座敷童のいる家
「ただいま」
リビングのドアを開けた瞬間、ふわりとエアコンの利いた暖かな空気とほのかに甘い乳臭い匂いが押し寄せてきてほっとする。
「おかえり」
ベビーベッドの赤ん坊にブランケットを掛け直していたらしい夫は苦笑いした。
「長いことぐずっていて今、やっと寝たよ」
私の持ったローストチキンの紙箱を指して誘いかけより決定の語調で続ける。
「もう夕飯にしよう」
*****
「いや、早いもんだ」
ローストチキンを齧ってシャンパンで流し込みながらクリスマス頃にはいつも着ているモスグリーンのベスト姿の夫はしみじみと続けた。
「もうクリスマスなんだから」
「そうだね」
頷きながら、こちらはチキンよりもっと甘酸っぱいものを口にしたくて空になった手前のグラスに二杯目のマスカットジュースを注ぐ。
もうすっかり暗くなったので部屋のカーテンは閉めてあるが、先程予約して買ったチキンを店頭で受け取って私が一人で歩いてきた道はあちこちがライトアップされていた。
コロナ禍になって二回目のクリスマスだが、というか、もう二回目だからこそ、街は当たり前に季節のイベントの装いをしているのだ。
視線はそのままカーテンに覆われたガラス戸から壁際のベビーベッドに移ろった。
「いい子で寝てるね」
もともと大きな声で話していたわけではないが、自分の中でもよりボリュームを下げた声になる。
深緑のニット地にトナカイや靴下が編み込まれたロンパースを着たワーちゃんは白地に水色の雪模様をあしらったブランケットから小さな両手を出した格好で眠っていた。
ちょうどお腹の部分にある雪模様が出たりへこんだりして安らかに寝息を立てていると分かる。
この子はやはり生きているのだ。
同じ方を見詰めている私たちの間にしばらく沈黙が流れた。
「あのさ」
「あのね」
同時に切り出す声が出る。
「あなたが先でいいよ」
ある種の予感に囚われながらこちらが譲った。
向かい合う夫の目に一瞬、張り詰めた光が通り過ぎる。
「内示が出た」
一息ついて一気に語る。
「四月からシンガポールに異動だよ」
「シンガポール」
鸚鵡返しに呟いた頭の中に水を吐くマーライオンや高層ホテルの屋上に建てられた舟の形のプールがパッと頭に浮かんだ。
実際に暮らす土地としては漠然と一年中暑くてゴミ捨てには厳しそうだというイメージしか涌かない。
「君は?」
相手も既に何かを察した面持ちでこちらのニットセーターの肩とシャンパンの代わりにマスカットのジュースを注いだグラスを見詰めている。
その様を目にすると、飲み干したばかりのどこか青さを含んだ甘酸っぱい果汁の味が喉の奥に蘇った。
「やっぱり妊娠してた。五週目だって」
来るはずの月経が来ず、クリスマスと重なった土曜日の今日、夫にワーちゃんの世話は任せて婦人科のクリニックに予約を入れて行った。
その足でこちらは前月からローストチキンを予約していた店で受け取って帰宅したのだった。
「予定日は八月の末だけど、向こうで産むことになるのかな?」
「そうなるだろうね」
いや、仮にそうだとしてもそれは本質的な問題ではないのだ。
問い掛ける私も答える夫も知っている。
本当の問題は……。
前より重い沈黙がクリスマスの食卓に立ち込めた。
「エヘヘヘヘ」
無心な笑い声に夫婦で振り向く。
ベビーベッドでは、いつの間にか私の着せたクリスマス仕様のロンパースではなく赤い鹿の子模様に山吹色の帯を締めた装いに戻ったワーちゃんがブランケットの上にお座りして笑っていた。
「マンマ、パッパ」
小さな
「パイ、パイ」
これはこの子の言葉では“いっぱい”という意味だ。
小さな手を振りながら、鹿の子模様の着物も小さな丸い笑顔も水で薄めるように透けて、背後の白い壁紙の凹凸が浮かび上がってくる。
「パイ、パイ」
薄れていく姿の中で三日月の形に細めた両の瞳が輝いた。
「ワーちゃん!」
私たちは同時にベビーベッドに駆け寄る。
小さな寝床に残っていたのは、枕代わりの畳んだ人参色のフェイスタオルと雪の結晶模様のブランケット、片隅にしっかり閉じて置かれたおもちゃのヒヨコ入り卵と携帯電話、そして、真新しいクリスマス仕立てのロンパースだった。
「
私は下に敷かれているブランケットごとロンパースを掴み取って腕に抱き締める。視野がジワリと熱く滲むと同時に自分の体もまた夫の腕に抱き止められるのを感じた。
「あの子は……」
夫の声も涙混じりで震えていた。
「やっぱりルーちゃんだったのね」
ちょうど今から一年前、私たちのたった一人の娘だった瑠璃は死んだ。
家族全員で新型コロナウィルスに感染し、私たち夫婦は軽症で済んだが、まだ生後六ヶ月だったあの子だけが夜となく昼となく咳を繰り返し、毎日のように関係機関に電話しても受け入れ先はなく、小さな顔がとうとう紫色になったところでやっと入院できた。
――コロナ関連のニュースを見ていても赤ちゃんなら滅多に死ぬことはない。
――面会も制限されているけれど、とにかく入院できたのだから必要な処置はしてもらっているはずだ。
家に残された私たちはそう語り合って、遠からぬルーちゃんの退院を待っていた。
家に戻ってきたら、少し体が大きくなっているかもしれないし、新しいベビー服を買っておこう。
そんな風に考えて、私はワンサイズ大きいベビー服やオムツを揃えたり新しいおもちゃを買ったりした。
――大変申し上げづらいことですが、瑠璃さんは先程お亡くなりになりました。
数日後の朝、受け取った電話の向こうの声がまるで私たちと同じ大人のように“瑠璃さん”と呼ぶ故人がまだハイハイを始めたばかりのルーちゃんと同じ人だとは信じられなかった。
死に顔すら確かめられないまま、その日の夜に小さな壺だけが私たちの下に帰ってきた。
――どうしてあの子が死ななければならないのか。
理不尽を恨む思いは夫婦を支え合うより互いの非を責め合う方に向かわせた。
――うちで一番外と出入りする機会が多いのは君だ。君がコロナを持ち込んだんだ。
――私たちが感染したのは旅行のすぐ後でしょ。私は気が進まないと言ったのにあなたが毎日在宅ワークで辛いからと勝手に温泉に予約した。
言い争ってもあの子はもう戻ってこない。分かっていても目の前の相手を詰らずにいられなかった。その後には自己嫌悪に陥るのだった。
――互いのためにもう別れましょう。
そう切り出したのは私だったが、夫も同じ気持ちだったことだろう。
――明日の朝一番に役所に離婚届を出したら、私はこのうちを出て実家に帰ります。
その日の朝に、ワーちゃんが現れたのだった。瑠璃が生きていればちょうど九ヶ月目に入る日だ。
「だから買っておいた服もオムツもぴったりだったのね」
ワーちゃんに今まで着せた服や使ったオムツは瑠璃の入院中に買い揃えたものだ。先週ネットで買ったこのクリスマス仕立てのロンパース以外は。
「おもちゃも喜んでくれたね」
おもちゃのヒヨコ入り卵と携帯電話は夫と一緒に選んで、瑠璃が退院してきたら遊ばせようとベビーベッドに置いていたものだ。
「ちょっとの間だけパパとママの所に帰ってきてくれた」
ちょうど九ヶ月の間だけ。
妹か弟になる新たな命がママのお腹に宿る時まで。
まだビニール包装の中で小さく畳まれていた跡の残る真新しいベビー服の胸に顔を押し当てると、あの甘く乳臭い匂いがした。
*****
“12”
“11”
靴の底が急に浮き上がる感触がして、エレベーターが降りていく。
これでもうあの部屋に戻ることはないのだ。
「向こうは暑いから、着いたらすぐ夏物に着替えないとね」
寂しさを紛らすためにこれからの予定を口にしてみる。
“9”
“8”
減っていく階数の表示の数字を眺めながら夫もどこかしんみりした声で返した。
「最低気温が二十六度とかだからなあ」
二回目の春物のマタニティー服だが、今度は臨月まで夏物というか、産後の服もベビー服も日本でいう夏物がオールシーズンの服になる地域に住むのだ。
「うちの親からは向こうの食べ物には気を付けろって」
夫はまだワンピースの上からは僅かな膨らみでしかないこちらの腹に目を注いだ。
「うちの親もとにかく口に入れる物は安全を確認してからって」
どちらの祖父母も外国で生まれる二人目の孫が今から心配で仕方ないのだ。
目の前でパッとエレベーターの扉が開いた。
*****
エントランスの自動ドアを出ると、花の匂いを含んだ柔らかな風に迎えられる。
ちょうど入れ代わりのように若草色の野球帽を被った幼い息子を真ん中に手を繋いだ同年配の夫婦がやってきた。
「あら」
向こうの母親が先に気付いて声を上げる。
こちらも自ずと笑顔で会釈した。
「今日で引っ越すことになりました」
瑠璃が生まれて、ワーちゃんが現れたこの家から。
「そうですか」
一歳半は過ぎたがまだ二歳には届かない息子の手を引いた母親は私のバッグに下がっている「おなかに赤ちゃんがいます」と書かれたピンクのハートマークの飾りに目を留めて、どこか安堵したような、しかし寂しいものを含んだ笑顔で頷いた。
「お元気で」
「そちらこそお元気で」
春の初めの花の香りを孕んだ風が柔らかに過ぎていく中、多分、もう会うことはないだろうという予感を抱きつつ、笑顔で別れていく。
「バイ、バイ」
マンションのガラスの自動ドアの向こうに両親と連れ立って歩いていきながら、野球帽の男の子はこちらを振り向いて小さな手を振った。
――パイ、パイ。
閉じていくガラスの扉の向こうに、一瞬だけ赤い着物に山吹色の帯を締めた座敷童の笑う姿が見えた気がした。
(了)
ワーちゃん 吾妻栄子 @gaoqiao412
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