十一月、幸子の朝
十一月の終わり、
カーテンの向こうはうっすらと明るい。この日、幸子は誕生日を迎えて四十歳になった。
狭いワンルームの部屋に折りたたみテーブルと小さな棚にテレビ。ほとんどの物はクローゼットに入っている。殺風景すぎて余計に寒さが染みる気がする。もう何年も見てきた景色のはずなのに。
これまで幸子に恋人がいたことは一度もなく、誰かと肉体関係を持ったこともない。
男は三十歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい。昔、インターネット掲示板でそんな内容の書き込みを見た。
では、女はどうなのだろう。三十歳を過ぎてからの十年、幸子には魔法が使える気配などなかった。もし魔法が使えるのなら、
幸子は布団に
雅貴に告白されてから一か月、幸子はずっと後悔しながら過ごしていた。寝る前に泣いてしまうこともあった。
幸子が雅貴を映画に誘ったのは、それで最後にしようとしたからだ。楽しい思い出にしたくてコメディ映画を選んだ。
「今までありがとう」と伝えて終わらせるつもりだった。
なのに、雅貴は幸子に好きだと言った。本当は飛び上がるほどに嬉しかった。でも、付き合ったところで、きっと雅貴に迷惑をかけてしまう。すぐに嫌われてしまう。そう考えると幸子は素直になれなかった。友達だと思っていると嘘をついた。
幸子自身が望んだ結果なのに、胸が苦しくてたまらない。
帰宅後、太陽が沈んで暗くなったのにも気づかず、うずくまって泣き続けた。
何度も震えるスマホを見ると、
「もしもし」
『出てくれてよかった。どうしたの? 大丈夫?』
千花が何を心配しているのか、すぐに理解できなかった。
「何が?」
『何がって・・・・・・。
思い出してまた涙が
『さっき
「好きだから、無理」
『どうして?』
「わたしじゃ、福田さんを幸せにできない」
『理由は? ちゃんと話して』
千花に花火大会の日のキスの話をした。嬉しかったはずなのに逃げてしまった。またそんなことになるかもしれない。嫌われるのが怖い、と。
『そのこと、福田君に話した?』
「話してない」
『ちゃんと話しなさい。きっと分かってくれるから』
「でも・・・・・・」
『福田君ね、電話の向こうですごく取り乱してたって。泣いてたって。お互いに好きなのに、どうして悲しくて涙を流さなきゃいけないの?』
どんな言葉を選んでも「はい」と言わなければ雅貴を傷つけてしまうと、幸子は考えもしなかった。それでも、付き合ったところで雅貴の気持ちに応える自信がない。キスをすればまた気分が悪くなってしまうかもしれない。きっと嫌な思いをさせてしまう。雅貴を幸せにできない。一緒にいれば苦しい思いをするだろう。
『これから福田君がうちに来る。幸子が話すのを待ってほしいってお願いするからね。このままじゃ、二人ともつらいよ』
千花が鼻を
「分かった。でも、すぐには話せそうにない」
『大丈夫。幸子が話すまで待っててくれるはずだから』
「約束する。絶対に話すって約束する」
そう言ったのは雅貴のためではなく、千花のためだった。ずっと幸子のことを気にかけてくれている友達のためなのだ。
その日のうちに千花から一通のメッセージが送られてきた。
〈福田君、幸子が話すの待っててくれるって〉
いっそ「待てない」と言ってくれたら楽になれたのに。幸子は逃げられない場所に追い込まれた気分になった。
十一月下旬の土曜日、玄関のチャイムが鳴った。ドアスコープを
「もしかして、今起きたのか? 髪の毛ぐしゃぐしゃだぞ」
目覚めてはいたが、幸子は起き上がる気になれずに布団に包まっていた。時間を確認すると昼近くだった。
「ごめん。来るって言ってたの忘れてた」
「いいって。でも、そういうの珍しいな」
慶太は幸子の頭を優しく
「これは母さんからで、こっちは父さん。あと俺からので・・・・・・」
両親と慶太がそれぞれに用意した土産をテーブルに乗せた。土産と言うよりは誕生日プレゼントと言うのが正しいだろう。
幸子が一人暮らしを始めてからずっと、十一月には必ず慶太が訪ねて来る。幸子の誕生月だからという理由で。両親が一緒のこともあれば、妻子を連れて来ることもあった。
「わたしだっていい歳なんだから、もう来てくれなくてもいいよ」
「幸子はそれでいいかもしれないけど、俺らは心配なんだって。ほとんど帰ってこないし、幸子から連絡してくることもないだろ」
こういうやりとりも毎年のことだった。
「じゃあ、もう大丈夫だから、来年からは来なくていい」
「いや、何が大丈夫なわけ?」
「帰るから! そっちに帰るから、もう心配しなくていいから!」
慶太に対して声を荒げるのは、いつぶりだっただろうか。
「正月に帰ってくるってこと? 久しぶりだな。みんな喜ぶぞ」
怒鳴ったのにもかかわらず、慶太はけろりとした口調で幸子に尋ねた。余計なエネルギーを使ってしまった、と幸子は脱力した。
「違う。そっちに引っ越す」
「そっか。片付ければ部屋はあるし、帰ってこいよ」
「一緒には住まない。近くで部屋を探す」
「幸子、何かあったのか? また仕事で嫌なことでもあった?」
「何もない。ただそうしようと思っただけ」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない」
「幸子はさ、思ってることが顔に出るタイプだって自覚ある? 今、すごく苦しそうで、泣きそうな顔してるぞ」
そう言われて無理に笑おうとしたが、涙が頬を伝ってしまった。慶太が幸子の背中を優しくさすった。ふいに雅貴が背中に触れた時のことを思い出し、さらに涙が溢れた。
「どうしたの? 話してみて」
「・・・・・・好きな、人が、いて。・・・・・・でも、うまく、いかなかった」
幸子はゆっくりと一言ずつ言葉にした。
「相手は幸子のこと、好きになってくれなかったの?」
告白されたが振ったことを話した。
「両思いなのに、どうして断ったの?」
「すごく、すごく素敵な人だから。・・・・・・わたしには、もったいない」
雅貴の隣にいるべきなのは自分ではない、と幸子は考えていた。
「でも、その人は幸子がいいんだろ? そんな理由で振られたら、納得いかないだろ」
「理由は、言ってない」
「もしかして、幸子の気持ちは伝えてないの?」
幸子は頷いて答えた。
「それ、いつのこと?」
「先月」
「今からでも遅くない。ちゃんと好きだって伝えろ」
「わたしが話すのを待っててくれるって言ったけど、迷ってたら時間がどんどん過ぎちゃって・・・・・・。きっと、もう、別に好きな人がいると思う」
いつか遭遇した高橋という雅貴の同僚のように、好意を
「そんな簡単に諦めるような軽い気持ちで告白したなら、俺がそいつを
「やめてよ。悪い人じゃない。優しくて、楽しくて、一緒にいたくて、大切な人なの」
雅貴の表情が、声が、幸子の頭の中で再生された。
「じゃあ、やっぱり幸子の気持ちを伝えないと。今、幸子が落ち込んでるみたいに、向こうだって苦しんでると思う」
雅貴のためだと言い訳をして、幸子は自分自身を守ることしか考えていなかった。傷つけたくなかったのに、傷つけてしまった。
しばらくの間、幸子は何も言えずに泣き続けた。慶太はずっと隣にいて、幸子を慰めた。
ピンポンと部屋のチャイムが鳴った。慶太が玄関に向かい、ドアを開けて招き入れた。幸子が視線を向けると、そこには次兄の
「幸子、ごめん。俺、また力になれなくて・・・・・・」
祥史は弱々しい声で幸子に謝った。
「どうして、ここに?」
「俺が祥史にメールした。近くで幸子のこと見てるって約束だったのに、全然ダメじゃんか」
「いや、でも、祥史お兄ちゃんだっていい大人だし。わたしだって、もう来週で四十だし」
「お前たちさ、ずっと避け合ってるだろ? 気づかないとでも思ってた?」
「え? 知ってたの?」
幸子がそう言うと、慶太がため息をついた。
「いつだったかなー、幸子が中学生になる前だっけ? なんか急に祥史が志望校を変えるとか言い出して、幸子も部屋に
慶太に祥史との関係が良くないのを知られていた。幸子は隠せていたと思っていた。
「いい大人だって言うなら、そろそろ仲直りしろよ。言葉にはしないけど、父さんも母さんも家族が揃わないの、寂しく思ってるんだぞ」
幸子と祥史は帰省時期をずらすことが多く、家族全員が揃うことはほとんどない。
「とりあえず、俺は買い出し行ってくるから二人で話せよ。今晩は三人ですき焼きな。分かった?」
長男である慶太の強い口調に、幸子も祥史も黙って従うしかなかった。
慶太は一時間ほどで戻ってくると言い残して出かけていった。
「お兄ちゃんのせいで、好きな人とキスもできない」
先に言葉を発したのは幸子だった。祥史に対して静かに怒りをぶつけた。
「ごめん」と祥史は消え入りそうなほど小さな声で謝った。
「ねえ、どうして? どうして、あんなことしたの?」
幸子は祥史に体を触られた日のことを尋ねた。
「ごめん、俺、本当に申し訳ないことをしたと思ってる」
「なんで? 理由は? 妹にあんなこと、普通はしないでしょ?」
「俺は、たぶん、ずっと幸子のことを独占したいと思ってた」
予想もしていなかった返事に、幸子は驚いた。
「小さい頃、俺のほうが幸子と一緒にいる時間は多かったけど、何をしても兄貴には勝てなくて、すごく悔しかった」
祥史が昔のことをぽつりぽつりと話し始めた。幸子は黙って聞いていた。
二人の兄と幸子とは母親が違う。兄たちの母親は家族を捨てて出ていった。慶太が四歳、祥史が二歳の時のことだったという。
働きながら息子たちの育児をしていた父親がよく利用したのが、幸子の祖父母の惣菜店だ。そこで働いていた母親は、疲れきった父親の姿を見て世話を焼きたくなってしまったらしい。惣菜のおまけから始まり、弁当を作って手渡したり、息子たちを預かるようにもなった。そして距離が縮まり、結婚するに至った。
兄たちは「
「幸子が俺たちを家族にしてくれたんだよ」
祥史はそう言って嬉しそうな顔をした。
「小さな幸子が俺の指を握って、笑って・・・・・・。すげえ嬉しくて、幼いながらに守ってやりたいとか思ったんだよね」
幸子は祥史の優しい笑顔を久しぶりに見た。互いに避けるようになってからは、祥史の表情にはいつでも緊張感があった。
「なのに、俺、全然ダメで」と、さらに話し続けた。
幸子にセックスを見られた時の恥ずかしさや、大人びた幸子を抱きしめた時の衝動、幸子に助けが必要な時に力になれなかった無力感。
「結局、今日も兄貴に連絡もらうまで、幸子が悩んでることに気づかなかった。いつまでたっても頼りなくて、兄貴には勝てない」
「そんなの勝手だよ。わたしは慶太お兄ちゃんも祥史お兄ちゃんも頼りにしてた。それぞれに良いところがあって、良いお兄ちゃんだったよ。あの夜までは」
「ごめん」
「きっといつまでも赦せないと思う。けど、もう逃げたくない」
幸子は恐る恐る祥史の手を取った。二人の手は小さく震えていた。
「赦す努力はしたい。だから、お兄ちゃんも逃げないでほしい」
祥史の目から涙が溢れ落ちた。
「赦されないって分かってる。けど、幸子の兄ちゃんでいていいの?」
「いいよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ? 今度、一緒に家に帰ろう。お父さんとお母さんのこと安心させてあげようよ」
祥史は頷いて「ありがとう」と呟いた。
この夜、久しぶりに兄妹が揃って笑い合った。慶太が奮発して買ってきた高級牛肉の入った小さな鍋を三人でつついた。狭い部屋で幼い頃のように身を寄せ合い、楽しい時間を過ごした。
地元に帰るのなら、きちんと振られてから帰ろう。幸子はそう心に決めた。
幸子が布団の中で思いを巡らせているうちに、カーテンの向こうはずいぶんと明るさが増していた。雅貴はもう起きているだろうかと、思いを
会わなければ、心は楽になると思っていた。でも苦しくなるだけで、なおさら雅貴のことを考えてしまう。
幸子が傷つきたくなくて雅貴から逃げたのだ。雅貴はしっかりと幸子に向き合ってくれたのに。
結局、雅貴のためだと思ってしたことは、全て幸子自身のためでしかなかった。本当に馬鹿だと、あの時に振られるべきだったのは自分だったと、幸子は深く後悔している。
幸子は雅貴に正直に話したいと強く思った。恋愛経験がないこと、男性が怖いと思っていたこと、一緒にいた時間がとても幸せだったこと。
もう他の誰かのことを想っているかもしれない。それでも雅貴に話したくて仕方がない。好きで、好きで、ずっとあなたのことばかり考えている、と。
全てを話せばきっと心は軽くなるはずだ。これもまた、幸子自身のためでしかないと分かっている。
〈会って話がしたいです。身勝手でごめんなさい。どうかお願いします。会いたいです〉
返事は来ないかもしれないと思いながら、幸子は雅貴にメッセージを送信した。スマホの画面をタップした指が震えている。
雅貴が幸子のことを待っていても、そうでなくても、今すぐにメッセージを送らなければならない気がした。
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