3・アスクレピオス

 患者のバイタルは安定した。

 メインディスプレイにぎっしり並べられた画像や数値をしばらく検討していた伊藤は、スタッフに宣言した。

「手術に耐えられるレベルだと判断する。続行しよう」

 同意だ。

 不穏な空気が漂ってはいたが、手術のルーチン作業が再開された。

 右側を上にして横向きに寝かされた患者の頭は、三点支持の固定具でがっちり固定されている。パークベンチ・ポジションと呼ばれる、ベンチで横向きに昼寝をしているような姿勢だ。

 若手医師が再度、頭部を剃毛した。

 きちんと皮膚にテンションをかけながら、刃を寝かせて剃っていく。手早く、皮膚に傷をつけていない。安心して見ていられる手際の良さだ。さすが福山記念の若手脳外科だ。高いポテンシャルを感じさせる才能を揃えている。

『剃毛は術者のセンス』だといわれる。体毛を剃るという単純そうな作業の中に、手術のエッセンスがふんだんに詰め込まれているからだ。刃先の切れ味や皮膚の弾力などを感じ取る〝感性〟が備わってなければ、安全、的確に器具を使いこなすことなどできない。下手な者は毛を剃るだけで患者を切り傷だらけにして、血が床にたれるほど出血させてしまう。ある程度場数を踏んでも進歩しない者は、術者としての大成は望めない。

 剃毛を終えると、丁寧に消毒してから開頭部にマーキングする。

 ここにも感性は現れる。素早く、正確に、作業しやすい目印を残さなければならない。マーキングが下手なら、その医師には手術を任せる気になれない。

 この医師は完璧だった。

 そして、ナビゲーション用のフレームをセットする――

 滅菌された覆い布をかける――

 病名、手術名を読み上げ、手術開始の挨拶をする――

 第一助手の手によって、患者の頭皮が切開されていく――

 切開された頭皮はクリップで止血される――

 切開した皮膚弁をめくり、すぐ下の腱膜、筋群を剥離する――

 頭蓋骨が露出する――

 数限りなく経験してきた、脳外科手術の開始手順だ。

 開頭手術は脳外科医が真っ先に覚えなければならない基本的な手技だ。だが今回のように、大胆で繊細な技巧が必要とされる場合も少なくない。

 顕微鏡下での手術操作のやりやすさは、開頭の良し悪しでほぼ決まってしまうからだ。開頭は一見おおざっぱな操作に見えるが、手術の方向性を定める〝第一歩〟なので未熟な者には任せられないのだ。

 頭蓋骨に穴が穿たれていく。小さな穴がいくつか開けられ、その間を切って頭蓋骨を外す――〝骨切り〟だ。

 そして、〝側頭骨ドリリング〟が始まる。最初の山場だ。

 第一助手がサージカル・ドリルを取った。重要な構造物――顔面神経と三半規管、聴神経を損傷しないように、顕微鏡で確認しながらドリルで丁寧に削っていく。

 骨の削りかすは第二助手が吸引管で吸い取る。

 そのコンビネーションは極めて重要だ。慣れないと4、5時間かけても充分に広い術野を展開できないばかりか、構造物を損傷して後遺症を残す。

 これらの構造物を覆う白い骨は緻密で硬いが、それより外側は組成が荒く削りやすい。この違いを体で覚えていないとドリリングで疲労困憊し、無駄に時間を浪費する。当然、患者の負担が格段に増す。

 第一助手の腕は、確かだった。動きには無駄がなく素早い上に、三半規管と顔面神経管(ファロピアン・カナル)がまるで彫刻のように立体的に残り、まったく傷ついていない。リンス――術野に生理食塩水を充分に滴下しながら、顔面・聴神経の熱損傷も効果的に防いでいる。骨が大きく削り取られ、いかにも手術がやりやすそうに見える。

 サポートする第二助手の吸引管操作も見事だった。ドリルの邪魔にならず、吹き飛ばした骨粉の飛散方向を追いかけるように的確にコントロールしている。操作が未熟だと吸引管がドリルに当たり、先端が削れてメタルパウダーが飛び散る。その金属粉がMRIの画像を乱して読み取りにくしてしまうことがあるのだ。

 しかも助手たちは、術中ビデオの邪魔にならないように頭の位置にまで気を配っていた。

 私は思わず彼らの手元に吸い寄せられるように近づき、本心から言った。

「さすがに、伊藤先生が育てたチームだね。これだけ素早く硬膜に到達してくれると、メインオペレータは本当に楽だ。術後の回復も早い。吸引管操作も素晴らしい」

 第一助手は私に目で笑いかけた。

「ありがとうございます」

 しかし、多くは語ろうとしなかった。

 伊藤と私の過去や、微妙な関係を察しているのだろう。上司の機嫌を損なうわけにはいかない。

 世界中、どこにでもある〝職場風景〟にすぎない。

 彼らはわずか20分でドリルアウトした。

 伊藤が動いた。

 二人のアスクレピオスのエンジニアを指揮して大まかな位置を定める。エンジニアは台座の下部のダイヤルを何度も回して、本体を固定した。その後伊藤は、自分の目で確かめながらアームの位置を微調整し、手動でいったんアームを引き上げる。

 次に先端を極限まで小さくした超音波診断機で腫瘍へのルートを確認していく。

 小脳テント上下からのアプローチだとはいえ、個体差は大きい。意外な場所に重要な神経や血管が潜んでいる場合もある。模型では安全だと判断されてはいたが、実際の脳での確認を怠るわけにはいかない。

 手術前に見せられた画像診断からは、滑車神経は腫瘍に巻き込まれて超音波では見えないと予測できた。可能であれば温存したいが、今回の手術では犠牲にする可能性も高い。物が二重に見える複視が後遺症として残るが、やむを得ないだろう。

 側頭葉下面から出てくる静脈も、術前の血管造影では見えないことが多い〝伏兵〟だ。想定していたより太いこともある上に、損傷したり圧迫すると側頭葉出血になる。

 伊藤と助手たちが、壁面のメインディスプレイに大きく表示された超音波画像を細かく点検していく。

 確認作業はすぐに終わった。あらかじめ予定していた位置と現実の脳の差異は、ほとんどなかったようだ。

 アイザーがディスプレイの中から言った。

『まずアタッチメントはマイクロ吸引管のMとマイクロ剪刀・ブレード・ダマスカスで始める。アームの位置は良好だ。画像もクリアだ』

 彼もイスラエルで、伊藤たちと同時に超音波診断画像を確認していたのだろう。

 意見の齟齬はない。声も落ち着いている。

〝殺人未遂〟という異常事態でブレインサイトは混乱したが、イスラエル側には患者の医療情報が円滑に伝わっている。技術的には適任の伊藤であっても、目の前でこのような〝犯罪〟が起きた後では平静ではいられないだろう。むしろ、データを客観視できる場所にいたアイザーが執刀する方が、今は安全に進められるに違いない。

 患者にとっては、〝怪我の功名〟かもしれない。

 伊藤が身を引くと、再び二人のエンジニアがアスクレピオスの脇に付いた。基本的な作業は自動化されているはずだが、不測の事態への備えだろう。

 彼らの目に、緊張が滲んでいる。BHにとっても、それだけ大事な〝実験〟だということだ。いつの間にか、アスクレピオスのアタッチメントは外されて、アームも折りたたまれていた。

 脳外科手術では、腫瘍の状態や形状に合わせてこまめに器具を変えなければならない。特に、患部に近づけば近づくほど、その頻度は高まる。アスクレピオスでの手術でも、当然その作業が繰り返されるわけだ。

 金属加工用の工作機械ロボットアームでは、アタッチメント交換の自動化は実用化されている。しかし、そのためにマシン全体が大型化、複雑化することは避けられない。手術室に持ち込む医療ロボットでの実現は困難だと思われていた。

 だがアスクレピオスはその壁も克服したようだ。それほど精緻な機構を備えながら、手術台の横にセットできるサイズまでコンパクトにできたことは感嘆に値する。

 イスラエルの医療技術者たちのチャレンジ精神があってこその成果だろう。

 工業用ロボットアームならば、質もシェアも日本が世界をリードしている。工業分野では明らかに輸出超過だ。なのになぜ、医療では輸入品ばかりになってしまうのだろうか……。

 医学の進歩を求める医師や技術者の前に立ちふさがる〝壁〟があるように思えてならない。その多くは〝組織〟の問題だろう。医学界や官僚の間にはびこる学閥意識や事なかれ主義が、自由な発想やベンチャー精神の足かせになっている。手術ロボットのような人間の体内に入るマシンこそ、堅牢さと繊細さを両立させる工業力を持つ日本のリーダーシップで作り上げて欲しいものだ。

 と、アスクレピオスが動き始めた。まだアタッチメントが取り付けられていないアームが、ボディーに近づく。音も静かで、動きも滑らかだ。

 するとボディーの一部がするすると開き、奥に吸引管とマイクロハサミが見えた。内部には他にも様々なアタッチメントが立てられていて、消毒用の紫外線の青い光に包まれている。アームがボディーに入って、すぐに再び抜き出される。一瞬でアタッチメントが取り付けられていた。

 一目で、福山式の器具だと分かった。

 だが、アームの動きのスピードは人間の腕より劣っていた。危険を軽減するために、あえて制限しているに違いない。アタッチメントを付け替える合計時間は、機械出しナースから執刀医に器具を手渡すのに比べて数倍かかっているように感じる。

 そこが、現時点での限界なのだろう。

 これでは手術の流れが滞りがちになるし、手術全体の時間も伸びる。その分、患者に負担がかかることは間違いない。何よりも、現場チームとロボット操作者との意思の疎通が充分に行われるかどうかが心配だ。ロボット自体の精度よりも、チームの動きが〝渋滞〟することの方が問題が大きいかもしれない。

 どうしたら解決できるか……と、思わず考えてしまった。

 本来のアスクレピオスの4本アームのままで、最初からそれぞれ別のアタッチメントを付けておけばスピードアップできないだろうか――?

 すぐに反証が浮かぶ。

 頭蓋底手術では狭いトンネルを通って術野に到達する。アームを差し込める場所は一直線上にしかない。何本ものアームの位置を入れ替えるには、複雑な操作を精密にこなさなければならない。それはそれで技術的に難しいだろうし、多数のアームを操作する医師の側にも混乱を招きやすい。患者のすぐ横でロボットの金属アームを高速で動かすのも、危険といえば危険だ。

 では、一本のアームに複数のアタッチメントは付けられないものか――?

 それができるなら、とっくに採用していると思う。おそらく、機構的な複雑さが桁違いに跳ね上がるのだろう。アームの重量が増すことで、安全でスムーズな操作が困難になることも考えられる。

 いずれにしても、今の形はアイザーが開発に加わって煮詰められたものだ。こんな思考実験はとっくに終えているはずだ。実際に試作して検証もしているかもしれない。

 おそらくアイザーは、医療チームが行う手術を100%そのまま再現しようとは考えていない。再現したくても、完璧にできるはずがない。ロボットだからできる、あるいはロボットにしかできない新しい手術体系を確立しようとしているのだ。

 一般的な手術を、チームが一体になって進める〝ビッグバンドジャズ〟に例えるなら、アイザーはゆったり奏でられる〝弦楽四重奏〟のようなものを狙っているのかもしれない。それとも、今まで誰も聞いたことがない〝異星人の音楽〟のような、新しい〝リズム〟や〝メロディー〟を手探りしているのか……。

 だからといって、今のアスクレピオスが最善だとも思えない。この実験は、せめてアタッチメントの自動交換が安全に高速化できるまで待つべきだった。

 それが正直な感想だ。

 アイザーが言った。

『さあ、始めるぞ』

 伊藤が手にしていたゴーグルを装着する。助手たちが続く。

 私もゴーグルをかぶった。

 目の前が本物の脳の画像で包み込まれる。アームの先端の吸引管が、小脳テントの膜を視野の外側へ押し広げていく。脳と血管、神経をつなぎとめるクモの巣のような繊維――トラベキュラと呼ばれる肉柱が無数にあり、マイクロハサミでそれを切りながらワーキングスペースのトンネルを穿っていく。

 50倍の顕微鏡の視界の中で、極めて細い毛細血管の中を赤血球が一列になってゆっくり流れていく。まるで氷河の上を歩く登山隊を、上空から眺めているようだ。0・1ミリの血管が、5ミリほどにも見える。硬膜動脈だから切っても問題はないのだが、決して傷つけたくないほど太く見える。

 模型で見たのとは質が違う、一段と生々しい映像だ。長年見続けてきた顕微鏡の視野とも根本的に違う。ゴーグルの映像にすっぽりと包まれ、まさに自分自身が脳の内部に入っていく感覚だ。

 硬膜は脳の機能とは直接関係ない丈夫な膜だから、まだ雑に扱っても構わない位置ではある。

 だがアイザーは慎重だった。アスクレピオスとの親和性を確認するために、あえてペースを落としているようだ。この手術ステップ利用して、ロボット操作の精度を研ぎ澄ましているのだ。

 吸引管とハサミの動きは滑らかに連動し、私が予測したとおりの方向へと進んでいく。アイザーの操作と私の考えが、リズミカルに一致していた。

 私ならここで髄液を吸引管で吸って――と考えると同時に、アイザーは同じ動作を行った。インプロビーゼーションのセッションが滑らかにシンクロしていくような快さを感じた。

 私のセンスも、まだ衰えてはいないのかもしれない。

 だが不意に、かすかな吐き気が沸き上がってきた。

 手術当初は目新しい医療支援機器の性能にばかり気を奪われていたが、いったん脳の中に入っていけば、私にとって知り尽くした光景だ。その先には、妻を殺した事故を連想せざるを得ない場所が待ち構えている。

 やはり、まだ無理だ。

 私はむしり取るように、ゴーグルを外した。

 自分でも、息が荒くなっているのが分かる。心拍数が上がり、全身がうっすらと発汗している。私が執刀医で、体調を管理するセンサーを付けられていたなら、すぐに戦略デスクから交代命令が出されていただろう。

 吐き気は、なかなか収まらない。軽い目眩も感じる。

 ゴーグルの映像が身体に合わなかったせいだ……。

 画像に酔ったに違いない……。

 そう、考えたかった。

 私は床を見つめて耐えた。

 アイザーの声が聞こえる。

『コットンを』

 傷つきやすい血管か神経を見つけたのだろう。それを保護するために、小さな綿を当ててるのだ。その綿も、福山教授が鍵穴手術用に開発した毛羽立ちにくく、脳の表面とも癒着しにくい製品だ。

 アイザーが進めている行程は手に取るように分かった。見てはいなくても、今、何の目的で、どんな作業をしているのかが理解できた。その映像も、くっきりと頭に描ける。

 ならば、直接見ることができても良さそうだが、私の心はまだそれを拒否している。

 自分は、もっと強い人間だと信じていた。最近では、そう言い聞かせながら、アルコール依存症から抜け出そうと努力していた。それは必ず成功させられると確信を持ち始めていた。

 だが、唐突に不安が膨れ上がった。

 すべては、勘違いだったのかもしれない――。

 私が許されることはないのかもしれない――。

 それが私への〝罰〟なら、受け入れる他はないのかもしれない――。

 ぼんやりとしていた私は、アイザーの叫びで我に返った。

『おい……おい! おかしいぞ! 何だ⁉ 動きが変だ!』

 顔を上げて壁のメインディスプレイを見た。アイザーが、目の前でグローブを振っている。

 バカな⁉

 そんなことをしたらアームが暴れる!

 アスクレピオスのアームは、患者の脳に入ったままだ。だが……動いていない⁉

 アイザーのコントロールが利いていないのか⁉

 なぜ⁉

『アームが引き抜けない! まるで操作できない!』

 オペ室にざわめきが広がる。アスクレピオスのエンジニアが慌てて周囲を点検し始める。

 少し離れて様子を見守っていた伊藤が、エンジニアに近づく。

「何だ? どうしたんだ?」

 年長のエンジニアが言った。声には焦りがにじんでいる。

「分かりません……コントロールが……」

 背後から、迫田が近づく気配があった。私の耳元で囁く。

「どうしたんです?」

 私は言った。

「故障かもしれませんね。複雑な装置ですから。回線の不調かも……。大丈夫。マシンがアクシデントを起こせば、すぐに伊藤が執刀を引き継ぎますから」

「患者に危険は?」

「まだ手術は始まったばかりです。脳に機能障害を残さない位置を慎重に選んでアプローチしていますから、問題はないでしょう」

 迫田の声も緊張している。

「だったら良いんですけど……」

「伊藤の腕は日本一ですから」

 アイザーが宣言した。

『アスクレピオスの手術は中止だ。執刀を伊藤にバトンタッチする。そこの担当者、電源を切ってロボットを撤収してくれ』

 エンジニアが叫ぶ。

「それは本社に確認しないと――」

 アイザーはグローブを外しながら厳しい口調で言った。

『執刀医は私だ! 手術の方法は私が決める!』

「ですが……」

『会社の利益より患者の利益を優先させる! 結果的にはその方が会社の存続のためにもなる! 無理を押して患者に害が及べば、アスクレピオスの実験も大幅に遅れる。責任は私が取る。伊藤、執刀を代わってくれ!』

 アイザーはやはり医師だ。判断に迷いはない。BHの庇護は受けながらも、患者の命に関わればそれを断ち切る。

 政治家ではない。

 伊藤がうなずく。

「了解」そしてスタッフに念を押す。「私が執刀を代わる。プランBだ。さあ、ロボットを片付けてくれ」

 その瞬間、アスクレピオスが動き出した。二つのアームのアタッチメントが、ゆっくりと患者の脳に入り込んでいく。

 伊藤が振り返ってディスプレイを見た。

「アイザー! 何をしている⁉」

 アイザーはゴーグルを外したところだった。

『は? 何だ?』

「ロボットを止めろ!」

『動かしてないぞ』

 アイザーは両手をカメラにかざしてひらひらと振る。素手だ。グローブははめていない。操作などできるはずがない。

 では、なぜ⁉

 伊藤がエンジニアたちに命じた。

「早く止めろ! 何をしている⁉」

 アイザーが叫んだ。

『動いているのか⁉ 故障か⁉ まさか、暴走……』

 二人のエンジニアは、ロボットを挟んで呆然と立ち尽くしていた。状況が理解できないのだ。何もできずにいる。

 スタッフも、呆然とロボットを見つめることしかできない。

 だが、医師なら分かる。

 患者の脳には、マイクロハサミと吸引管が突き刺さっている。今も、ゆっくりとめり込んでいく。

 放置すれば、命が危ない。

 緊急事態だ。

 なぜ動いているんだ⁉

 どうやって止めればいい⁉

 事態の異常さを感じたスタッフが、退いていく。何が起きたのか分からずに、手が出せないのだ。だが、放置しておくことなどできない。

 私は前に出て、若いエンジニアを押しのけた。

「緊急停止はできないのか⁉」

 年長のエンジニアがつぶやく。

「ポッドからなら……」

 私はアイザーに命じた。

「アイザー、緊急停止だ!」

『やってる! 止まらないのか⁉』

 完全に制御不能だ。

 伊藤がオペ室内のポッドに飛び込みながら言った。

「こっちのポッドからは操作できないのか⁉」

 エンジニアより先に、アイザーが答えた。

『今、ポッドのリンク先を切り替えた。そっちのポッドをオンにすれば機能するはずだ!』

 開発に関与しているだけあって、アスクレピオスの機能には精通している。

 伊藤の声がポッドの中から漏れる。

「電源は入れてる! 非常停止ボタンも押した! くそ、止まらないぞ! なんなんだ⁉」

 その間も、アームはじわじわと患者の脳にめり込んでいく……。

 これは、故障なのか?

 垂水は患者を殺そうとした。

 他にも患者の命を狙っている者がいるなら――。

 誰かが密かにアームを操作しているなら――。

 だがそんなことができるのか?

 いや、方法などどうでもいい。危機を回避するのが先だ。

 暴走前は硬膜を開けて1㎝ほどしか入っていなかったから、多少突き刺さってもまだ脳の機能は損なっていないはずだ。そういう部位を慎重に選んで、手術を初めている。

 だが、もしアームが円運動でも始めようものなら、脳がかき回される。完全に機能を破壊され、死を招く。

 誰かが患者を殺そうと、操作しているなら……。

 私はエンジニアに言った。

「電源は切れないのか⁉」

 エンジニアは青ざめている。

「アームが定位置に戻らないと、スイッチ類がロックされて操作できません……」

「電源を抜け! コントロールケーブルを抜け!」

「それもロックされてます。引き抜き事故防止のためです……」

 力づくで止めるには、どうすればいい⁉ 

 アタッチメントを外せばいい! そして、本体を移動する!

 私は言った。

「先端部を外してくれ!」

「ですが、動いている最中では――」

「何もしない方が危険だ!」

 ポッドから出た伊藤も命じる。

「外せ!」

「はい……」エンジニアがアームに手を伸ばした瞬間、それは止まった。「あ……リミッターが作動した……」

「リミッター?」

「アームを一動作で動かせる範囲を超えたんです、たぶん……」

「今のうちに外せ!」

 だがすぐに、アームが反対方向に動いていった。術野から抜けていく。

 エンジニアは弾かれたように身を引いた。

 アームの動きが早まっていた。おそらく、ロボットに許された最速の動きだろう。二本のアタッチメントが揃って引き抜かれる。

 脳から現れたハサミの周囲は、赤く染まっていた。まるで血まみれのナイフを抜き取ったばかりのようだ。

 次にまた襲い掛かってきたら……。

 明らかに誰かが不正に操作している。アスクレピオスのカメラやマイクで周囲の様子を捕らえながら、スタッフの動きを封じようとしている。

 患者を殺そうとしている!

 なぜ?

 なぜ患者の命を奪おうとする? 

 大使の息子を殺すことに、何の意味がある?

 イスラエルと敵対する国だとすれば――パレスチナか他のイスラム国家からのテロなのか⁉

 大使自身ならともかく、その子供を殺して何の意味がある?

 だが、テロなら〝攻撃〟は終わらない。次は場所を変えて突き刺してくる。確実に殺される。

 伊藤が叫ぶ。

「ロボットをどかせ!」

 二人のエンジニアがロボットに向かい、台座を固定するロックを外そうと身を屈めた。数百キロもあろうかというマシンを動かすのに何秒かかる? 

 第一助手も叫ぶ。

「手術台を動かします!」

 手術台のロックを外そうと屈む。第二助手が手助けに入る。

 だが、間に合うのか⁉

 わずかな振動が事故につながる脳外科の手術台は、瞬時には移動できない。手術台の重量も数百キロはあるのだ……。

 時間がない!

 次の攻撃を止めなければ!

 何か方法はないか⁉

 どうすれば頭蓋骨の穴を塞げる⁉

 私は周囲を見回した。手術用具を並べたカートがある。その上に、脳を保護するコットンなどを入れた金属製のバットがあった。私はバットを掴み、裏返して中身を開けた。

 患者の脳とアタッチメントの先端に、5センチほどの隙間ができていた。再びアームが停止する。

 これ以上患者の脳に触れさせるわけにはいかない。

 私は叫んだ。

「今だ! スイッチを切って!」

 エンジニアが身を起こす。

 だが、操作する前に再びアームが反転した。

 早い!

 まさに、脳を射抜こうという勢いだ。

 私は深さ2センチほどのアルミのバットを、患者とアタッチメントの間に差し込んだ。アタッチメントの先端は、バットに当たって金属音をたてた。

 そして、停止した。

 おそらく、別の安全装置が働いたのだ。人体に直接触れるマシンだから、必要以上の圧力を感知すればそれ以上は動かない。障害に当たれば自動停止する仕様になっているのだろう。

 考えて起こした行動ではなかったが、功を奏したようだ。

 脳は守れた……。

 だが、それは見た目だけだ。内部ではドミノ倒しの一押しが起きてしまったかもしれない。静脈麻酔が深めにかかっている状態では、言語中枢が機能を失ってもそれを把握する術がない。

 今まで奇跡を起こし続けてきた神に、さらに祈る他にない。

 台座のロックが外れた。アスクレピオスはエンジニアたちの手で手術台から引き離されていった。

 溜息が漏れた。とりあえず、危機は去った――。

 伊藤が私の横に立つ。

「ありがとう。また救われたな」

「よかった……患者が無事でよかった……」

 興奮で、息も荒くなっている。

 背後に人の気配を感じた。迫田だ。

「何が起きたんですか?」

 声は冷静だったが、やはり息づかいが荒い。必死に興奮を抑えているような口調だ。顔色も、やや青ざめている。

 伊藤が言った。

「あなたは離れていて。患者は危険な状態です。MRIとモニタリングで脳と周辺組織の損傷の有無を精査します」

「命が危ないのか?」

「それを確認するんです。下がって」

 私は振り返って迫田の腕を取った。ソファーに向かう。

「今、私たちにできることはありません。伊藤に任せましょう」

「あなたは、患者が受けた傷はどの程度だと思いますか?」

「見たところ、ハサミが入ったのは手術予定の範囲内です。ただ、どこまで深く刺さったかが正確には分かりません。乱暴な入り方でしたから、周辺組織を破壊した可能性もありますが……」祈れ、とは言えなかった。「すぐ、結果が出ますよ。待ちましょう」

 私たちはソファーに腰を下ろした。

 垂水はソファーの隅で頭をうなだれたままだった。さっき見たときからぴくりとも動いていないようだ。腕を後ろに回され、医療用のサージカルテープでがっちり止められている。今の騒ぎにさえ関心を示していない。

 彼の人生はすでに終わったも同じなのだ。もはや自分のこと以外は考えられないのだろう。

 迫田が問う。

「なぜロボットが暴走したんです?」

「なぜでしょうか……。でも、誰かに操作されていたような感じでした」

「誰か? 誰です?」

「アイザーでも伊藤でもない、他の誰かです。ですが、どうすればそんなことができるんだか……」

 迫田は、アスクレピオスの脇で息を荒くしていたエンジニアに手招きをした。

「こっちへ」

 年長の一人が傍らにやってきた。

「何でしょう?」

「マシンがハッキングされた可能性はあるか?」そして、ズボンのポケットから警察手帳を取り出した。「私は警察の者だ。技術的な可能性を教えていただきたい」

 迫田は、手術着の下のポケットに手帳を持ち込んでいたのだ。感染症防止のためには好ましくないが、こんな緊急時なら止むを得ないことだろう。

 エンジニアは驚かなかった。小さな声で答える。

「私もそれを考えていました。誰かが不正に操作しているとしか思えません。だとしたら、操作系を乗っ取られたことになります。どちらのポッドからも操作不能になりましたから。でも、マシン自体は病院のシステムには繋がっていないスタンドアローンですし、どうやったら侵入できるのか……」

「回線からか?」

「ですが、特殊な超高速回線だと聞かされています。軍用、なんでしょう? そんなもの、ハッキングできます? アメリカに喧嘩を売るようなものです」

 迫田は考え込むようにつぶやいた。

「あるいは、イスラエル側からか……。何らかの手段があるのだろうな……」

 あったとしても、軍用のシステムに侵入できる人間は多くはないだろう。

 一体、何が起こっているのか?

 患者はなぜ命を狙われるのか?

 そもそも、この患者は〝何者〟なのか……?

 迫田は立ち上がり、さらに部屋の奥に向かった。こちらに背を向けて、またポケットから何かを取り出す。

 スマホか?

 病院の多くの場所で、携帯使用は解禁されつつある。電波による障害を起こさない機器が完備されてきたからだ。それでも、オペ室ではまだタブーだ。電波に対する感受性が強い機器が多すぎる。

 そもそも、外部の電波がここまで届くかどうかも分からない。

 私は伊藤に向かって言った。伊藤は、天井のレールから吊るされた術中MRIを移動するスタッフを指揮していた。

「伊藤!」伊藤が振りかえる。「携帯は使ってもいいのか?」

 迫田の背中を示す。

 伊藤は私を見て、仕方なさそうにうなずいた。規定には反していても、機器には実質的な障害はないのだろう。

 振り向いた迫田は、私に軽く片手を上げた。

 スマホが繋がったのか、迫田はぼそぼそと会話を始めた。声は小さくて聞こえなかった。部下への指示なのだろう。

 当然といえば当然だ。守らなければならない患者が、立て続けに危険に晒されたのだ。明らかに命を狙われている。特に今のは、ハッキングされた可能性が極めて高い。

 だとすれば、外部から攻撃を受けたことになる。それも、相当な技術と覚悟を持った何者かに、だ。外の部下たちに対応策を指示しなければ、さらなる危機を招く恐れがある。警視庁にはサイバー犯罪対策課があると聞いたことがある。そこにでも連絡したのだろうか……?

 ロボットさえ遠ざければ、これ以上は患者にダメージを与えられる手段はなくなる。だが、軍用回線を操作できるほどの技術を持つ者なら、他の方法で患者を襲ってくる恐れも残る。守る側としては、先手を打つ責任がある。手術の中止も選択肢に加えなければならないはずだ。

 患者はスタッフに取り囲まれ、その頭部に術中MRIが近づけられている。巨大な白いドーナツ状のMRIの穴に、頭部が入り込む。壁のメインディスプレイに、脳内の映像がリアルタイムで映されていく。

 最先端の機器を揃えているだけあって、MRIも静かだ。コイルへ流す電流の切り替えをなくすことで騒音を発生させないようにした、サイレント・スキャンだろう。私が使っていた当時のMRIの騒音は、新橋のガード下並みと言われたものだ。

 私は、患者の脳の精査を見守る伊藤の横に歩み寄った。

「現状をどう思う?」

 伊藤は刻々と変化していく画面を凝視しながら答えた。

「手術の続行にあたって障害となるような明らかな損傷はないようだな……。アタッチメントが入ったのもテント切痕で、もともとアプローチする予定の場所だ。腫瘍本体にも届いていなかったようだが……」

「それにしても、乱暴すぎた……」

 伊藤がうなずく。

「硬膜の一部を傷つけて出血していたが、脳には問題ないようだ。だが、側頭葉や後頭葉、あるいは小脳にマイクロハサミや吸引管が刺さって、刺入部がはっきり見えないこともありうる。どこかの神経に損傷を与えていないとは断言できないし、そこまで精密には判別できない。できるのはMRIと電気生理学的検査で頭頂葉、後頭葉、脳幹の機能の障害の有無を見るか、目視での確認ぐらいだ」

「爆弾並みの腫瘍を抱えている上に、二度も命を狙われるとはな……」

「次に何が起きるのか予測できない。手術を延期することも危険だろう。立て続けに負荷をかけられたからな……」

 頭蓋内腔は小脳テントによってテント上とテント下に分けられる。テント上には前頭蓋窩、中頭蓋窩が含まれ、テント下は後頭蓋窩になる。小脳テントは頑丈な硬膜によって形成されていて、その開口部はテント切痕と呼ばれる。

 頭蓋骨をみかんの皮に例えれば、硬膜は房の皮に当たる丈夫な組織だ。アタッチメントは、房と房の間に突き刺さった。丈夫だとはいえ、急激に刺されて出血したのは確かだ。

 そもそもテント切痕には、中脳や橋が貫通するとともに多くの脳神経や動静脈が通っている。生命維持には問題なくとも、どこか重要部位が損傷を受けているかもしれない。その部分からのアプローチが予定されていたとはいえ、神経や血管に細心の注意を払いながら切開を加えて進まなければならない場所だ。

 私は伊藤の考えを知りたかった。

「手術を続行するのか?」

「すでにダメージは大きい。腫瘍自体の危険も変わらない。だが、こんなことが起きたんじゃな……」

 迷っている。当然だ。だが、私はあえて断定的に言った。

「患者の命が狙われているなら、延期するしかない。まだ妨害が続くかもしれない」

「お前もそう思うか?」

 私はさらに伊藤に近づいて声を落とした。

「誰が何の目的でしたのかは分からない。だが、院内の権力闘争なんていう小さな理由ではないだろう。米軍の回線をハッキングするには、かなりの技術力と資金が必要だと思う。問題は、患者が公安警察に守られるほど重要な人物だってことだ」

「公安? 迫田がか?」

「国際テロリズム対策課……とかいったかな。やはり教えられてなかったか。内密に、な」

「本当かよ……つまりテロなら、患者が死ぬまで妨害され続けるってことか?」

「今日の手術は完全に情報を盗まれている。手術行程もスタッフも使用する機材も、何もかもだ。すべて変更するべきだ。たぶん、今もどこかからこのオペ室は監視されている」

 伊藤が息を呑む。

「まさか……。そうだとしても、そもそもが緊急手術が必要な患者だ。そんな悠長なことを言っていられるかどうか……。今のダメージで、むしろ緊急性は高まっているしな……」

「どちらのリスクを取るか、だ。患者は他の病院に動かせる状態じゃないが、二、三日の延期なら何とか耐えられそうだ。確信は持てないがな」私は伊藤にまで『祈れ』と言っている。神なら、もう一度ぐらい力を貸す気になるかもしれない。だが、このままなら犯人は必ずまた妨害してくる。「スタッフを入れ替えて、秘密裏に再手術する」

「スタッフまで?」

「他にも脅迫された者がいないとは言えない」

「だが、ぶっつけ本番でこの手術はできない。カンファレンスに丸一日はかけないと」

「その間、スタッフは外部と接触させないようにする」

「だが、今のメンバーより能力が落ちる」

「重要なスタッフは東大から呼べないか?」

 伊藤はしばらく考えてからうなずいた。

「手術を続けるより、少しは危険が減るかもしれないな……」

「ほんの少し、だがな。迫田に進言してくる」

 私は休憩コーナーに戻った。迫田も、通話を終えたところだった。

 私は言った。

「手術をいったん中止したい」

 迫田はうなずいた。

「止むを得ないですね。しかし、再手術はするのでしょう? 患者はそれまで耐えられるのですか?」

「危険は高いですが、このまま続けるよりは安全だと思います。その差はわずか、ではありますが……」

「分かりました。判断はあなた方に任せます。だが、くれぐれも死なせないように」

 腹立たしい一言だ。医師は、そのために働いている。

「伊藤は力を尽くしています」

 私は伊藤に向かってうなずいてみせた。

 伊藤も小さくうなずき、スタッフに言った。

「患者の脳に障害が加わっていないらしいことは確認できた。安全のため、今日の手術は中止して、後日再開する。いったん閉創する」

 スタッフの間に安堵の溜息が広がる。当然だ。誰もこんな不安定な環境下で患者に向かい合いたくはない。それでなくとも、戦う相手は最も困難な腫瘍なのだ。

 その時だった。室内の照明が、一斉に消えた。

 スタッフの安堵が、驚きの声に変わった。

 だが、照明はすぐに回復した。

 迫田が問う。声が一気に緊張していた。

「何だ⁉」

 ナース長が壁の緊急電源パネルを見て言った。

「電源が切れたようです。非常用電源に切り替わっています。ですけど……」

 伊藤がうめく。

「停電――ではないだろうな」一瞬、間を置いてから言った。「誰かが電源を切ったんだ……」

 同じことを考えている。

 日本では、停電など滅多に起こらない。今日は落雷の予報も出ていなかった。偶然であるはずがない。

 これも誰かの妨害だ。早くも次の手を打ってきたのだ。その誰かは、あくまでも患者の命を奪いたいようだ。

 だが、電源を切る?

 どうすればそんなことができる?

 このブレインサイトだけが非常電源に切り替わるなんてことがあるのか?

 まさか、病院全体の電源を切断したのか……?

 しかも、タイミングが良すぎる。まさにオペ室を覗いているようではないか……。

 伊藤を囲むスタッフも慌てふためいていた。MRIの周囲で動きが激しい。

 MRIは電源を失うことに弱い。いったん電気の供給が途絶えると、再度起動するには一ヶ月近くかかる場合さえある。MRIが機能しなければ、数日後に手術を延期することも難しくなる。

 私は再び伊藤の元に向かおうとした。

 と、またしても照明が消えた。

 照明だけではない。すべての機材の電源が一斉に消えた。真っ暗だ。

 見上げると、観覧室の側も照明が消えている。

 悲鳴に近いざわめきが広がる。

 伊藤の声がする。

「静かに! 非常電源まで故障したのか⁉ 誰か、電源パネルの近くにいる者、バッテリーを起動しろ」

 スタッフたちの動揺が収まり、ごそごそと動き回る気配があった。手探りでバッテリーの操作盤を探しているようだ。

 しばらくして、再び照明がついた。

 大病院には非常用のディーゼル発電機などが常備されているのが普通だが、多くのオペ室にはさらに厳重な設備が用意されている。地震などによって非常用発電機までが損傷した場合に備えて、NAS電池を置いているのだ。ただし、バッテリーからの電力供給は長くても数時間に限られる。到底、MRIの機能までは維持できない。

 ナースの一人が壁のインターホンへ飛びついて受話器を取る。

「ブレインサイトです。誰かいませんか? ――聞こえませんか⁉」ナースは振り返って、心細そうに言った。「内線もつながりません」

 その時、迫田のスマホがかすかに鳴った。黒電話の受信音だ。

 スマホの表示を怪訝そうに見た迫田は、電話に出た。

「誰だ⁉」

 皆の視線が迫田に集まる。

 スマホの声に聞き入る怪訝そうな迫田の表情が、見る見る強ばっていく……。

 何だ? 何が起きている⁉

 これ以上何が起きるというんだ⁉

 何も話さずに通話を終えた迫田は、スマホを握った腕をだらんと降ろしてつぶやいた。

「脅迫電話だ……。はくちょう病院のビル管理システムをハッキングしたと言ってきた。さらに、ブレインサイトへの電力線を切断したという」

 病院をハッキング⁉

 伊藤が言った。

「どういうことだ?」

「もう、電気は来ない……」

 アスクレピオスだけではなかったのだ。確かに、軍用回線に侵入するスキルがあるなら、一般病院の管理システムを乗っ取ることなど容易いかもしれない。しかも、電気の供給を断たれるとは……。

 そんなにしてまで、この手術を妨害したいというのか……。

 ナースの一人がつぶやいた。

「じゃあ、ドアも開かないの……?」

 迫田がうなずく。

「もし開けられても、誰も出るなと命じられた。監視しているようだ。手術室に出入りする者がいたら、はくちょう病院の生命維持装置を停止して、患者を殺していくと言われた……」

 別館にも本館にも、ICUがある。医療機器で生命を維持している患者も多い。人工透析を行っている患者もいるだろう。一体、何人の命が脅かされているのか……。

 電気が使えないなら、目の前にいる患者の生命維持すらできない。手術の延期など不可能だ。それどころか、病院すべてを人質に取られたようなものだ。

 犯人は、我々にどうしろというのか……?

 私は言った。

「脅迫って言ったね? あなたを脅迫したんですか?」

「公安を、です。私の電話の番号は極秘です。それを、犯人は知っていた……」

「公安を脅迫って……? テロ、ですか?」

「そうでしょう。私が国テロだと知った上での脅迫です。犯人がどんな組織なのかは、まだ不明です」

「目的は何です?」

 迫田は声を絞り出すように言った。

「1000億円。犯人は、日本政府に1000億円の身代金を要求してきました」

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