七月、幸子のことをもっと知りたい

 初めて二人で映画を観た夜、雅貴は改札を抜けた幸子の後ろ姿を見つめていた。振り返ってくれないだろうか、と。幸子は人におびえて避けるように歩いていた。背中を丸め、肩をすくめていた。後を追って家まで送ってあげるべきだったかもしれない。でも、知り合ったばかりの人間に家まで送ると言われても困るだろう。

 もうすぐ姿が見えなくなってしまうという時、幸子が振り返った。その表情は不安に満ちていた。雅貴が周囲の目など気にせずに大きく手を振ると、幸子は笑って胸元で小さく手を振った。その姿は可愛らしくて、愛おしく思った。

 帰りの電車の中で、触れた背中を思い出していた。ゆったりとした服を着ていたので見た目では分からなかったが、想像していたよりも幸子は細身だった。

 待ち合わせ場所で雅貴のことが分からず、怯えた表情の幸子が笑顔になった瞬間、自分は特別な存在なのではないかと浮かれてしまった。大切にしたいと強く思った。




 それから毎日のように幸子にメッセージを送った。映画やドラマの話だけではなく、天気など日常の話も増えた。名字で呼び合うのは変わらないが、次第に敬語を使わなくなっていった。雅貴がそう望んだからだ。

 幸子もたくさんのメッセージをくれた。おはようも、おやすみも。通知音が鳴るたびに心が弾んだ。この幸せがずっと続けばいいと思った。




 ある日の夜、雅貴は会社の飲み会を途中で抜けて幸子に電話をかけた。人の行き交う道の端で。

『もしもし』と電話の向こうから聞こえる幸子の声に心が弾んだ。

「もしもし。今、大丈夫?」

『うん』

「なんか、すごく声が聞きたくなって、かけちゃった」

『もしかして、お酒呑んでる? いつもと少し違う感じがする』

 声を聞いただけで分かってくれた。

「あ、分かる? 会社の飲み会があってさ。でも途中で抜けてきた」

 好きな人の声と酒の効果で、雅貴は楽しい気分になっていた。

『だめだよ。戻ったほうがいいよ。そういうのって大切でしょ?』

「そんなことより市川さんと話したいんだよ」

 そう言った直後、すぐ近くから女性に声をかけられた。

「福田さん、もう帰っちゃうんですか? この後、二人だけで飲みに行きません?」

 声の主は幸子に暴言を放った高橋だった。急に心が冷えるような感覚におちいった。

「今、大切な電話をしているので邪魔しないでください」

 怒りを抑えながら冷静に言葉を発し、すぐにその場から離れた。

「ごめんね。ちょっと邪魔が入っちゃって」

『あの、もう寝るから切るね』

 幸子の声が弱々しく聞こえた。たぶん、高橋の声が聞こえてしまったのだろう。

「やっ、ちょっと待って。また一緒に観たい映画があるんだ。市川さんと、一緒に」

『うん。わたしもまた一緒に行きたい』

 幸子の声が少し明るくなった気がした。

「あとでメッセージ送るから。ごめんね、眠いのに電話して」

『ううん。声が聞けて嬉しかった』

「俺も嬉しい。おやすみ」

『おやすみなさい』

 通話を終えると悔しさが込み上げてきた。邪魔が入らなければもっと話せていただろう、と。高橋のせいで幸子にまた嫌な思いをさせてしまった。




 七月下旬、幸子とランチを食べて映画を観た。ランチは断られるかもしれないと思っていたが、すぐに〈いいよ〉と返信があった。

 この日は幸子の住む街の映画館を選んだ。ショッピングモール内に入っている。近いとはいえ自転車で三十分くらいかかると幸子に聞いた。


 待ち合わせ場所にいた幸子は雰囲気が変わっていた。服装が少し違って、ブラウスにカーディガンを羽織っていた。化粧もしっかりとしている。雅貴は自分を意識してくれているなら嬉しいと思った。

「今日は眼鏡なんだね」と幸子が言った。

「コンタクトだと俺のことが分からないと思って」

 幸子はくすくすと笑って「もう大丈夫。どっちでもわかるよ」と言った。

「そっか」と雅貴も笑った。

「市川さんも今日はパーカーじゃないんだね」

「パーカー以外の服も持ってるよ。おかしい?」

 幸子が気にするように自分の服を見た。

「おかしくないよ。可愛いと思う」

 雅貴がそう言うと、幸子は頬を赤くして「ありがとう」と小さな声で呟いた。そんな姿も可愛いと思った。


 女性が好きそうなオシャレな店を探しておいたが、幸子は「そういう所は苦手」と嫌がった。結局、ショッピングモールの和食屋での昼食となった。

 メニューを見て雅貴は焼き魚定食を注文しようと決めた。幸子に「決まった?」と訊くと「焼き魚定食」と答えた。その偶然さえも嬉しくて、心が躍った。

 

 この日に観たのは、海外のアクションコメディ映画だ。笑いをこらえきれずに「ふふっ」と雅貴が声を出すと、幸子の笑い声も同じタイミングで聞こえてきた。それだけで雅貴は嬉しくなった。




「ねえ、これからカフェとか行かない?」

 外に出るとまだ日光は熱く注いでいて、帰るには早い時間だった。しかし、駅で見送った時の不安そうな顔を思い出すと、暗くなる前に帰したかった。

「いいよ」と返ってきたので、女性が好みそうな可愛らしいカフェを提案した。スマホでランチの店を探した時に見つけた店だった。おとぎ話をモチーフにしていて、パステルカラーの内装が印象的だ。きっとまた断られるだろうと思った。

 スマホで店の情報を見せると幸子が「あっ」と声をあげて明るい顔になった。しかし、すぐに暗い表情に変わって「そこはちょっと・・・・・・」と難色を示した。一瞬だけ見せた笑顔が気になった。

「こういう店に入ってみたいんだけど、俺だけじゃ入りづらいからさ、よかったら一緒に行ってくれない?」

 幸子の本心が知りたくて嘘をついた。幸子は少し時間をおいて「じゃあ、行く」と言った。


 店内は混んでいたが、あまり待たずに席につくことができた。十代から二十代くらいの女性が多かった。中には若いカップルや幼い子どもを連れた夫婦の姿もあった。幸子が目を輝かせてメニューや装飾を眺めるのを見て、きっと来てみたかったのだろうと思った。ここに一人で入るのは勇気がいる。

 幸子が注文したのはパフェとカフェラテだった。パフェの透明な器の中では赤いジュレが宝石のように輝いていた。カフェラテは立体的なネコがふわふわと浮かぶラテアートだ。幸子はとても嬉しそうな顔をして、それらを眺めていた。

「写真に撮っておいたら?」と雅貴が提案すると、「そっか!」と慌ててスマホをバッグから取り出した。幸子はこういう写真をあまり撮らない人なのだ。ランチの時にもスマホはバッグに入れたままだった。反対に雅貴のスマホは常にテーブルの上にあった。食べ物の写真を撮るわけではないが、それが普通だったからだ。

「俺のも撮っとく?」

 雅貴が注文したケーキとカフェラテを幸子の方に動かすと、「ありがとう」と言って数枚の写真を撮った。ケーキの上にあるイチゴはバラの花の形をしていて、カフェラテにはハートが描かれていた。幸子はそれらも「可愛い」と言って笑顔を見せた。




 カフェを出て駅までの道を並んで歩いた。

「どうだった?」と幸子に尋ねると、「すっごく可愛かったし、楽しかった」と満面の笑みで返事があった。そして、恥ずかしそうに視線を落とした。

「実はね、本当はこのお店にずっと来てみたかったの。でも、わたしみたいなのが来られる場所じゃないと思ってて。だから、すごく嬉しかった」

 誘ったのは間違いではなかったのだと分かった。幸子は感情を隠すのが下手だ。それでも本心を隠そうとする。もっと幸子のことが知りたいと思った。

「友達は一緒に行ってくれないの?」

 雅貴はふと浮かんだ疑問を口にした。

「わたし、友達が少ないから。よく連絡を取ってるのは千花しかいないの」と悲しそうな顔で笑った。悪い質問をしてしまったと後悔した。

「俺もあんまり友達いないんだ。この歳になるとさ、みんな結婚して子どもがいたりして、付き合い少なくなっちゃうよね」

「そうだね」と一言だけ返ってきた。

「でも、今は俺が友達、でしょ? だから、市川さんの行きたい場所、一緒に行こう」

 幸子は驚いた表情で雅貴を見て、「本当に? いいの?」と尋ねた。

「いいよ」と答えると、幸子は頬を赤く染めて嬉しそうに笑った。




 横断歩道の信号が青になるのを待っている時、幸子の視線の先に花火大会のポスターがあることに気づいた。一緒に行きたいと思った瞬間に声が出た。

「花火大会、行こうよ」

 何も考えずに言ってしまった。きっと断られると思いながら、もう一度「行こうよ」と言った。幸子はうなずいて答えた。嬉しさで抱きしめたくなったが、思いとどまって出しかけた手を強く押さえた。


 ポスターに近づいて日程と場所を確認した。

「ここって市川さんの家から近い?」

「ちょっと離れてるかな。毎年、音だけは聞こえてくるけど」

「見には行かないの? もしかして、花火は好きじゃない?」

「花火は綺麗だし、好きだよ。でも・・・・・・夜が、怖くて。いい大人なのに笑っちゃうよね」

 幸子は悲しそうに笑ったが、雅貴は笑えなかった。最初に映画を観た日の怯える幸子の姿が、腑に落ちた。あれは夜が怖かったのか、と。

「ごめんね。やっぱり花火はやめておく?」

「あ、そっか。そうだね。福田さんは他の人と行ったほうが楽しいと思う」

 幸子はそう言いながらも残念そうな顔をしていた。本当は行きたいのだろうと思った。

「俺は行くなら市川さんと行きたい。夜が怖いなら、俺がちゃんと側にいるし、家まで送る。だから、一緒に行こう」

「そんなの悪いよ。子どもじゃないんだから一人で帰れるよ」

「俺がそうしたい。お願いします」と頭を下げた。

「えっ、ちょっと・・・・・・」と言って、幸子があたふたするのが視界の端に見えた。

「あの、えっと、迷惑でなければよろしくお願いします」

 幸子の返事が泣きそうになるほど嬉しかった。


 積極的になりすぎないようにと思っていたのに、幸子を目の前にすると気持ちを抑えるのが難しかった。

 過去に交際していた人にはそんなことを感じたことがなかった。今になって考えれば、義務的に付き合っていたのだと思う。彼女ことが好きだったんじゃなくて、彼女の要望に応えている自分自身のことが好きだったのだ。可愛い女性が隣にいて、お願いを聞いてあげているのがかっこいい、と。雅貴から彼女に何かをお願いした記憶がない。だからきっと「つまんない」と言われてきたのだろう。

 もっと幸子の笑顔が見たい。もっと幸子のことを知りたい。雅貴は強く幸子を求めるようになっていった。

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