第10話切れ目 そして再発
切れ目 そして再発
どうしようもない倦怠感が僕の体を支配していた。
こうなることは分かりきっていたと言うのに、僕は断ち切ったはずの薬物の世界に自分から足を踏み入れてしまった。
薬物はたばこや酒と一緒で、どんなに長い期間やめていたとしても、一度やってしまえば再びやめることは難しい。
しかし、薬物はたばこや酒と決定的に違う事実がたった一つある。
違法薬物で有るが故の行き着く先が警察の逮捕であるということだ。
約二年、頑張って積み上げてきたはずの信用や人間関係をも、僕は今失おうとしている。
仕事を休むことはなかった。
なぜ薬物をやってしまったのか…そしてなぜ今も続けているのか…。
その言い訳を正当化するためには、仕事に穴をあけ会社や仲間に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
仕事に行くため、薬物の切れ目で動かない体をベッドから引きはがすため…。
自分にとって都合のいい言い訳が自分の中で正当化されていった。
零細企業とも言い切れない弱小企業で働き、来る仕事はすべて引き受け、わずかな従業員で寝る間も惜しんで現場をこなしていく。
20代前半の若いものならそれもいい。
しかし自分は間もなく60歳にも届こうという老体だ。
薬物の力なくしてやり切れるはずがない…。
日に日に自分の体や考え方が蝕まれていくことに、自分が気づくまで時間はかからなかった。
「やめなきゃ…」
そう思った矢先、一本の電話が入った。
「慎さん、あんたまた薬やってるんだって!」
耳をつんざくような金切声。
社長の妹だった。
「うちの息子が近頃慎さんの様子がおかしいって私に相談に来たんだよ」
胸に詰まるものがあった。
刑務所帰りの僕を迎え入れてくれた社長こそ、若かりし頃の薬物経験から立ち直った数少ない人間の一人だった。
その社長の妹だけに違法薬物に対し敏感で有り、その薬物に携わる人間に対する嫌悪感も人並みならぬものがあった。
その妹の息子こそ、年末、日勤夜勤と寝る時間もなく二人で現場を駆け回った拓也だった。
拓也が心配してくれている…。
その事実だけで今の自分が如何に間違った道を進んでいるのか、一刻も早く帰るべき場所に帰り着かなくてはいけないのか教えてくれた。
拓也は、生き別れとなっている娘と同じ年…。
一緒に働くことで、息子のように思える存在だった。
我慢した。
薬をやりたい…その欲求を飲み下し、元の自分にどうにか戻ってくることができた。
再び薬物の世界に踏み込んでから、6ヶ月もの時間が過ぎていた。
正気になったとき、はじめて社長から声がかかり、二人で銭湯に行った。
「みんなが慎ちゃんのことを心配してたよ」
返事ができなかった。
「社長の言うことなら聞いてくれるはずだから、慎さんを説得してくださいってさ」
「迷惑をかけました」
たった一言僕はそう言った。
それ以外の葉は思いつきもしなかった。
「でもね、俺はみんなに言ったよ。自分の好きなもので身を持ち崩すならそれは仕方ないって」
社長の言っている意味が呑み込めなかった。
もし社長から「いい加減にしろ」そう一言言われていたなら、こんなに長く自分を失うこともなかったかもしれない。
そう思うのはあまりにも自分勝手な言い草であると思いながらも、そう思わずにはいられなかった。
「博打で失敗するやつ、酒で失敗するやつ、薬だって同じことで博打や酒ならいいけど薬はダメなんて誰が言える?身を持ち崩す理由なんて人それぞれでさ、うちの会社なんてそんな連中ばっかなのにさ、自分のことを棚に上げて慎ちゃんにだけ注意してくれなんて虫が良すぎるもんね」
確かにそうだ。
博打が好きで、役職を棒に振ってアルバイトに来ている会社員。
いくら言っても遅刻ばかりするアルコール依存の男。
女と喧嘩すると、必ず会社を辞めると言って仕事に来ないやつ。
そんな連中が僕の事をとやかく言うのは、薬物の使用でよれているこの僕だって気分の良いものではない。
本来なら、恥ずかしさで逃げ出したくなるようなこの場面も「決して僕の居場所を奪う気はないぞ…」とでも言うような社長の温情に涙が浮かんだ。
僕よりも一つ歳が若く、地元では僕の方が先輩だ。
プライドの話をするなら、地元の後輩に媚びへつらいながら面倒を見てもらうなんて恥ずかしいと思わなければ男じゃない。
それでも、こんな重症の薬物依存者の僕を、信用して仕事を与えてくれる社長に、どこまでもついて行こうと思える今の僕だった。
「慎ちゃん、金ないんだろ?本当は前借りなんてさせないんだけど、10万円振り込んどいたからね。ちゃんと考えて使って下さいよ」
行きつけの銭湯に有る小さな露天風呂で、一つ年下の社長はそう言って笑った。
風呂から上がった後、社長は伊勢佐木町にある小綺麗な定食屋で豚カツを奢ってくれた。
再び薬物にハマって半年…作ったばかりの入れ歯も合わみなくなり、今の僕には揚げたての豚カツを噛み砕く奥歯もない…。
落ち窪んだ眼球の回りに色の濃い隈を貼り付け、入れ歯を外しげっそりと痩せこけた両頬には、凡そ健康という言葉に辿り着くものは見当たらない。
美味いと評判のこの店の豚カツも、僕は僅かに残った前歯で鼠の様に小さく千切って食べるしかなかった。
飲まず食わず…挙句には何日も眠らない生活を続けてきたせいか、すっかり縮んでしまった胃袋に、この店の豚カツは少しばかり量が多すぎた様だ。
僕はキャベツの千切りや、茶碗に盛られたご飯の半分以上を残し箸を置いた。
いくら覚醒剤を断ち切ったとはいえ、僕の人相や日常の生活習慣の中にその痕跡は残り続ける。
「食い切れませんでした、すみません」
僕はそう言って、社長に頭を下げた。
「気にしなくていいよ」
社長はそう言って笑った。
定食屋を出た後、社長は僕を社宅に送り届け「じゃあ、用があるので」と言ってそのまま夜の街明かりの賑やかな方角へと消えていった。
まっすぐ帰れば何事もなく一日が終わったのかもしれない。
でも僕はまっすぐ帰ることができなかった。
社長の運転する車が見えなくなったのを確認し、僕は寮の階段に背を向けコンビニのある方へ歩き出した。
先ほど社長が言ったことを確認するために…。
コンビニのATMにキャッシュカード入れ暗証番号を入力した。
社長が言った通り、一桁の端数しかないはずの僕のキャッシュカードに10万円の残高を示す数字が並んでいた。
2万円を引き出し、僕は自分の車があるコインパーキングに向かった。
車に乗ってエンジンをかけた。
そして一本の電話…。
僕はたった今社長にかけてもらった温情さえ意識の片隅に押しやり、ATMから引き出した2枚の一万円札を握りしめ、覚醒剤の売人の元へと急いで向かった。
社長が、皆に内緒で振り込んでくれた10万円が、一瞬で消えてしまったことは、もう説明する必要もないだろう…。
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