家の外では

「雨降ってきちゃったか」

 いつも行く近所のスーパー。

 夫婦二人分の食品と日用品を買った後、帰るつもりが店に入る前には晴れていた空から無数の斜線を引くような雨が降っていた。

 早くも濡れて所々に浅い水溜りすらでき始めた外の地面からは湿った臭気が立ち上って来る。

――パチリ。

――バサッ。

 横から通り抜けていく他の客はこうなる天候を予期して持参したらしい長傘やら普段から持ち歩いているであろう折りたたみ傘やらそれぞれ広げて出ていく。

――パツッ。

――バサバサ。

 各々の傘をさして新たに店に現れた客たちも自分のすぐ脇で閉じて入っていく。

 目の覚めるようなキャンディーカラーの長傘、小振りで地味な紺の折りたたみ傘、見るからに安手の透明なビニル傘。色も大きさも様々だが、他の人たちは自分の傘を持っている。

 自分だけが傘を広げるか閉じるかの二つの流れの中で取り残されたように感じた。

 店の奥に引き返してしばらく行かなかった二階へのエスカレーターに乗る。

 傘や長靴、レインコートの類はそちらに売っているのだ。

 うちに置いてきた傘もそろそろ古くなってきているから、この際、新しいのに買い替えよう。

 そんな思案をする内に、ここ二年余りでもはや靴と同じレベルに外出の必需品になったマスクを着けてエコバッグを下げた自分の姿がエスカレーター周りの壁に備え付けられた鏡の中に無数に映し出される。

 服はちょっと買い物に出る時のだらしなくは見えない程度の物だし、別に顔や体型が大きく変わった訳ではないが、座敷童がうちに現れてからほんの少しだけ若返った気がする。

 そもそもちょっと前まではこんな風に鏡を眺めるのすら嫌だったのだから。

 鏡の向こうにいる無数の自分がふっと微笑むのを見返しながら、立ち位置がゆっくりと斜めに上昇するに任せた。


 *****

「あれ?」

 しばらく来ない――といっても半年に満たないくらいの間だが――内にフロア内の配置換えがあったようだ。

 迷いつつも案内図で示された雨具を揃えたテナントのある奥に足を進める。


 *****

「ありがとうございます」

 店員さんの声に軽く頷いてまた歩き出す。

 透明なビニル地で中心部が水色、ふちに行くに従って黄色を経て赤に至るグラデーション仕様の傘。

 今まで買ったことはないタイプだが、何となくワーちゃんの最初に着ていた和服に似ているので買った(あの着物自体は今は畳んで洋服ダンスに仕舞ってあるけれど)。

 取り敢えず雨具を手に入れてしまうと、ホッとすると同時に何となく急いで帰るのにも疲れてぼんやりと周囲のテナントに目を走らせる。

 大人用の雨具を扱ったコーナーはそのまま子供用の傘や長靴、レインコートを置いたコーナーに続いていて、その先には子供服やベビー服の売り場があった。

 もう梅雨に足を踏み入れた季節なので半袖がデフォルトになっている。

 うちにあるベビー服は長袖の暖かめのばかりだから、半袖のも一、二枚ワーちゃんに買っていこうか。

 あのピンク地に青紫の紫陽花あじさい柄の甚平は似合いそうだ。

 それとももっと向こうのマネキンが着ている黒地に向日葵ひまわり模様の半袖のカバーオールがいいかな。

 外には連れていけないけれど、あのマネキンの被っている水色のチューリップハットも買おうか。

 新しい服特有ののりじみた匂いの漂う中、何となくワクワクしながら足を進める。

「マンマ」

 横から飛んできた声に思わずドキリとして振り向いた。

「マンマ!」

 若草色の野球帽に黄色いシャツ、紺色のデニムのハーフパンツを履いた、しかし、足にはグレーの靴下を履いたきりの一歳くらいの男の子が赤い目をして叫ぶ。

 色の浅黒い、細い目をした面影には覚えがあった。

「大丈夫?」

 この子が呼んでいる相手は自分ではないが、呼び掛けずにいられない。

 怖がらせないようにゆっくり近付いて屈み込むと相手は鼻を啜って訴えた。

「マンマアア」

 本当に探している相手は目の前にはいないという悲しみを最大限に込めた訴えだ。

「お母さん、どこ行っちゃったのかなあ?」

 周りにもそれとなく聞こえるくらいの声で語りかけながら見回すが、この子と互いに探し合っているであろう人の姿は見当たらない。

 迷子を連れて行くサービスカウンターは確か一階だったかな?

 でも、この荷物を抱えてこの泣いている他所の子を連れてエスカレーターを降りるのは色々難儀な気がする。

 かといって、ここのエレベーターも来るのが遅いし。

 それとも近くにいる店員さんを見付けて任せようか?

「コーくん!」

 悲鳴じみた声がまた別な方角から響いてきた。

「マンマ!」

 こちらが振り向くのと若草色の野球帽が駆けていくのが同時だった。

「勝手に階段登ってっちゃダメって言ったでしょ」

 手にした緑色の小さな長靴を我が子に履かせながら、息子と同じ黄色の五分袖Tシャツに紺色のデニムのワイドパンツを履いた母親はどこか底に固いものを潜めた笑顔でこちらに頭を下げる。

「すみません、うちの子が一人で二階に行っちゃって」

「いえいえ」

 こちらも買ったばかりの虹色の傘とエコバッグを持って立ち上がった。

 ズシリとエコバッグの取っ手が指に重く食い込むのを感じつつ、何でもない風な笑顔で続ける。

「お子さん、もう一歳ですよね」

 部屋のある棟は違うが同じマンションに住んでいて、時々ロビーやエントランスでも擦れ違うから知っている。

「ええ」

 幼い息子の肩を引き寄せて強いられたように笑い返す相手の目は買ったばかりの傘とエコバッグを手にした自分とその背後に広がるベビー服売り場に注がれている。

 その眼差しに痛ましい色が走るのが認められた。

「じゃ、失礼します」

 相手から立ち去られる前にこちらからきびすを返す。

 新品の服の糊臭い匂いがツンと思い出したように鼻の奥を突いた。

 傘だけ買ってすぐ帰れば良かったのに、どうして長居してしまったのだろう。


 *****

「そちらは大丈夫ですか?」

 夫の部屋のドア越しに余所行きの声が響いてきた。

 どうやらテレワークの会議中のようだ。

 近頃はその日の流れでいつになるか分からないから昼はスーパーの弁当で良いと言われているし、エコバッグの中にも豚肉の生姜焼き弁当二人分が入っている。

 床に下ろしたバッグの口からスーパーの惣菜特有の油の利いた匂いが微かに広がるのを感じながら、何となくホッとしたような、それでいてどこか空しいような気分に陥るのを覚えた。

――バサッ。

 玄関で濡れた傘を広げると、飛沫しぶきが僅かに顔にかかる。

 虹色のグラデーションには透明なしずくが一面に生じていた。

 傾ける形で玄関に置くと、上から流れてきた雫が下の雫を飲み込むようにして次々伝い落ちていく。

 やっぱりこれは要らない買い物だっただろうか。

 マンションの玄関のオレンジが勝った照明の下で見直すと、大振りの骨組みに対していかにもファンシーな虹色のグラデーションの彩色が何だか場違いで空々しく映った。

 傘立てにはくたびれたとはいえラベンダー色の傘がまだ健在だし。

 決して非常識に高い買い物ではないが、衝動で無駄遣いしてしまった気がしてくる。

“さんかく、まるっ。しかく……”

 リビングから流れてきた電子音声の歌声が堆積していた沈黙を吹き飛ばした。

 急いでエコバッグを持ち上げて廊下を早足で通り抜けてリビングのドアを開ける。

「マンマ」

 ベビーベッドの中からすみれ色の長袖のカバーオールを纏った座敷童は小さな手に持った携帯電話のおもちゃを示した。

“いち”

“ろく”

 ボタンを押すと電子音声が数字を答えたり歌が流れてきたりする仕組みになっている。

 夫の部屋にまで直に音が響かないように急いでリビングのドアを閉める。

「もう起きたのね」

 ワーちゃんが寝ているタイミングを見計らって買い物に出たのだが、スーパーに長居してしまったせいかもう目を覚ましてしまっていた。

「マンマア」

“抱っこして”という風にお座りしたまま開いた長袖の両手を上げる。

「はいはい」

 キッチンの水道で急いで手にハンドソープを着けて洗い、食洗機から乾かしたばかりのグラスを取り出してうがいをしてからベビーベッドに近付く。

「ワーちゃん、いい子にしてた?」

 座敷童を抱き上げた。

「ウッフフフフフ」

 上機嫌で真っ直ぐな髪を揺らして笑うワーちゃんからはこの前ワゴンセールで半額になっていたので試しに買った洗濯用洗剤の鈴蘭ミュゼじみた香りに混じって乳臭い匂いがする。

 何より、腕の中には温かな重みがあった。

 この子は怪談に出てくるような幽霊ではない。この家では確かに生きているのだ。九ヶ月の赤ちゃんから大きくなることはなくても。

「アエー」

 桜色の小さな指でガラス戸の方を指し示す。

 いつの間にか雨が上がったらしく流れていく雲の切れ間から青い空が覗いている。

 サッと差してきた眩しい光がレースカーテンのひだの影を浮かび上がらせた。

「お外にもきっと虹が出てるね」

 まだどこかに懸かっているはずだから、この子にも見せてやろう。

――ガチャリ。

 赤ん坊を抱き上げたまま、ガラス戸に近付いて鍵に手を掛けたところで背後からドアを開ける音がした。

「お昼にしよう」

 苦笑いしながら夫が歩み寄ってきて両手を差し出す。

「パッパ」

 ワーちゃんが大きな目を三日月形に細めた笑顔で呼び掛ける以上は向こうに抱かせないわけにいかない。

 夫は菫色のカバーオールの座敷童を抱き取ると、まるで面影を確かめるように小さな丸い笑顔を見詰めて呟いた。

「テレワークで会議してたけど、向こうの奥さんが産気づいちゃったから急に中止になった」




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