幸子の過去(二)
自宅のドアを閉めた瞬間、
幸子は自分のことが嫌になり、消えてしまいたいと思った。どうしてこうなってしまったのだろう。
忘れたかった過去の記憶が次々に蘇る。何か起きるのはいつも夏だった。
最初に男女の関係に嫌悪感を抱いたのは、幸子が小学五年生の夏休みのことだ。
その日の午前中、幸子は水泳教室の予定だったが、プールに着いたところで頭痛と寒気がして家に帰ることにした。両親は仕事、高校生の
帰宅後、祥史に助けを求めて二階の部屋に向かった。体が重くて階段を上がるのもつらかった。
祥史の部屋のドアをトントンとノックしたが返事がなかった。出かけてしまったのだろうかとドアをそっと開けた。
部屋の中には幸子の知らない女子がいた。二人とも裸でベッドにいて、その女子は祥史の上に
「馬鹿っ! なに勝手に開けてんだよっ!」
幸子に気づいた祥史が怒鳴りながら、脱いだと
「ごめんなさい」と声にならないほどの声で幸子は言ってドアを閉めた。
幸子は自室のベッドに倒れこむと、布団に顔を埋めて泣いた。それは体が弱っているせいか、祥史を怒らせたせいか、幸子自身にも分からなかった。
祥史と女子の言い争う声が廊下から聞こえ、ドタドタと階段を降りていく気配がした。
数分後、幸子の部屋のドアを祥史がノックした。応えたところで怒られるのだろうと思ったし、返事をするのも
「さっきはごめん。入ってもいい?」と祥史の優しい声が聞こえた。怒ってはいないようだった。
「いいよ」と力の限りに答えた。
ドアが開いて足音が近づいてきた。
「怒鳴ってごめんね。さっきの人はもう帰ったよ」
祥史の顔を見ると、申し訳なさそうな顔で幸子を見ていた。
「勝手にドアを開けて、ごめんなさい。彼女が来てるなんて思わなくて」
喉が痛くて声がうまく出なかった。
「気にしないで。まあ、昼まで誰も帰ってこないと思ってたから驚いたけどね。水泳教室は? 行かなかったの?」
「プールの前までは行った。でも、具合が悪くて帰ってきた。自分でどうにかしようと思ったんだけど、だるすぎてお兄ちゃんに助けてほしくて・・・・・・」
祥史は慌てた様子で幸子の額に手を当て、体温計を取りに部屋を出た。
体温計は三十八℃に近い数字を表示していた。病院に行こうと祥史は言ったが、幸子は「眠たい」と言って布団に潜った。
祥史は幸子の意思に従い、氷枕を用意し、幸子に風邪薬を飲ませた。
「今度、お兄ちゃんの彼女に謝るね。邪魔しちゃったからケンカになったんでしょ?」
意識が薄れていく中で、幸子は祥史の部屋で見たことが気になっていた。
「幸子は気にしなくていいよ。それに、もう彼女じゃないし」
「なんで? だってさっきのは恋人同士がすることだよね?」
「あの子、すごく遊んでるって噂で。それで、俺のことも遊びだったみたい。可愛い女子に迫られていい気になって、ダサすぎるよね」
幸子が祥史に向かって片手を伸ばすと、祥史はその手を両手で包んだ。
「お兄ちゃんはダサくないよ。かっこいいよ。優しいし、頭いいし、いつも頑張ってるし。あとね・・・・・・」
「ありがとう。幸子にかっこいいって言われたら元気になれた。もう俺のことは気にしないで、眠って」
「本当? 怒ってない?」
「怒ってないよ。今は自分の体のことだけ考えて。俺がここにいるから、安心して寝て」
幸子は祥史の手の温もりを感じながら眠りについた。
夜には熱が下がって元気になったが、その日から幸子は変わっていった。祥史の部屋で見た光景が頭から離れなかった。
当時、幸子は小学校の友達と一緒に男性アイドルに夢中だった。しかし、その気持ちは薄れていった。この人たちも誰かとそういう行為をしているのだろうと考えてしまい、テレビも雑誌も見るのがつらくなった。特に水着などの上半身を露出した格好がだめだった。それでも友達のグループから外されたくない一心で好きでいるふりを続けた。
男女の関係に嫌悪感を抱いていた幸子が初めて告白されたのは中学二年生の時だった。相手は小学生の頃から仲がいい男子で、幸子の初恋の人でもあった。その恋心も祥史との一件があって消えてしまった。
「好きなんだけど、付き合ってくれない?」
「付き合うってどういうこと? 今のまま、友達のままじゃだめなの?」
「手を繋いで歩いたり、あと、友達じゃできないこともしたいし」
「わたしはそういうこと、したいと思えない」
幸子が冷たく言い放つと、相手は謝って立ち去った。その後、ギクシャクした関係は戻ることがなかった。
次は、幸子が高校三年生の夏休み。祥史と久しぶりに顔を合わせた。祥史は中学卒業後、寮のある高校に入り、その後も地元である北海道から遠く離れた大学に進んだ。ほとんど帰省することはなく、帰ってきても幸子と祥史はまともに顔を合わせることがなかった。
その日の夕食後、祥史は両親と慶太と酒を
幸子は「勉強する」と言って部屋に入った。未成年なのは幸子だけで、面白くなかった。家族の笑い声が聞こえないように、イヤホンで音楽を聴きながら受験勉強に取り組んだ。
そろそろ寝ようとイヤホンを外すと、遠くから雷の音が聞こえ、胸がざわついた。幼い頃からずっと雷が苦手だからだ。嫌だなと思っていると、誰かが幸子の部屋のドアをノックした。
「入ってもいい?」と祥史の声がし、幸子は「いいよ」と返した。
ドアが開くと、顔を赤くした祥史が入ってきた。
「酔ってるの? ふらついてるけど大丈夫?」
「大丈夫」と祥史は笑って部屋に入り、ドアを閉めた。
「幸子、ごめん」
突然、祥史が足元で土下座をした。
「え、なに?」
「たぶん、ずっと怒ってるよね?」と幸子を見上げた。
「なんで?」
「昔、彼女とやってるとこ見られてから、俺のこと避けてるよね?」
本当のことを言われて、すぐに返事をすることができなかった。普通に接するふりをしていたが、祥史に気づかれていた。
「怒ってはいないよ。ただ、お兄ちゃんのあんな姿を見て、ちょっとショックだった」
「ごめん」と再び頭を下げる祥史の肩に、幸子は屈んで触れた。
「もう謝んないで。わたしが勝手に部屋に入ったのが悪いんだから」
そう言った直後、大きな雷鳴が
「雷が怖いのは変わらないんだね」と、祥史が幸子を抱きしめた。幸子は祥史の体にしがみついた。
「小さい頃、雷が鳴ると俺のベッドに潜り込んでたよね」
祥史は嬉しそうに笑った。
市川家が二階建ての家に引っ越したのは、幸子が小学校に入学する前の年のことだ。それまでは団地に住んでいた。慶太と祥史は二人で一つの部屋を使い、二段ベッドの上段で慶太が、下段で祥史が寝ていた。幸子には部屋がなく、両親と一緒に布団で川の字になって寝ていた。
その頃は雷が鳴ると押し入れの布団の中に潜った。しかし、そのまま眠ってしまったことがきっかけで、押し入れに隠れるのは禁止になった。それ以降、雷の音が聞こえると祥史のベッドに入った。幼い頃は
引っ越してからは、兄妹それぞれに部屋が与えられ、幸子は自分のベッドで雷の音に耐えるようになった。
「懐かしいな。幸子が小学一年の時は、手を繋いで一緒に通学したよね」
昔話をする祥史の声が耳元で聞こえていた。
「しばらく見ない間に成長して、美人になって、俺も側で見守ってればよかったなあ」
「わたしは美人なんかじゃないよ。お兄ちゃんこそ、すごく大人っぽくて、かっこよくて、なんだか別人みたい」
「幸子にかっこいいって言われるの、すごく嬉しい」
祥史はそう囁いて幸子の首筋に唇で触れた。
「えっ? なに?」
幸子は訳が分からないうちに押し倒された。祥史が馬乗りになって逃げられなかった。手脚をばたつかせて抵抗したが、力で勝つことはできなかった。叫ぼうとすると手で口を塞がれた。祥史は幸子のTシャツを
恐怖で涙が止まらず、体に力が入らなくなっていた。祥史の手が幸子の下半身に触れた時、ドアをノックする音と慶太の声が聞こえた。
「大きな音が聞こえたけど、なんかあった?」
その瞬間、祥史の顔に焦りの色が見えた。幸子を押さえつけたまま、悲しそうな目をしていた。
口が塞がれている幸子は、助けを求めようと鼻から必死に悲鳴を発した。その小さな音は、雷鳴と雨音にかき消されてしまったようだ。
「もう寝た? 気のせい?」と尋ねた後、少し間を置いて慶太は去った。
「ごめん。どうかしてた。本当にごめん」
そう言って祥史は部屋を出ていった。
幸子は床で横になったまま、泣き続けた。翌朝にはタオルケットに
家族と顔を合わせたくなくて、部屋から出られずにいた。母親が起こしにきて、祥史が予定より早く帰ることになったと言った。体調が悪くて見送りはできないと嘘をついた。
幸子は高校卒業後、地元を離れて東京の女子大に進学した。女子ばかりの空間にもそれはそれで面倒なことはあったが、男子と接することがほとんどなくて楽だった。祥史との一件があってから、男性と近づくのが怖くなっていたのだ。慶太とも少し距離を置いた。
アルバイト先の飲食店では男性と一緒に働いた。生活をしていくために避けてばかりはいられない。幸いにも良い人たちに恵まれた。
大学四年生の夏の夜、アルバイトから帰宅する途中の路上で痴漢にあった。後ろから走ってきた男が追い抜きざまに胸を触って去っていった。
頭が真っ白になった。声も出なかった。周りに人はおらず、どうしていいかわからなかった。
立ちすくんでいたが、我に返ると走って家に帰った。何も考えられず、ただひたすら泣いた。惨めな気持ちだった。
次の日から必ず長袖の上着を着るようになった。スカートを
そんな変化に気づいたのが、同じアルバイトの男子だ。幸子より三歳下の大学一年生で、先輩として彼に仕事を教えた。子犬のような可愛らしい顔をしていて、彼の柔らかい雰囲気に気を許していた。
「一緒に帰りませんか?」
その言葉をありがたいと思った。途中までだが、知った人間が側にいてくれるのだから。
「最近、どうしたんですか? なんか変わりましたよね」
「まあ、色々あって」
「色々ってなんですか? 俺、先輩のことが好きなので、いつも元気でいてほしいです」
驚いて返事をせできずに黙っていると、幸子の手に彼の指が触れるのを感じた。それを思わず「いやっ」と言って払ってしまった。
「えっと、触られたくないくらい嫌いってことですか?」と悲しそうな声が聞こえた。
「違う」と否定したが、
「いや、冗談ですよ。俺、まだ十代ですからね。先輩みたいなおばさんのこと好きになるわけないじゃないですか」
彼はそう言って笑った。
年齢が三つ違うというのは、そんなにも大きな差なのだと知った。
幸子は絶望感でいっぱいだった。もう恋はできないのだろう、と。歳の差がなくても、触られればまた拒絶してしまうかもしれない。
しばらくの間、男性と近づくのが怖かった。できるだけ避けるようにした。
それからはラブシーンのある作品を見たり読んだりすると気分が悪くなった。キスの描写だけでも吐き気がした。
嫌悪感は月日が流れていくうちに段々と薄れていったが、男性と必要以上に近づく気にはなれなかった。親しくなっても先はないのだから。
恋とはなんだろう。結婚とはなんだろう。子どもの頃に憧れていたそれらが何の意味もないことに思えた。
幸子は体が痛くて目が覚めた。泣き疲れて床で寝てしまっていた。腕時計は午前一時を指していた。
雅貴の唇の感触を思い出した。この時は気分が悪くならなかった。本当に人混みに酔っていただけなのかもしれない。
スマホを見ると雅貴からメッセージが来ていた。
〈さっきはごめん。突然で悪かったと思ってる。本当にごめん〉
〈怒ってるよね。ごめんなさい〉
謝罪の言葉が並んでいた。
〈返信できなくてごめん。わたしこそ先に帰ってしまってごめんなさい。久しぶりの人混みに疲れてしまって、ちょっと具合が悪かったの。ちゃんと言えばよかったね。福田さんが謝ることは全然ないよ。気にしないで。花火、一緒に行けて楽しかったよ。ありがとう〉
本当のことなんて雅貴には言えない。傷つけてしまうから。雅貴が少しでも良い朝を迎えられるようにと願いながらメッセージを送信した。
すぐに返信が来たので驚いた。
〈怒らせたかなと思って、気になってた。俺がもっと気を利かせればよかった。もう大丈夫? ちゃんと寝てね。俺もすごく楽しかったよ! おやすみ〉
不安にさせてしまったのに、雅貴は優しい言葉をくれた。心が痛んだ。
〈大丈夫。福田さんは何も悪くないし、怒ってないよ。また一緒に映画、観に行こうね! おやすみ〉
きっともう会うことはない。幸子はそう思った。
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