幸子の過去(一)
「紹介したい人がいる」
「来年、
そして夢であるカフェを徹彦と一緒に開くのだ、と千花に告げられた。寂しくも思ったが、大切な友人の夢が叶うのだから喜ばないわけがない。千花の作る料理とスイーツは絶品で、徹彦の淹れるコーヒーも味と香りが上品で、二人のカフェは成功するという確信が幸子にはある。
千花と徹彦の関係がカフェで開催されたワークショップから始まった、という話を幸子はよく聞いていた。その場で意気投合し、すぐに連絡先を交換したらしい。
「背が高くて、腕が
七年前、幸子は千花から結婚の報告と同時に徹彦を紹介された。徹彦の出身地は幸子と同じ北海道だ。とは言え北海道は広く、互いの地元は車で四時間以上かかるほどに遠い。
徹彦はスポーツをやっているタイプの体が大きい人で幸子は少し身構えてしまったが、話すと温厚な人柄なのだと分かり
「幸子の身近に頼れる人がいてほしい」
千花は一杯目の焼酎を呑みながら、そう話した。十三年前にうつ病になった幸子を、千花はずっと気にかけている。異変に気づいて病院に連れていったのも千花だった。既に元気になって通院もしていないが、幸子のことが気がかりなのだという。
「分かった。会ってみるよ。悪い人じゃなさそうだし」
ずいぶんと世話になったこともあり、幸子は承諾した。店の外で相手が待っていると言われれば、なおさら断りづらかった。
幸子は大学卒業後、テレビCMでもよく見かける量販店に正社員として就職した。日本各地の主要都市に大規模な店舗を展開している。最初は行ったこともない土地の店舗で勤務をしていたが、入社四年目の秋に転勤で大学時代を過ごした街へ戻った。
そこで女性の上司からパワハラを受け、幸子の精神は徐々に
他の売り場責任者もまた怒鳴り散らす人が多く、だからこの店舗は人員不足になるのだと思った。彼らによれば「最近の若いやつはすぐ辞める」のだそうだ。幸子は人員を補充するために転勤を命じられたうちの一人だった。
問題を抱えた店舗に本社からなんのお
辞めたいと何度も思ったが、就職難の時代にやっと
この頃の幸子は、食欲がなくなる一方で飲酒量が増えていた。よく眠れないことも多く、体調が思わしくなかった。残業時間が増え、十分に休むことすらできていなかった。
千花は結婚するまで実家で暮らしており、幸子が近くの店舗に転勤してからは何回か顔を見せることがあった。
幸子の元気がないことに気づいた千花は、一泊二日の温泉旅行を計画した。あちこちを歩き回るのではなく、静かなカフェやレストランでのんびりと過ごした。心も体も疲れきった幸子を気づかう行程だった。
旅館で迎えた朝、幸子は千花に揺り起こされた。千花はひどく心配そうな顔で幸子を見ていた。幸子は眠りながら泣いていたのだ。夢の中で怒鳴られ、現実の世界で涙を流した。パワハラを受けるようになってから、そういうことはよくあった。職場でのことを話すと、千花は「ありえない!」と怒った。本社への相談を提案されたが、波風を立てたくないと拒否した。
旅行は中断となり、幸子は千花に付き添われて病院に行った。うつ病だと言われ、会社に診断書を提出して一ヶ月ほど休職をした。その間にも上司から嫌がらせの電話やメールを受け、耐えきれなくなって退職することにした。負けたようで悔しかった。転勤から九か月が経過した頃のことだった。
将来への不安に襲われ、早く元気になりたくても、体が思うように動かずもどかしい日々を過ごした。千花が幸子の部屋を訪ねては料理の作り置きなど、生活の手助けをした。
「せっかくの休みをわたしのために使わないで」
「わたしがしたいと思ってしてるだけ。幸子は余計なこと考えないでいいんだからね」
消えてしまいたいと思うこともあったが、千花の存在が幸子の心の支えになっていた。必ず元気になって千花に恩返しをしたいと思った。
幸子は会社を辞めたことも病気のことも、離れて暮らす家族を心配させたくなくて知らせなかった。だが、電話に応答しなくなったことで、両親が心配して幸子を訪ねてきた。電話に出なかったのは声を聞けば泣いてしまいそうだったからで、やはりその姿を見ると涙が
病気のことや感じている不安のことを話すと「帰っておいで」と父が言った。
「やりたいことがあるから帰れない」
幸子は嘘をついた。本当は家族に頼りたかった。しかし、インターネット上で見た〈うつは甘え〉という文字が頭から離れなかった。早く元気になりたくて検索したはずなのに、幸子の心は余計に深く傷ついた。
母が幸子のところに残ることになった。久しぶりに食べた母の手料理は懐かしく、そして幸子の身にも心にも染みた。
母は惣菜店の一人娘で、高校卒業後はその店で働いていた。父との仲もそこで深めたと聞いている。幸子にとって母の味は祖父母の味でもあり、心が安らぐ味だ。
テレビを見ていても勤めていた会社のCMが流れたり、店舗がロケ地として使われていたりする。見るとつらい記憶が蘇って苦しくなった。それでなくても急に泣き出してしまうことも多く、心配させたくなくてもどうしようもなかった。そのたびに母が幸子を抱きしめ、背中を優しくさすった。何も言わずに幸子に寄り添った。
「家に帰りたい」と素直に言えたらどんなに楽だっただろう。だが、実家で同居している長兄家族のことを考えると、幸子の存在は邪魔になると思った。長兄も義姉も幸子が戻ることに賛成だとはいえ、急に泣き出してしまうような人間がいれば困らせてしまうに違いない。幼い子どもたちだっているのだ。
母が幸子と暮らし始めて二か月が過ぎた。幸子を心配するあまり、一か月の予定がずいぶんと延びてしまっていた。その間に、母の荷物を持った父や長兄が幸子のもとを訪ねた。久しく会っていなかった次兄も、母からの連絡を受けて駆けつけた。
幸子には
「ごめん。俺が近くにいたのに。幸子のこと、ちゃんと見ててあげればよかった」
祥史は目に涙を浮かべながら、ひたすら謝った。幸子は祥史に嫌われていると思っていた。幸子が会いたいと言っても「忙しい」などと断られてきた。それなのに、どうして。幸子には理解できなかった。
祥史は休日のたびにスイーツを持って訪れた。幸子が元気になるようにと。ずっと仲直りがしたかった幸子にとって、それは嬉しいことだった。しかし、幼い頃と同じようには振る舞えなかった。心の奥にわだかまりが残っていたせいだろう。それは祥史も同じらしく、ある程度の距離を取られていると感じた。
「幸子が好きな小説の映画、新しいのが公開されたんだって」
キッチンに並んで立つ母がそう言った。気持ちが少し上を向き始めた幸子は「料理を教えてほしい」と頼んだのだ。
好きな小説とは、幸子が高校生の時に出版されたファンタジー小説のことだ。続編も数冊あるのだが、社会人になってからは読むこともできないほどに忙しく、まして映画など観る余裕もなかった。
観ていないと言う幸子のために母が一作目のDVDをレンタルしてきた。プレイヤーを持っていなかったため、ノートパソコンで再生した。その小さな画面に広がったのは、幸子の想像力では考えることもできなかった世界だった。
新作を観るために母と一緒に映画館に足を運んだ。大きなスクリーンと迫力のある音響に幸子は圧倒され、魅了された。この時から幸子は映画の
上映前に流れた映画の予告に、もっと色々な作品を観てみたいと思った。映画は幸子に射した一筋の希望の光だ。
その後、母と祥史の手を借りながら安い家賃のアパートに引っ越した。使う暇もなかった給料はそれなりに貯まっていたが、将来を考えると少しでも支出を抑えて残しておきたかった。
母は祥史との同居を提案した。祥史が難色を示したし、幸子も気が進まなかった。家賃や光熱費のことを考えると同居は魅力的だが、それ以上の問題が二人の間にはあった。
狭いワンルームの部屋だが、押し入れをリフォームしたというクローゼットは収納力が高い。幸子はそこに入れられるだけの必要最低限のものを残して、それ以外の物は処分した。すっきりとした気持ちでやり直していきたかった。
近所にはコインランドリーや昔ながらの商店街があり、生活するのには困らない場所だ。シネマコンプレックスが入るショッピングモールへも、自転車を使えば遠くはない。
引っ越しと片付けが落ち着いたタイミングで母は北海道に帰った。心配は尽きないようだったが、週に一回は電話で声を聞かせることや、祥史が幸子を見守ることを条件に安心感を得たらしい。
母が帰ってから、祥史は幸子のアパートには来なくなった。会う時はいつも外だ。月に一回はしていた祥史との食事も、時間が経つごとに回数が減り、今では年に一回ほど会うか会わないかだ。
祥史も
会社を辞めてから半年が過ぎ、体調が回復してきた幸子は短期間や短時間のアルバイトから始めて、少しずつ社会に戻っていった。
今は部品製造工場でアルバイトとして働いている。基本的に土日祝は休みで、午後五時過ぎには帰ることができる。余程の
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