんの真似したんだけど、わたし、何かダメだった?」

 幸子が悲しそうな顔をしたので、雅貴は「すごく良かったよ。またしようね」と言ってぎゅっと抱きしめた。


 雅貴がバスタブにお湯を入れて戻ると、幸子がコートを羽織っている。

「あっ、えっと、泊まっていくんだよね?」

「ちょっと化粧水とか買いに行くだけだよ」

 雅貴の中に浮かんだ不安はすぐ消えた。

「そっか。俺も一緒に行くよ」

「じゃあ、一緒に行こ」

 幸子が雅貴の手に触れる。

「明日、わたしが朝ごはん作ってもいい?」

「え、嬉しい! 幸子が作ってくれるの? すっごく嬉しい!」

 雅貴は期待に胸を膨らませた。


 近くのスーパーで、朝食のメニューを話し合いながら材料を購入した。食べ物の好みなど一致する点が多く、特に雅貴は運命だと強く感じていた。知れば知るほどに好きな気持ちが増していく。

 幸子の祖父母が惣菜店を営んでいたことや、そこで働いていた母から料理を教わったことを雅貴は聞いた。

「だから、少し自信はあるの。雅貴さんの口に合うといいな」

 幸子は得意げに話した。




 幸子が炊飯器をセットする間、雅貴が先に風呂に入ることになった。

 入浴を終えてリビングに戻ると、幸子はソファでウトウトとしていた。雅貴の足音で目を開けた幸子は慌てて姿勢を正した。

「ごめんなさい。ちょっと眠くなっちゃって・・・・・・」

「いいんだよ。今日、ずっと緊張してたでしょ? 俺が無理させたから、疲れたんだよね」

 幸子の頭を撫でながら言う。

「そんなことない。雅貴さんとずっと一緒にいられて、すごく楽しかったよ」

 続けて「ありがとう」と言って、雅貴に抱きついた。

「俺こそ、ありがとうだよ」

 そう言って雅貴は幸子のひたいにキスをした。


「ここに化粧水とか置いといていいよ。また来る、でしょ?」

 雅貴は洗面台の棚の空きスペースをトンッと指で叩いて示した。タオルとスウェットを抱いた幸子が、頬を赤くして頷いた。

「疲れてるだろうし、ゆっくりかってね」

「雅貴さんも疲れてるよね。先に寝てて」

「分かった」

 きっと起きて待っていると言えば幸子は急いでしまうだろう、と雅貴は思った。


 幸子が浴室に入ると、雅貴は急いで寝室を片付けた。シーツやカバーを替え、ゴミ箱に溜まったティッシュを片付けた。そして消臭スプレーを吹きかけ、臭いを何度も確認した。

 幸子をベッドで寝かせて自分はソファで寝ると決めていた。しかし、毎晩のように幸子を思いながらしていることを知られたくなかった。知られれば嫌われそうで怖かった。過去に男性に対して警戒心を抱いていたのなら、なおのことだ。

 



「もしかしてソファで寝るの?」

 ソファで毛布をかけて横になる雅貴に、入浴を終えた幸子が尋ねる。

「幸子がベッド使って。シーツとか替えといたから」

 雅貴はスマホから目を離さず、クリスマスのデートプランを練っていた。

「わたしがソファで寝るから、雅貴さんがベッドで寝てよ」

「だめ。幸子をソファで寝かせたくない」

 困って右往左往する幸子が視界の端に映る。

「雅貴さん・・・・・・ベッドで一緒に、寝る?」

 聞き間違いだと思った。

「一緒に?」

 幸子に視線を向ける。大きめのスウェットを着て、恥ずかしそうに手をモジモジと動かす姿がたまらなく可愛かった。

「雅貴さんが嫌じゃないなら・・・・・・」

「一緒に寝たいけど、無理してない? 幸子との距離が近くなるのはすごく嬉しいよ。でも、なんかちょっと早すぎるっていうか、さ」

 幸子が悲しそうな顔をしてうつむいた。

「無理なんかしてない。けど、こういう経験ないから、なんか間違えたこと言っちゃったかな。迷惑かけて、ごめんなさい」

 ソファから飛び起きて、幸子をそっと抱きしめる。

「違う、違う。迷惑じゃないよ。急に関係が進みすぎてるから、大丈夫なのかなって心配になっただけだよ」

「雅貴さんのことを拒絶したらどうしようって思ってたけど、全然そんなことなくて。公園でキスした時から、もっともっと近づきたいって思いが止まらないの」

 幸子の腕が雅貴に強くしがみついた。

「そうなんだ。すごく嬉しい。俺も我慢できなかったとこあるし、ごめんね。・・・・・・湯冷めしないように、話の続きはベッドでしよう」

 幸子の手を取り、寝室にいざなった。




「もっとくっつかないと落ちちゃうよ」

 シングルベッドに二人で横になったが、幸子は距離をとっていた。寝返りを打てば落ちてしまいそうだ。

「ほら、こっちにおいで。一緒に寝ようって言ったの、幸子でしょ?」

 耳まで赤く染めた幸子を、雅貴は抱き寄せた。恥じらうことが多い幸子の見せる大胆な言動に雅貴は喜びを感じていた。二人の距離が確実に縮まっている、と。


「クリスマスのデートなんだけど、ホテルで一泊するのってどうかな?」

「雅貴さんがいいなら、わたしもいいよ」

「今日、俺の部屋に泊まってくれたから、ホテルもいいかなって考えてて。だから・・・・・・」

「あ、でも、クリスマスのホテルって高いんじゃない? わたし、あんまり高額だと払えないかも」

 雅貴は全額を出すつもりでいたのに、幸子が割り勘だと考えていたことに驚いた。

「俺が支払うから大丈夫だよ。幸子には何も気にしないで楽しい時間を過ごしてほしい」

「でも・・・・・・」と幸子は納得いかない様子だ。

「実はもう予約しちゃったんだ。俺に任せて。ね?」

 予約をしたというのは嘘で、そう言えば幸子が断れないと思ってしまった。雅貴が考える最高のプランで幸子を喜ばせたいがゆえの嘘だった。

「うーん。分かった。楽しみにしてるね」

 幸子の承諾を得て、雅貴はクリスマスデートに思い巡らせ、絶対に良い夜にしてみせると意気込んだ。


「今度、お揃いのパジャマとか買いに行こう」

「うん」

「お揃いの食器もいいよね」

「ん」

 幸子は眠そうにゆっくりとまばたきを繰り返し、短く返事をしていた。雅貴がそれに気づいて黙ると、幸子はすぐに眠りについた。

 腕の中で眠る幸子の顔を見て、雅貴の心は幸せに満ちていた。大好きな人が自分の腕の中で眠っている。願っていたことが現実になって、夢を見ているようだ。

 幸子に合わせて呼吸をしているうちに、雅貴も眠りに落ちていた。






 前日のことを思い出した雅貴は口元をほころばせる。

 ずっと一緒に布団の中にいたいが、欲望を抑える自信がない。幸子を起こさないように、そっとベッドから離れた。


 雅貴が朝食を作り終えて食器を準備していると、寝室から幸子が慌てて出てきた。

「おはよう」

 雅貴が声を掛けると、幸子が頭を深く下げる。

「寝坊してごめんなさい」

「なんで謝るの? 寝坊なんてしてないよ」

「だって、わたしが朝ごはん作るって言ったのに・・・・・・」

 泣きそうな幸子の声を聞いて、雅貴は優しく抱きしめる。

「気持ちよさそうな寝顔を見てたら、俺が作ってあげたいなって思ったんだよね。勝手に作ってごめんね」

 自制心を保つために朝食を作ったとは言えない。

「次は幸子が作ってよ。その次も、その次の次も。これから先、何回だってチャンスはあるんだから」

 幸子は「ありがとう」と言って、雅貴に抱きついた。


 大好きな人と温かい朝食。雅貴は幸せも噛みしめていた。

「よく眠れた?」

「うん。雅貴さんの声とか体温とか、安心感があって落ち着くから、すごくよく眠れた」

 幸子の言葉の一つ一つが雅貴の心に響く。嬉しいことを言ってくれる。もっと欲しいと思ってしまう。




 幸子が洗濯と掃除をしていくと言ったが、早く幸子の部屋に行きたいと言って断った。本当は幸子の痕跡を残しておきたかった。今夜は幸子と共に寝たベッドで、幸子が着たスウェットを抱きながら眠るのだ。

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