九月、幸子からの電話

 雅貴まさたか幸子さちこにキスしたことを後悔していた。先に思いを伝えるべきだった、と。

 手を繋いで、肩を寄せ合って、良い雰囲気だった。きっと幸子も雅貴が好きで、キスも受け入れてくれると思っていた。


 花火大会の前日、雅貴は千花ちかにメッセージで幸子への気持ちを伝えた。

〈友達になってほしいと言われましたが、好きになってしまいました。恋人になりたいです〉

〈絶対にうまくいくよ。どんな関係でも二人が幸せなら嬉しい。応援してるね!〉

 千花の言葉に期待が膨らんだ。


 待ち合わせ場所にいた幸子は、いつもとは違う体型に合った柔らかい色の服装だった。想像以上にスタイルがよく、大きな胸の膨らみには唾を飲んだ。雅貴の中で下心がうごめいた。幸子にもっと近づきたい。触れたい。と、欲望があふれ出した。

 そして、告白する前に体が動いてしまった。自身の気持ちを押し付けて、幸子に嫌な思いをさせた。嫌われたかもしれないと、雅貴は強い不安に襲われた。


 幸子が去った後、メッセージを送った。

〈さっきはごめん。突然で悪かったと思ってる。本当にごめん〉

 電車に乗り、帰宅しても幸子から返信がない。

〈怒ってるよね。ごめんなさい〉

 もう一度メッセージを送信したが、幸子からの反応はなにもなかった。もしかすると、家に帰れていないのではないかとも考えた。

 不安で胸がいっぱいになり、何をするでもなくスマホを眺めていた。日付が変わっても眠れなかった。

 午前一時を過ぎてから通知音が鳴った。幸子からのメッセージの内容に、雅貴は嫌われてはいないようだと感じて安堵あんどした。幸子が元気に朝を迎えられるように願いながら〈おやすみ〉と伝えた。

 また一緒に映画を観に行こうという内容の返事が幸子から送られてきた。また会えるのだと思うと、それだけで雅貴は嬉しくなった。


 しかし、それ以降、予定が合わないことが多く、幸子と会えなくなった。会えなくても幸子とのメッセージは毎日続いていた。寂しいと思うこともあったが、小さな幸せを感じていた。

 幸子に電話をしたいと伝えると断られた。声が聞きたいのに、何かと理由をつけて断られ続けた。避けられているのだと分かった。

 もしかして、好きな人ができたのではないか。誰かと付き合い始めたのではないか。雅貴はそんな不安に駆られていた。




 九月中旬、暑さがまだ続きながらも秋の気配が近づいてきた。そんなある日、社用車で外回りを終えた雅貴は、会社の駐車場で幸子からの着信履歴がスマホの画面にあるのを見つけた。久しぶりに声が聞けるのかもしれない、と雅貴の心は弾んだ。

 残された留守番電話のメッセージを再生すると、期待に反して、幸子と男が争う音声が入っていた。ほとんどの言葉が聞き取れなかったが、幸子の『やめてっ! 触らないでっ!』という声だけがはっきりと聞こえた。

 雅貴は大きな不安を抱えながら幸子に電話をかけたが、繋がらなかった。

〈大丈夫? 何があったの? 今どこ? すぐ迎えに行く〉

 メッセージを送信し、さらに電話をかけ続けたが、幸子からの反応はなかった。

〈見たらすぐに連絡して。お願い〉

 幸子からの返信を待ちながら、千花にもメッセージを送った。

〈市川さんになにかあったようなのですが、電話に出てくれなくて心配です。千花さんのところには連絡ありませんでしたか?〉

 あまり時間を置かずに千花からは返事が来た。

〈こっちには連絡ないよ。なにかあったって、どういうこと?〉

〈留守電に男の人と揉めてるような声が入ってました。メッセージも電話もしましたが、反応がなくて心配なんです〉

〈わたしからも幸子に連絡してみる〉

〈分かったらすぐに連絡ください。お願いします〉と送信して、仕事に戻った。早く終わらせて、すぐに動けるように。


「福田、今日は随分と急いでるな。デートか?」

 隣の席に座る先輩が茶化してきた。

「あー・・・・・・。ええ、まあそんなとこです」

 適当に返事をすると、先輩は驚いたような反応をした。

「仕事が恋人です、って感じだったのにな。ついに福田にも春が来たか!」

 さらに先輩が笑いながらからんできたが、雅貴は幸子が心配でかまっている余裕はなかった。

「早く終わらせて彼女の所に行きたいので、今は勘弁してください」

 真剣にそう言うと、先輩は謝って「代わりにやれそうなことあるか?」と雅貴に聞いた。

「いや、もうすぐ終わるので大丈夫です。ありがとうございます」

「俺も福田に助けてもらったことあるし、なにかあったら言ってくれ」

 先輩は肩をポンと叩いて自身の仕事に戻った。


〈わたしは大丈夫だし、家にいるから心配しないで〉

 幸子からのメッセージが届いたのは、雅貴が会社を出る直前のことだった。雅貴の心配をよそに幸子の言葉は何事もなかったかのようだった。先に千花から幸子と連絡が取れたとメッセージをもらっていたが、幸子から直接話を聞くまでは安心できなかった。

〈留守電に誰かと揉めてる声が入ってた。心配だから声が聞きたい〉

 本当に大丈夫なのか、本当に家に帰っているのか。雅貴は不安で仕方なかった。

〈ごめんなさい。間違えて電話かけてたみたい。社員さんと話してただけだから、心配ないよ〉

 雅貴は幸子の言葉は嘘だと確信していた。話していただけなどという声ではなかった。

〈分かったよ。でも、声を聞かないと安心できない。このままだと何も手につかないくらい心配してる〉

 そうメッセージを送信して、幸子に電話をかけた。


『・・・・・・もしもし』

 スマホから幸子の小さな声が聞こえた。

「電話、出てくれてありがとう」

 雅貴は幸子の声を聞いて、少しだけホッとした。

「本当に大丈夫? ちゃんと家にいる? 怖い思いしてない?」

『うん。大丈夫。これから家でご飯、作るとこ』

 幸子の声は震えていて、鼻をすする音が聞こえた。

「そっか。俺も今から帰るんだ。もしよかったら一緒にご飯食べようよ。そっち行くからさ。だめかな?」

 泣いてる幸子の側にいたかった。抱きしめたかった。

『だめ。今日は疲れてて早く寝たいから』

「じゃあ、次の休みは? 会いたい」

『・・・・・・ごめんなさい。しばらく忙しくて会えない。本当にごめんなさい』

 そう言って幸子は一方的に電話を切った。幸子は隠そうとしていたのだろうが、言葉の間に嗚咽おえつが漏れていた。


 雅貴は悔しくてたまらなかった。また好きな人を守れない。助けられない。初恋の苦い記憶が蘇った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る