七月、雅貴に惹かれる心

 七月上旬、雅貴まさたかから幸子さちこのスマホにメッセージが届いた。

福田ふくだです。覚えてますか? 映画、公開されましたね。一緒に行ってもらえませんか? よろしくお願いします〉

 まさか本当に誘われるとは思っていなかった。社交辞令だととらえていた。また会ってみたかったので承諾した。そんなことを思ったのは久しぶりで、幸子は戸惑いを感じていた。

 すごくモテそうな人、というのが雅貴の第一印象だ。髪はボサボサだったが、スタイルがよく、顔立ちも整っていた。優しそうで、話すのが上手だ。なにより幸子は雅貴の笑顔に好感を持っていた。

 一緒に映画館に行く人なら大勢いるだろうに、あえて幸子を誘うのはなぜなのかと疑問に思った。

 

 映画が公開されて間もない平日の夜、仕事が終わってから観ることになった。待ち合わせ場所は雅貴の職場から近い駅前の広場だった。背の高いオフィスビルが建ち並び、商業施設も充実している。空が暗くなっても街の明かりがまぶしい。とてもにぎやかな場所だ。帰りを急ぐ人が行き交い、幸子と同じく誰かを待つ人の姿も見えた。幸子は夜に出歩くことが苦手で、少し不安を感じていた。

 一緒に食事もするはずだったのだが、雅貴から〈少し遅れます〉とメッセージが送られてきた。幸子は〈分かりました〉とだけ返して、近くの書店に入って時間をつぶすことにした。忙しい中で幸子に連絡をしてきたのだろうと思うと、どのくらい遅くなるのか尋ねることができなかった。仕事の邪魔をしたくなかった。


 四十分が過ぎた頃、〈これから向かいます〉と連絡があったので、幸子は待ち合わせの場所に戻った。

 普段は見ることのない都会の景色を眺めながら待っていると、いかにも仕事ができそうな雰囲気の男性が幸子に向かってまっすぐに走って来るのが見えた。それに気づいた幸子は怖くなって顔を伏せた。近くにいる人の連れだろうが、知らない男性が勢いよく近づいてくることに恐怖を感じた。

市川いちかわさん、こんばんは」

 柔らかな優しい声が幸子を呼んだ。顔を上げて相手をじっと見ると、その顔には見覚えがあった。

「えっと・・・・・・福田さん?」

「遅くなってしまって、すみません。あの、顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」

 髪をしっかりと整え、紺のスーツ姿で現れた雅貴は初めて会った時と違う印象だった。眼鏡もかけておらず、分かるまでに少し時間がかかった。雅貴だとわかった瞬間、幸子の心は温かくなった。

「ああ、えっと、大丈夫です。知らない人だと思ってしまって・・・・・・ごめんなさい」

「あー、初めて会った時は眼鏡でしたね。普段はコンタクトなんですよ」と雅貴は言って、小声で「眼鏡に替えてくればよかったな」とつぶやいた。

「眼鏡だけじゃなくて、全体的に雰囲気が違うと思います」

「そんなに違いますか?」

「はい」と幸子が答えると、雅貴は整った髪を手でくしゃくしゃと崩した。

「すみません。俺はそんなに違うとは思ってなくて」

「あの、でも、もう福田さんだって分かったので大丈夫ですよ」

 幸子が慌ててフォローすると、雅貴は安心したように笑った。その笑顔がやはり好きだと思った。


「福田さん!」

 近くで雅貴を呼ぶ女性の声が聞こえた。その声の方を見ると、若く美しい女性が微笑みながら近づいてきた。巻いた長い髪と膝丈のスカートがふわりと揺れた。ハイヒールを履いていても雅貴より背が低く、小柄な人だった。

「これから帰るんですか?」

 その人はそう言いながら、雅貴の腕にそっと触れた。二人が並んで立つ姿は美男美女というほかになく、幸子は見惚みとれてしまっていた。

「いや・・・・・・」

 雅貴が困ったような顔で幸子を見ると、その人の視線も幸子に向いた。

「あっ、もしかしてお姉さんですか? はじめまして、高橋と申します。いつもお世話になっております」

 そう言って高橋と名乗った女性が会釈をしたので、幸子もつられて頭を下げた。

「僕に姉はいませんよ。これから彼女と約束しているので、失礼します」

 雅貴は冷たい口調で高橋に向かって言った。

「えっ? 彼女? こんな地味でダサい人が福田さんの彼女なわけないですよね?」

 先程まで微笑ほほえんでいた美女の目が、敵意を持ったように幸子をにらんだ。急な大声に周囲の目が集まり、幸子は怖くなって下を向いた。怒鳴り声がかつての上司を彷彿ほうふつとさせた。この日の幸子は、ゆるめの白いパーカーと黒いジーンズを身につけていた。それに、くたびれた白いキャンバス素材の鞄を肩から斜めに掛けていた。地味だとかダサいと言われても仕方ない。

「僕の大切な人に失礼なこと言わないでください」

 そう言って雅貴は幸子の背中を押しながら「もう行こう」と歩き出した。近づいた雅貴からかすかに良い香りがした。爽やかで少し甘い、好きな匂いだった。全身が熱くなった。匂いだけではなく「大切な人」という言葉が心に響いた。


「大丈夫なんですか? わたし、一人で観に行きますから、戻ったほうが・・・・・・」

 ちらりと雅貴の表情をうかがうと、怒ったような顔をしていた。背中を押した雅貴の手は、まだ幸子の背中に触れていた。雅貴に触られるのは嫌ではないと思った。雅貴の背は幸子より少し高いくらいで、息を感じるほどに顔が近く、心臓が激しく鼓動した。

「俺は市川さんと観たいんです。さっきの人は同じ会社の人ってだけで、ちょっと話しかけられただけですし」

「あの、でも、わたしと歩くの恥ずかしくないですか?」

「どうして?」

「地味だし、ダサいから・・・・・・」

「気にしてたんですね。市川さんが良いと思って着てるんですから、気にすることないですよ。俺は好きですよ。あの人に話しかけられた時、無視しておけばよかったです」

 そう言って突然、雅貴が慌てた様子で背中から手を離した。

「あのっ、ごめんなさい! 近すぎだし、嫌でしたよね? っていうか、彼女って英語のsheの意味で言ったんです。あの人が勝手に勘違いして・・・・・・」

 困ったような表情を見て、幸子はくすっと笑った。

「嫌じゃなかったです。福田さんって、見た目だけじゃなくて、中身もかっこいいんですね」

 自然と口から出た本音に幸子自身が驚いた。「そう言ってもらえると嬉しいです」と雅貴は照れながら笑った。

「あっ、あの、いつもはご自身のことを僕って言うんですか?」

 幸子は恥ずかしくなり、慌てて話題を変えた。

「仕事では僕、プライベートでは俺。そうやって使い分けてます」

「そうなんですね」としか返せないまま、幸子は熱くなった頬を両手で包んだ。


 映画のチケットは雅貴が二人分をインターネットで予約していた。幸子はそういう方法があることを知ってはいたが、使ったことがなかった。雅貴は説明しながらスマホと発券機を操作した。

 発券されたチケットを受け取るのと同時に料金を渡そうとすると、雅貴は断るような仕草をした。

「いいですよ。ここは俺が出しますから」

「ダメです。自分の分は自分で払います」

「でも・・・・・・」と雅貴が言葉を続けようとするのを「払っていただく理由はありませんから」と幸子はさえぎって言った。

 雅貴の手をとって、料金をその手のひらに乗せた。雅貴は「分かりました」と不本意そうに受け取った。


「市川さんは何を食べてきたんですか?」

 雅貴の問いに幸子は「えっ?」と聞き返した。

「えっと、晩ご飯、何を食べたのか聞いたんです」

「一緒に、って約束したのでまだ食べてません」

 幸子は当然のことだと思っていたのだが、雅貴は心苦しそうな顔をした。

「先に食べててくれると思い込んでました。お腹空きましたよね? 本当にすみません」

「そんなに謝らないでください。わたしが勝手に食べてなかっただけですから。久しぶりに映画館のホットドッグを食べたいなって思ってたくらいですし」

「あ、俺もホットドッグを食べようと思ってました」

 幸子はふふっと笑って「じゃあ、約束どおり一緒に晩ご飯ですね」と言った。

「ここは俺におごらせてください。待たせてしまったお詫びに。お願いします」と雅貴は言って、さらに「奢らせてもらえないなら、俺は食べずに映画だけ観ます」と付け加えた。そんなことを言われると断れなかった。

「では、ご馳走になります」と答えると、雅貴は「よかった」と呟いてホッとするように笑った。その笑顔に幸子の胸はときめいた。雅貴の笑顔は優しくて、少しかわいい。


「本当にすみませんでした。帰ろうとしたら後輩に呼び止められてしまって・・・・・・。ずっとあの場所で待っててくれたんですか?」

 フードの列に並びながら、雅貴は申し訳なさそうに声を発した。

「いえ、仕事のほうが大切ですし。近くの本屋さんに行ってましたから、気にしないでください」

 そう言って、幸子は書店のカバーがかけられた文庫本を鞄から取り出した。映画化も決まっている作品だ。タイトルを告げると雅貴が興味を示した。

「俺もそれ気になってるんですよね。市川さんは本とかってよく読まれるんですか?」

「そこそこ読むって感じです。いつもは図書館で借りるんですけど、本当に好きで気に入ったものだけは買って何回も読みます。福田さんは?」

「俺が読むのは小説というより漫画のほうが多いです。市川さんがその本を買ったってことは、面白かったってことですよね?」

「はい。わたしは面白いと思います。この作家さんの文章もすごく好きですし」

「じゃあ、俺も読んでみようかな。市川さんが好きなら、きっと俺も好きだと思います。だって、映画の好みが似てるでしょ?」

 雅貴が楽しそうに笑うのを見て、幸子は嬉しくなった。雅貴にはいつも笑顔でいてほしいと思った。


 席に着いて二人でホットドッグを頬張った。

「いつもドリンクだけなので、たまにはこういうのもいいです」と幸子は言った。

「ポップコーンとかも食べないですか?」

「はい。なんだか音が気になってしまって。周りの人の音を聞くのは平気なんですけど、自分が音を立てるのはドキドキするっていうか」

「あー、ちょっとわかる気がします。静かなシーンだと食べづらかったりしますよね」

「そうそう」と幸子はうなずいた。同じ感覚を持っている雅貴に親近感が湧いた。

 やがて照明が暗くなり映画の予告が流れると、雅貴が耳元で「これも観たいですね」とささやいた。心臓がとくんと跳ねた。雅貴にとっては慣れた行為であって、きっとドキドキしているのは幸子だけなのだろうと思った。




「今日はありがとうございました。わたし、あっちの駅だからここで失礼します」

 映画館を出たところで、幸子はそう言って雅貴に会釈をした。

「待って。あの、駅まで送ります」と雅貴が引き止めた。そして使う路線を尋ねられた。この時、雅貴とは路線も違えば方向も違うのだと知った。中心部に住む雅貴と郊外に住む幸子の差に、世界の違いを思い知らされた気がして、少し悲しくなった。

「もう少し話がしたいです」と言う雅貴に、幸子も同じ気持ちだったので、うなずいて答えた。

 駅までの短い距離を、映画の感想を話しながら歩いた。幸子は楽しくて仕方がなかった。しかし、久しぶりのときめきに困惑してしまい、雅貴の顔を見ることができなかった。


「送ってくれてありがとうございます。じゃあ、また」

 駅に着くと、幸子はそう言って改札を抜けた。自然と口から出た「また」という言葉がくすぐったかった。雅貴ともっと話したいと思っている自分がいた。

 ホームへ続く通路へ進む前に、幸子は改札の方へ振り向いた。すると雅貴は同じ場所に立っていて、幸子に手を振った。もういないと思ったのに。嬉しくて幸子も小さく手を振り返した。

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