八月、花火大会と雅貴への恋心
しかし、同時に鏡を見るのが嫌になった。それまで気にしていなかった外見のことで悩んだ。肌のシワやシミは手入れを怠っていた
雑誌や動画を見ながら肌のケアやメイクを勉強し、ドラッグストアで普段は使わない化粧品を買った。それでも、短期間で急に変われるわけがない。
スマホの通知音が鳴るたびに、雅貴からのメッセージが届いたのではないかと、幸子はすぐに反応してしまう。それほど雅貴のことを好きになっていた。久しぶりの恋心に
雅貴は幸子のことを分かってくれて、こんなに相性の良い人には出会ったことがないし、これからも出会えないと思う。だから、雅貴との関係を大切にしたい。失いたくない。
八月上旬、花火大会当日。雅貴との待ち合わせの前に、幸子は
〈福田さんと花火大会に行くことになったよ。何を着ればいいと思う?〉
雅貴と約束した夜、幸子は千花にメッセージを送って相談した。すると、千花から〈一緒に買いに行こう〉と返事が送られてきた。幸子はこの時、雅貴への気持ちを千花に伝えた。好きなのだ、と。
雅貴と映画を観たショッピングモールに、千花は家族と一緒に訪れた。
ショップを見て歩いていると、あるマネキンが目に留まった。白いブラウスにピンクのシフォンパンツを
「こういうの、わたしには似合わないよね」と言って、幸子はその場を離れようとした。
「試着してみれば? きっと似合うよ」
千花が試着を勧めたので、幸子は着てみることにした。アドバイスを求めた以上、尻込みをするわけにはいかない。
鏡の前で動くと軽い生地がふわりと揺れた。それを見た幸子の心も揺れた。本当はずっと可愛い服を着たかったのだ。その気持ちに背を向けてきた。
試着室のカーテンを開けると、千花は「可愛い」と感嘆の声を漏らした。幸子は嬉しくなって購入を決めた。同じショップでカーディガンも揃えた。雅貴にも可愛いと思ってもらいたいと強く願った。
「メイクもちょっとだけ変えてみたら?」
そう言って千花は幸子に小さな袋を渡した。中身はほんのりとした赤のリップグロスだった。
「それ、今日のメイクに足してちょうどいいと思う。恋してる幸子、最高に可愛いよ。自信持って」
千花の言葉が嬉しくて、幸子は泣きそうになりながら「ありがとう」と言った。
雅貴との待ち合わせ場所には幸子が先に着いた。太陽は随分と傾いているが、空はまだ明るい。
駅前の広場は多くの人で
雑踏の中に雅貴の姿を見つけた瞬間、幸子の心は弾んだ。マリンボーダーのポロシャツに黒っぽいジーンズ。たぶん何を着ても似合うのだろう。
幸子の姿を見た雅貴がどんな反応をするのか不安だった。幸子に視線を向けようとしない雅貴の様子から、やっぱり似合わない服だったのだと残念に思った。
会話をしながら歩き始めると、すぐに雅貴が幸子の手を取った。思いがけない出来事に、幸子は驚いた。
「はぐれないように、ね」
雅貴は優しく笑ってそう言った。雅貴の大きな手を幸子は握り返した。どんな話をしたか覚えていないほどに、ふわふわとした気分だった。好きな人と手を繋ぐことができて、幸子は嬉しくて泣きそうだった。
しかし、それまでとは違う雅貴のぎこちなさに、不安も残ったままでいた。
会場から近い河川敷にシートを敷いて並んで座った。周囲には同じように座る人の姿が多くあった。
開始時間まで、普段と変わらず映画の話をした。雅貴はいつも以上に話をしてくれて、たくさん笑顔を見せてくれた。幸子のことを笑わせてくれて、幸せな気持ちでいっぱいだった。
「花火を見るなんて久しぶり」
幸子がそう言うと、雅貴は「俺も」と返した。
「わたしでよかったの? 他の人を誘ったらよかったんじゃない?」
「俺は市川さんと一緒に来たかったから。市川さん以外の人なんて誘ったりしない」
幸子は耳まで熱くなった。
「市川さんは? 俺でよかったの?」
「うん。福田さんが誘ってくれて嬉しかった」
ちらりと雅貴を見ると、視線が合った。優しく微笑むその表情が幸子の恋心をより加速させた。
雅貴と話すのは楽しいし、なによりも触れられて拒絶反応が出ないのが嬉しかった。雅貴となら一緒に歩んでいけるのではないかと思った。しかし、幸子は雅貴に恋愛感情を抱いてもらえる自信がなかった。幸子の頭の中では、いつかの高橋と名乗った美人がちらついていた。ああいう人には勝てないのだ、と。
「福田さんって、何かスポーツしてるの?」
暗くなる気持ちを振り払うように、幸子は話題を探した。
「今はしてないよ。高校の時に陸上やってたくらい」
「じゃあ、走るの速いんだ」
「あ、そうじゃなくて、俺は
「分かるよ。そっか、だからたくましいんだね」
幸子は雅貴の腕を見つめた。それに気づいた雅貴が「触ってみる?」と尋ねた。本当は触ってみたかったけれど、気持ちが抑えきれなくなりそうで怖くなり、断った。
花火の打ち上げが始まると、雅貴が肩を幸子の肩にぴたりと寄せた。雅貴がどのように思ってそうしたのかわからず、幸子は動揺した。それでも、雅貴の体温に誘われて幸子は体を預けた。
全身で脈を打っているかのようで、鼓動に合わせて視界まで揺れていた。花火の音が胸の高鳴りをかき消してくれますように、と幸子は願った。
帰りも駅に向かう人で
「大丈夫?」
雅貴はそう言って、
「ごめん、久しぶりの人混みで酔ったかも」
雅貴のせいでくらくらしていたなんて言えるわけがない。
「もう少し人がいなくなるのを待とう」
雅貴は優しく幸子の背中をさすった。
「車を借りて静かに見れるようにすればよかったな。そうすれば、こんな人混みを歩かせることなかったし。ごめんね」
「わたしが慣れてないせいだから、福田さんが謝ることなんて全然ない。今日、すごく楽しかった。誘ってくれてありがとう」
せっかくの花火大会の日に迷惑をかけてしまったと思い、幸子は悲しくなった。
「あの、先に帰っていいよ。わたしはもう少し休んでいくから」
「俺が家まで送るって言ったよね。夜が怖いんでしょ? なおさら一人にして置いていけるわけないよ」
「でも、遅くなったら悪いし」
「まだ遅いなんて時間じゃないから。それに、俺は市川さんと一緒にいたい」
幸子は雅貴の「一緒にいたい」という言葉が嬉しかった。
「あー、でも、市川さんは早く帰って休みたいよね。タクシー呼ぼうか。支払いは俺がするし、大丈夫だよ」
雅貴の提案に幸子は首を横に振った。
「車、買おうかな。こういう時、車内で休ませてあげられるし、送っていけるし」
雅貴の呟きを聞いて、その隣に座るのは自分ではないのだ、と幸子は思った。
「えっと、福田さんはよく運転するの?」
「会社の車で営業先を回るからね。でも自分の車は持ってなくて。市川さんは運転することある?」
「わたしは運転免許持ってないの」
「そっか。じゃあ、やっぱり俺が車を持ってると便利だよね」
幸子の頭の中では、運転する雅貴と助手席に座る浴衣の美女の姿が浮かんでいた。
「もう平気だから帰ろう」
幸子は雅貴と一緒にいるのがつらくなってしまい、そう言った。好きだからこそ、不安が次から次へと押し寄せる。
すると雅貴が慌てたように幸子に向かい合って立った。
「あのさ、今日はいつもと雰囲気が違うよね」
雅貴が「すごく可愛い」と言って、幸子の頭を撫でた。そして、雅貴の唇が幸子の唇に触れた。
幸子は咄嗟に雅貴から離れて走り出した。長く走る体力はなかったが、できるだけ早足で駅へと向かった。
涙を
駅の駐輪場に停めていた自転車を見た瞬間、幸子は現実に戻された気がした。夢は終わったのだと。
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