第8話地獄
地獄
私は腐ったまんじゅうです…。
2年間、刑務所の中で辛い時間を過ごし、やっと社会に復帰したのが1年5カ月前。
1年間…私はがむしゃらに働いた。
自分でも、自分を褒めてやりたいくらい一生懸命に働いたと思う。
強い塗料の薬剤に負け、患部から体液が噴き出すほどの皮膚炎を患っても、仕事は一日も休まず働いた。
今もこの文章を皮膚科の待合室で書いている。
日勤も夜勤も両方とも老体に鞭打って出掛けた。
12月は41勤務、2月は35勤務…56歳の身体にはオーバーワークなのは目に見えていた。
それでも、自分がどこまでやれるのか限界を知りたいと思えた。
働けば働くだけ給料に跳ね返ってくる。
昔から欲しかった大型のオートバイを手に入れ、少しだけでは有るが貯蓄も出来た。
盗難車を乗り回し、宵越しの金を持たない過去の自分とは決別出来た気がしていた。
しかし…そんなことは、今自分が立ち竦んでいるこの「地獄」と言う場所に舞い戻る為の序章に過ぎなかったのだ。
それは僅か0.1gの覚せい剤の結晶から始まった。
0.1gと言えば、薬にはまり込んでいる時なら1回分に足りるか足りないかの量…。
12月…大晦日まで残業をし、一年をやり切った充実感で新年を迎えた。
短い正月休みだったとしても、休みなく仕事に没頭し
た気持ちに一瞬の緩みや隙が有ったのだろう。
深夜、独り身の私の家に仲間が集まった。
11月…東京都下の街に長期出張の形で住み込みで働いていた工事が終わり、地元横浜に帰って来たばかりだった。
懐かしい顔が集まった。
まだ薬をやっているやつ、薬をやめ今は真面目に働いているやつ、誰が何をやっているかなんて気にもならない面子が遠慮の無い言葉で笑える夜だった。
「最近のはどうなんだよ」
今は真面目に働いている奴が、今もやってる奴に聞いた。
「まともな物は手に入らないよ。お前の知ってる物とはまったく別物さ」
今もやっている奴が答えた。
「ちょっと見せてみろよ」
今はやめてる奴が言った。
途端に僕は落ちつきをなくした。
便意をもようし、トイレに座り込んだ。
いつの間にか強くなった酒が、今日はやけに回る気がしていた。
ふらつく足で部屋に戻った。
「何だよ、お前まさか気ぃ食ってる(そわそわしている)わけじゃないだろうな」
誰かが言った。
皆が笑った。
「今やってないだけで俺は死ぬまで一級品の患者だからな」
僕は当たり前のように答えた。
その言葉に皆が頷いた。
そこにいる誰もが、自分が重症な薬物依存患者である事を自覚しているはずだった。
明け方近く、一人また一人と帰って行った。
静まりかえった部屋…テレビから流れるいかにも正月と言ったお笑いのテレビがうるさく感じた。
カーテンを引き、テレビを消した。
昨日、遅くまで肉体を酷使し働いていたはずなのに、何故か目が冴え布団に潜り込んでも眠気は直ぐには訪れなかった。
LINEのメッセージを伝える口笛の音が静まりかえった部屋にやけに大きく響いた。
誰かが「あけおめ」のメッセージを送ってきたのだろう。
携帯は食卓テーブルの上…わざわざ布団から出るのも面倒だ。
僕は布団に潜り眠りの訪れるのを待ち続けた。
頭の中は先ほど見た覚せい剤の結晶の事ばかり。
電話を掛けて奴を呼び戻そうか…昔の物とは全くの別ものと言っても、違法薬物である以上、それ程の違いなんて無いはずだ。
絶対に忘れる事のない、脳味噌の中に深く刻み込まれた薬物の快感が、いまはっきりと目を覚まし始めていた。
何度寝返りを打っても眠りは遠のいて行くばかり…。
僕は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、睡眠薬と一緒に飲み干した。
酒も強くなるに従って眠くなるばかりの液体では無くなり、飲んだ瞬間一瞬の覚醒をもたらす様になる。
その日、その時、その瞬間…飲み込んだ一杯のビールが私に携帯の画面を覗く気持ちにさせた。
だからと言って、一杯のビールに罪は無い…。
全てが私の重度の薬物依存がもたらした結果で、意志の強さや弱さにもなんの関係も無い。
その携帯の画面にLINEのメッセージ…。
「カーペットの下に少しだけ置いてきた、要らなきゃ捨てろ」
僕は口に含んだビールを「ゴクリ」と部屋中に響くほどの大きな音で飲み込んだ。
即効性のはずのビールがまったく回って来ない…何時もなら直ぐに効くはずの睡眠薬の眠気も…頭の中の霞が一度に消えて行った。
ヤツが座っていた辺りのカーペットを夢中で撫で回した。
指先に小さな違和感を感じた。
カーペットをめくった…小さなチャック式ビニール袋が置かれていた。
その中にほんのひとつまみの半透明の結晶が入れられていた…注射器は無かった…そんな物が必要ない事など私は初めから知っていた。
私はなんの迷いもなく台所に向かい、アルミホイルとストローを取り出した。
ほんのひとかけら…二つ折りにしたアルミホイルの谷間にその結晶を乗せ、下から使い捨てライターの弱い炎で炙った。
直ぐに青白い煙が立ち上り、懐かしいあの匂いが私
を支配した。
短く切ったストローを口に咥え、肺と胃の中に入るだけの煙を吸い込んだ。
息を止めた…30秒…40秒…いや、もっとかも知れない。
吐き出した時、吸い込んだはずの煙は私の身体の中に吸収され、透明なただの二酸化炭素として排出された。
目眩がした…一分近く息を止めていた事に由来する目眩ではない事を、私は十分に感じていた。
背筋を駆け上る鳥肌…はっきりと醒めていくアルコール…嘘の様に消えた倦怠感…。
「これだ…」
絶対にやらないと誓ったはずの覚醒剤を吸い込み、私は罪悪感を覚える事もなく、ただ満足に浸っていた。
正月休みくらい…既に私の頭の中では、尤もな理由と言い訳が確立していた。
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