六月、幸子への好意
六月のある日、徹彦から〈うちに飯食いに来ないか?〉と連絡があった。数日後、仕事帰りに吉村家を訪問すると、千花が「友達を紹介したい」と話した。スマホで写真を見せてもらったが、地味な人で好みの顔でもなくて興味が持てなかった。
「
映画が好きという点では興味が湧いた。世話になっているし、会ってみるくらいならいいかもしれない。そう考えて会うことに決めた。
幸子は千花の大学時代からの友人で、秋に四十歳になるという。今まで恋人がいたことがなく、独りで生きていく覚悟をしているそうだ。その歳で恋人の一人もいなかったなんて信じられなかった。
キッチンにいた徹彦がコーヒーを運んできた。徹彦の淹れるコーヒーはおいしい。豆を選ぶところからこだわっている。千花との出会いもコーヒーがきっかけだったそうだ。
「家族で俺の実家の近くに引っ越そうって計画してるんだ。来年、俺が関わってるプロジェクトが一段落しそうだから、そのタイミングで」と徹彦が千花の隣に座って言った。
「そうなんですか」としか言えなかった。徹彦の実家は北海道にある。今住んでいる場所からは遠い。寂しい気持ちになった。
「それで、福田君とわたしの友達が頼り合える関係になってくれたらいいなって思ってるの」
雅貴にはたまに連絡を取るくらいの友人なら数人いるが、深い付き合いをしている人は徹彦以外にいない。幸子も同様に友人が少ないのだという。
千花が駅前の居酒屋を利用すると言ったので、「外じゃなくて、ここで会えばいいんじゃないですか?」と雅貴は尋ねた。
「
葵は吉村夫妻の息子で、五歳になったばかりだ。雅貴が訪れた時には既に眠りについていた。
「それに、さっちゃんは俺がいると遠慮して遊びに来ないから」
「そうなの。家族の時間を大切にしてって。徹彦君がいる時はほとんど来たことないよね」
家を訪問するタイミングによっては、紹介されるよりも前に幸子に会えていたのだろう、と思った。
「ところで、その人は俺に会いたいって言ってくれてるんですか?」
雅貴がそう言うと、千花が困ったような表情を浮かべた。
「実はね、まだ幸子には言ってないの」
千花の言葉に驚いてしまった。てっきり幸子とは話がついているものだと思っていた。話していない理由は、幸子に男性を紹介しようとすると警戒されてしまうから、とのことだった。
「福田君なら大丈夫な気がする」と千花が優しい笑顔を浮かべた。
「二人とも恋人はいらないし結婚もしないって言ってるからさ、いい感じに友達になれると思うんだ」
徹彦も同じように優しく笑った。この二人が勧めるのだから、良い人なのだろうと思った。
それぞれに都合がいい六月下旬の土曜日。午後五時になる少し前、雅貴は居酒屋の近くで待機していた。店には少し遅れて入る計画だった。
千花に「部屋着くらいのゆるい服装で来て」と言われていたので、パーカーとジーンズを選んだ。普段しているコンタクトレンズではなく眼鏡をかけ、髪もあまり整えなかった。
駅の方向から千花が歩いてくるのが見え、その隣には写真で見た女性の姿があった。幸子だ。モノトーンカラーのゆったりとしたパーカーとジーンズを身につけていた。雅貴が服装について言われたのは、幸子に合わせるためだったのだろう。
黒い髪は肩につかないくらいの長さだった。服装も化粧も地味だが、笑顔を見ると心臓がトクンと脈を打った。写真よりかわいい。雅貴は早く話してみたいと思った。
千花から届いたメッセージを見て店に入った。テーブルに近づくと、幸子は
「はじめまして、
「はじめまして、福田雅貴です」
幸子の無愛想な自己紹介に、雅貴は同じように返した。
「えっと、千花さんのご主人の友人で、お二人にはお世話になってます」
「わたしは千花の友人です」
この時の幸子は雅貴に少しも興味を持っていないように感じた。雅貴は次の話題を探したが、うまく言葉が出てこなかった。なかなか話が進まないのを見るに見かねて、千花が話題を振った。
「幸子、映画好きだよね。福田君も映画が好きなんだって」
千花がそう言うと、幸子は雅貴に好きな映画を尋ねた。映画のタイトルをいくつか挙げていくと、興味なさげに聞いていた幸子が徐々に笑顔を見せ始めた。テーブルに両肘をついて前のめりになり、雅貴の目を真っ直ぐに見て相槌を打ちながら楽しそうに話を聞いていた。その姿に雅貴は強く心を惹かれた。輝く瞳、うっすら赤く染まる頬、柔らかそうな唇。触れてみたいと思った。
雅貴も幸子に好きな映画について質問した。雅貴が好きだと話した映画を幸子も好きだと言った。
「あのシーン覚えてますか?」
そう言って幸子は台詞や動きを真似した。雅貴はそれを見て「わかります」と言いながら笑った。
幸子はホラーやゾンビは苦手で、たまに観ては後悔すると言いながら恥ずかしそうに笑った。幸子の豊かな表情に、雅貴は夢中になっていた。
「福田さんって、おいくつなんですか?」
「三十六歳です」
「お若いですね」
「えっと、市川さんは今年で四十歳なんですよね? 俺と四つしか違わないですよ」
雅貴は軽い気持ちで笑いながら言った。
「も、ですよ。四つも違います」と幸子は悲しそうな顔をした。雅貴は何がよくないのか理解できないまま、違う話題を探していると、幸子がウーロン茶ばかり飲んでいることに気がついた。
「市川さんってお酒は飲まないんですか?」
「飲みません。健康に気をつけたいので。・・・・・・えっと、肝臓の数値が悪かったことがあって、それからは飲んでないんです」
「そうなんですね。俺も見習いたいです」
「あ、でも、仕事の付き合いとかがあると難しいですし、問題がなければ飲んでいいと思いますよ」
「あー、俺、営業職なんでそういう付き合い多いんですよ。市川さんは仕事関係で飲み会はないんですか?」
雅貴が尋ねると、幸子は困ったような顔をした。
「あの、わたし、アルバイトしながら生活してて・・・・・・。そういう誘いは断るようにしてるんです。いい歳して独身でアルバイトって、笑っちゃいますよね」
千花が「そんなことない」と言葉を発するのと同時に、雅貴も「そんなことないです」と言った。
「バイトだとか社員だとか関係ないと思います。笑ったりなんかしません。それに、俺だって、独身ですし」
「なんか、ごめんなさい」と幸子は謝り、翌月公開のサスペンス映画の話をし始めた。
「その映画、俺も観たいと思ってるんです」
そう言った後、飲み込みかけた言葉を吐いた。
「よかったら、一緒に観に行きませんか」
幸子と話していると楽しくて、もっと話したかった。だが、困らせてしまったようで、幸子は驚いた表情のままで固まっていた。千花の助け舟がなければ、連絡先は交換できていなかっただろう。
店を出たところで解散となった。千花が雅貴に幸子を駅まで送るように勧めたが、幸子は断った。逆に幸子が千花をマンションまで送るように雅貴に言った。道中、千花は満足そうにニコニコと笑っていた。
「けっこう良い感じだったんじゃない?」
「そうですね。楽しかったですし、もっと話してみたいです」
「でしょ? 幸子と福田君って合うんじゃないかなって思ったんだよね」
「やっぱり最初はすごく警戒されてたみたいですけど」
「それでも、幸子があんなに楽しそうに男の人と話してるの初めて見た。なんか嬉しかったな」
「俺も嬉しかったです。ばあちゃんの家の猫が懐いてくれたみたいな感じで」
「あははっ。猫? かわいい」と千花は楽しそうに笑った。
「さっき、幸子を否定しないでくれて、ありがとう」
急に真剣な声で千花が話し始めた。
「幸子ね、色々あって今はバイトで生活してるんだけど、何も知らずに否定する人もいるわけ。だから、福田君が肯定してくれて嬉しかった」
千花が少し涙声になっている気がした。
「わたしは幸子がいたから福田君のことも助けようと思った」
七年前に雅貴を励ましてくれたのは、幸子も同じように落ち込んでいたことがあったからなのだという。
「今だから言うけど、あの頃は結婚したばっかりだったし、本当は徹彦君と二人の時間を過ごしたかったよ。でも徹彦君の大切な人が困ってるなら助けなきゃって」
「すみませんでした。お二人の大事な時間を割いていただいて。感謝してます」
「いいの、いいの。徹彦君の昔の話もたくさん聞けたし、より愛が深まったみたいなとこもあるし」
千花は照れくさそうに笑った。
「わたしにとって幸子も福田君も大切な存在だから、放っておけないっていうか」
「俺は市川さんのことをもっと知りたくなりました。市川さんもそう思ってくれてたらいいですけど」
この時には既に幸子に恋心を抱いていたのだと思う。また会いたいと強く願った。
千花を送り終えた帰り道で〈さっきは楽しかったです。ありがとうございました〉と幸子からメッセージが届いた。楽しいと思ってくれたことが嬉しくて心が弾んだ。
〈俺も楽しかったです。映画、絶対に観に行きましょうね〉とすぐに返信した。
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