十月、雅貴の思い

 十月中旬、雅貴まさたか幸子さちこと公開されたばかりのコメディ映画を観に行った。誘ったのは幸子だった。雅貴はこのチャンスを逃すまいと、告白することを心に決めていた。

 幸子が指定したのは、二人で最初に行った映画館だ。あの時は遅刻した上に同僚に絡まれて幸子に悪いことをした。と、雅貴は幸子と出会ってからの数か月を振り返った。




 約束の日、朝からよく晴れていた。待ち合わせ場所には、居酒屋で出会った時と同じ地味な格好をした幸子がいた。モノトーンカラーのパーカーとジーンズ。幸子との距離が遠くなったようで不安がつのった。

「久しぶりだね」

 雅貴がそう言うと、幸子は「うん」とうなずいた。

「なんだか忙しくって」

 幸子の声は明るく聞こえたが、目を合わせようとしないことが雅貴は気になった。

「あんまり時間ないから、早く行こう」

 雅貴に話す隙を与えないかのように、幸子は映画館への道を先に進んでいった。


「チラシ見てるから、買ってきていいよ」

 ドリンクを買おうと提案した雅貴に、幸子はそう言った。

「ああ、えっと、じゃあ、市川さんのも買ってくるけど、何がいい?」

「わたしは飲まないから、いいよ」

 雅貴は幸子に避けられていると感じた。

「俺も今日はいいかな。一緒にチラシ見てもいい?」

 雅貴の問いかけに幸子は黙って頷いた。

「次はこれを観たいね」と、雅貴はチラシを手に取りながら幸子に話しかけたが、幸子からは曖昧な答えが返ってくるだけで、「次」はないような気がした。


 スクリーンへの案内が始まると「行こう」と幸子が先に歩き出した。その背中は少し緊張しているように見えた。

 席に着いても会話が始まる気配はなく、雅貴は気になっていたことを聞くことにした。

「あのさ、バイト先の社員の人とのこと、大丈夫なの?」

「あー、うん。年内で辞めることにしたから。もうあと二ヶ月くらいだし、大丈夫だよ」

 幸子が悲しそうな顔で笑った。心配ないと幸子は言っていたが、やはり何か揉め事があったのだと雅貴は察した。

「そう、か。新しい仕事、探すの?」

 雅貴の声はかすかに震えた。

「うん・・・・・・。地元に帰って探そうかなって。あんまり親孝行できてないし、両親と一緒に過ごす時間を作ろうかなと思ってる」

 幸子の言葉に驚きを隠せなかった。近場で仕事を探すのだろうと、雅貴は勝手に考えていた。

「えっと、市川さんの地元って、どこだっけ?」

 前に聞いていたはずなのに、雅貴は混乱してしまっていた。

「北海道」

「遠いね。もう、一緒に映画とか、行けないね」

「・・・・・・そう、だね」

 雅貴の心は、絶対に離れたくないという気持ちでいっぱいになった。

「行かないで」と言おうとした時、照明が暗くなった。幸子が唇の前で人差し指を立てて、会話はそこで終わった。

 雅貴は映画に集中できなかった。隣で幸子の笑い声が聞こえると、胸が締め付けられた。ずっと聞いていたい。ずっと隣にいてほしい。そんなことばかり考えていた。


 エンドロールが流れると、自然と涙が頬を伝った。照明が明るくなって、雅貴の顔を見た幸子が困ったような反応をした。

「どうして泣いてるの? 泣くような映画じゃなかったよね?」

 そして、雅貴にハンカチを渡した。

「使って。あげるから、返さなくていいよ」

 その言葉を聞いた瞬間に、前にも誰かに同じことを言われたような気がした。

 ハンカチで涙を拭いている間、幸子の手のひらが優しく雅貴の背中を撫でていた。さらに雅貴の目から涙があふれた。




 映画館を出ると「近くの公園で話がしたい」と幸子が言った。公園まで歩く間、互いに何も話さなかった。幸子は雅貴の後ろを歩いていた。いつも隣を並んで歩いていたのに、この日は違った。嫌な予感しかしなかった。

 

 都会の中にありながら自然を感じられる、そんな公園ベンチに並んで座った。幸子が深呼吸をして話し始めようとしたが、雅貴はさえぎるように言葉を発した。先に話さなければいけない気がした。

「俺も話したいことがあって、先に話させてほしい」

 悪い話を聞く前に告白したかった。もしかしたら好転するかもしれない。幸子の返事を待たずにに話し始めた。

「遠くに行かないでほしい。俺のそばにいてほしい」

 幸子は不思議そうな顔をしていた。

 雅貴は過去のことを幸子に聞かせた。初恋の後悔のこと、好きでもないのに女性と交際してきたこと、彼女がいる自分自身が好きだったこと・・・・・・。幸子に全て知ってもらって、本気で好きだと伝えたかった。

「もう彼女なんていらないって思ってたけど、市川さんと一緒にいるとすごく楽しくて・・・・・・。市川さんは俺といて楽しい?」

 雅貴が尋ねると、幸子は黙ってうなずいた。


「好きだよ。市川さんのことが大好きなんだ。俺と付き合ってほしい」

 うつむいた幸子の顔をのぞき込み、そっと手を重ねて雅貴は言った。すると、幸子の目から涙がこぼれ落ちた。

「福田さんのことは趣味が合う友達だと思ってて・・・・・・お付き合いはできません。ごめんなさい」

 震える声で幸子は言った。抱えていた不安が現実になった。幸子にとってはただの友達だという事実が、雅貴の心を深くえぐった。

「これから先、好きになってくれる可能性はない、かな?」

「ごめん、なさい」と幸子は嗚咽を漏らしながら言った。

 泣かせるくらいなら告白なんてしなければよかった、と雅貴は後悔していた。でも・・・・・・。

「市川さんが俺のこと、好きじゃなくてもいい。守るから、傍にいさせて」

 幸子は首を横に振って、小さな声で「ごめん」と繰り返し言った。

「今日はありがとう。変なこと言ってごめんね」

 そう言って雅貴は泣くのをこらえながらその場を離れた。




 雅貴は何も考えられないままで帰宅した。ソファに深く腰かけ、天井を仰ぎ見る。泣いてる幸子の姿が頭から離れなかった。

「あー、もう。俺、最低・・・・・・」

 せめて幸子が泣きやむまで一緒にいればよかった。大好きな人を泣かせて、そのまま置いてきた。もう完全に嫌われてしまっただろう。

 

 幸子にハンカチを渡された時の既視感が、妙に頭に残っていた。ポケットからハンカチを取り出し、そっと撫でた。

 きっともう会ってもらえない。でも、ハンカチを口実に会えないだろうか。返すだけなら会ってはくれないだろうか。そう考えていると、記憶が蘇ってきた。






 七年前の六月。雅貴は徹彦てつひこ千花ちかの結婚式に招待された。親族と親しい友人のみ、二十人ほどが集まって二人を祝福した。

 その日は朝から雨が降っていたが、式が始まる頃には太陽が顔を出した。


 当時、雅貴は付き合っていた彼女とすれ違うことが多くなっていた。新郎新婦の幸せそうな姿を見て、結婚すれば変わるのかもしれないと思った。そんなことを考えなければ浮気の現場に遭遇しなくて済んだのに。

 式場を出て駅に向かう途中、プロポーズの言葉や彼女の反応を想像していたら、水たまりに足を突っ込んでしまった。しかも、深めの。

「あー、まじかー・・・・・・」

 片脚で立って革靴を脱ぎ、中に入った水を出した。靴下まで濡れてしまっていた。

「あの、大丈夫ですか?」

 青いワンピースを着た女性に声をかけられた。新婦側の招待客の一人だった。優しくかけられた声に反して、表情はとても強張っているようだった。

「これ、よかったら使ってください」

 その人はハンカチを差し出した。

「それ、差し上げます。捨ててしまっていいですから」

 そう言って足早に去っていった。親切にしてくれるなら、もう少し助けてくれればいいのに。肩を貸すとか、拭くのを手伝ってくれるとか。素っ気ないその女性に対して、雅貴はそう思った。

 靴を拭こうと渡されたハンカチをよく見ると、その柄には見覚えがあった。雅貴も同じものを持っている。恋愛映画と有名ブランドのコラボで限定販売されたハンカチだった。捨ててもいいと言うほど安価なものではない。

 結婚式の場に持ってくるのだから、大切にしていないわけがない。新婦を通じて返そうと思った。しかし、直後に彼女の二股が発覚して落ち込み、すっかり忘れてしまった。






 七年が経って、そのことを思い出した。急いでクローゼットの奥にしまいこんだ箱を引っ張り出した。その中に、写真のデータが入ったCDと返せなかったハンカチを見つけた。

 パソコンで写真を確認すると、そこには幸子の姿があった。雅貴が撮った写真の何枚かに写っている。青いワンピースを着て。

「あの時、会ってたんだ・・・・・・」


 雅貴は徹彦に電話をかけた。

『もしもし。どうした?』

 徹彦の明るさがこの時はなぜかしゃくに触った。

「俺と市川さん、結婚式の時に会ってたの、なんで教えてくれなかったんですか?」

 悲しみなのか怒りなのか、雅貴自身もよく分からない感情で声が震えた。

『そういや、そうだったな。忘れてたよ』

 そう言って笑う徹彦に腹が立った。

「俺、あの日、市川さんにハンカチもらって・・・・・・」

 雅貴は泣くのをこらえきれなくなった。

『泣いてるのか? 何があった?』

 徹彦の声から明るさが消えた。

「さっき、市川さんに告白して・・・・・・振られました」

 少しの間、沈黙が流れた。

『いや、そんなわけないだろ。両思いなんだから』

「えっ?」

 徹彦が何を言っているのか理解できなかった。両思いなら振られるわけがない。

 次に聞こえたのは、電話の向こうで徹彦が千花に話しかける声だった。

『マサ、今晩うちに飯食いに来ないか? 俺と千花が話を聞くから。無理なら俺がそっちに行く』

 七年前と同じだ。二人は失恋の痛みを和らげようとしてくれている。

「そっちに行きます」

 雅貴は通話を終了し、徹彦のマンションに向かった。




 玄関のドアが開くと、徹彦が心配そうな顔で雅貴を迎えた。

「つらかったよな。でも、大丈夫だから。とりあえず飯食おう」と雅貴の肩に手を添えた。何が大丈夫なのだろう。いつも励まされているはずの徹彦のポジティブさが腹立たしく感じた。

「マサ君、いらっしゃい」

 息子のあおいが楽しそうな声で雅貴に駆け寄ってきた。

「こんばんは」

 雅貴は屈んで葵と目線を合わせた。

「元気ないの?」

 子どもにも悟られてしまうほどに、雅貴は落ち込んでしまっていた。

「ママのご飯、おいしいから元気出るよ! 今日は僕もお手伝いしたんだよ!」

「そっかー。楽しみだなー」

 葵に対して明るく振る舞おうと努力したが、雅貴の心は曇ったままだった。

 

 徹彦に背中を支えられながらダイニングテーブルについた。雅貴の隣に徹彦、正面には葵。葵の隣に千花が座る。

 テーブルに運ばれたのは、クリームシチューとロールパンだ。葵の「いただきます」に合わせて食事を始めた。温かいシチューをスプーンで口に運ぶと、涙が頬を伝った。食事だけでなく、人の温かさも心に染みた。徹彦に八つ当たりをしたことを後悔し、反省した。

「どうしたの? あー、ニンジン嫌いなんでしょ。大人なんだから食べなきゃだめなんだよ」

 葵が面白そうに笑うと「葵も好き嫌いしちゃだめよ」と千花が言った。

「僕はまだ子どもだから」

 葵はねたような顔をした。雅貴はそのやりとりを見て、少しだけ笑った。微笑ほほえましい家庭の風景に癒された。

 

 食事が終わると、徹彦が葵を風呂に連れて行った。千花から幸子のことで話があるらしかった。

「福田君はビールでいい?」

「いえ、仕事の付き合い以外でお酒を飲むのはやめたので。すみません」

 そう答えると、千花は温かいお茶を雅貴に用意した。

「禁酒? どこか悪いの?」

「そういうことじゃなくて、市川さんが健康のために飲まないって言ってたので、俺もそうしようかな、と。頼ってもらえる男になりたかったんですけど、だめだったみたいです」

 雅貴の目から、また涙がこぼれそうになる。

「もう頼りしてると思うよ。幸子がバイト先で絡まれた時、福田君に電話したでしょ?」

「はい」

「福田君が頭に浮かんで、無意識に電話しちゃったんだって。迷惑かけたって反省してたけど、本当は福田君に側にいてほしかったんだと思うよ」

「でも、会いに行きたいって言ったら断られました」

「そっか」と言って、千花が大きく息を吐いた。


「さっき、幸子と電話で話した。今は混乱してるみたいだから、少し時間をあげてほしい。ちゃんと福田君の気持ちに向き合うって約束してくれたから。お願い」

 千花が雅貴に向かって深く頭を下げた。

「あの、さっきテツさんが両思いって言ってたんですけど、どういうことですか? 時間が経てばどうにかなるんですか?」

 千花は困った表情で、何かを考えているようだった。


「本当は幸子から聞いてほしいけど、落ち込んでる福田君も見ていられないから言うね。幸子、福田君のことが好きなんだよ」

「えっ? 本当に?」

「本当に。花火大会の日、幸子すごく可愛かったでしょ。あの服ね、一緒に買いに行ったの。福田君に好かれたいって、メイクも頑張ってて。あんなにキラキラした幸子を見たのは学生の時以来だよ」

 そう、あの日の幸子は気持ちが抑えきれないほどに可愛かった。

「でも、俺、たぶんその時に嫌われたかもしれないです。・・・・・・衝動的にキスをして、市川さんは泣きそうな顔で帰ってしまって、会ってもらえなくなりました」

「それにもちゃんと理由があるから。幸子が話すのを待っててほしい。福田君のこと、泣いちゃうくらい好きなんだから。信じて待っててもらえないかな?」

 好きなのに、どうして振られてしまったのだろう。訳が分からないが、希望は持っていてもいいようだった。

「分かりました。待ちます。市川さんが話してくれるのを、待ちます」

「ありがとう。幸子の気持ち、ちゃんと受けとめてあげて。頼れる男になりたいんでしょ?」

「はい」と雅貴は強く返事をした。

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