2・麻酔医

 垂水たちは全身麻酔の準備を進めていた。

 覚醒下の手術のため、患者にはプロポフォールによる静脈麻酔をかける。その後、手術の進行状況に応じて麻酔を弱め、意識を回復させるのだ。だが万一の場合は速やかに全身麻酔に戻れるように、患者の口から胸元は透明ドレープで覆われている。

 観察しやすく、緊急の気管内挿管にも即応可能な態勢だ。

 麻酔医チームの傍らでは、臨床工学士とBHのエンジニアがイスラエルとの回線を開いてロボットの最終調整に入っていた。

 メインディスプレイにアイザーの顔が現れた。懐かしさに、わずかに頬が緩む。

 アイザーが軽い口調で言った。

『ハロー、サッポロ。ハロー、イトー。今日もよろしく頼むよ』

 声だけを聞いたら、日本人が喋っているとしか思えない。福山教授と私たちは、チーム内では日本語を使うことが普通だった。

 アイザーは八カ国語を駆使できるという天才で、あっという間に日本語も吸収してしまったのだ。子供の頃からの〝マンガファン〟で日本に強い関心を持っていて、ぜひ日本語で会話して欲しいと懇願されたほどだ。

 伊藤が軽く手を挙げて応える。

「声がでかいな。久しぶりに会う奴もいるぞ」

『声がでかいのはいつものことだ。あ? 久しぶりって……』そして、さらに大きな声で叫んだ。『おい! そこにいるの、サトシか⁉』

 イスラエル側のディスプレイにどう映っているかは分からないが、アイザーは一瞬でオペ室の隅にいる私を見分けた。私は手術帽とマスクで顔を覆っている。目視できるのは、眼の周辺と顔の輪郭、全身の雰囲気程度だけだ。

 それなのに、だ。

 直感の鋭さと抜群の観察力を備えているのだ。それを武器に、トップに立った。

 私はディスプレイに向かって手を振った。

「ハロー、アイザー。元気にしてたか?」

『馬鹿野郎! それはこっちが聞くことだ。ここしばらくはメールに返事もよこさないじゃないか。何やってたんだ⁉』

「野暮用ばかりでね……」

『現場に復帰したのか?』

 アイザーの言う現場は、ブレンサイトのような最先端の手術室以外にない。

「いや。もうその気はないよ」

『じゃあ、なぜそこにいる?』

「仕事だ。医療雑誌に記事を書いている」

 つまらない見栄だ。

 最前線で活躍する彼らを前にしていると、失ったものの重さが堪える。自分で選んだこととはいえ、今の私は本当の私ではない。町医者の補佐? そんな立場が口に出せるわけもない。せめて記者だと言っていなければ、涙がにじみそうにつらい。

 伊藤は、ロボットのアームの先にむき出しの脳の模型をセットしていた。

 患者の脳のデータを解析して3Dプリンタで成形した、極めて実際に近い模型だと聞かされている。血管や神経などの内部構造物や、その手触りや柔らかさも、種類を変えたラテックスを組み合わせて、可能な限り再現しているそうだ。この模型を緊急に複数制作し、カンファレンスや手術行程の検討に使用したという。

 ただし、色や固さはこれまで蓄積されてきた一般的なデータを元にするしかない。脳の弾性や接触特性を数値化して再現することはスパコンの処理能力さえ超えてしまうらしく、単純化したモデルでしか実現できていないのだ。外形はある程度見極められても、内部の〝個性〟は実際に脳を開いてみなければ分からない。

 目まぐるしい進化を続けているとはいえ、医療情報誘導機器では探りきれない問題が内部に隠れていることも珍しくはない。現実の手術では、患部の色や感触をその場で検討しながら〝次の一手〟を決めていく。医師のインプロビゼーションが患者の未来を決めるのだ。

 ある優秀な脳神経外科医は、ナビゲーションを使わないので有名だった。彼は『俺がナビだ』と言い放ったという。

 厳しい決断が続くこともある。患者の未来を諦めて手術を中断することも、選択肢の一つだ。

 伊藤が模型のセットを終えて、会話に割って入った。

「アイザー、世間話は手術が済んでからにしてくれないか? アスクレピオスの動きの最終確認をして欲しいんだが」

『オーケー、ミスター真四角(スクエア)。おい、サトシ、手術が済んだら話がある。逃げるんじゃないぞ!』

 アイザーは、私が妻を〝殺した〟ことを知っている。なぜ連絡を取らないかも理解している。

 仲間内ではプライベートな情報が広まるのも早い。トップに立っていた私が〝消えた〟ことを喜ぶ者も、ネガティブな噂を流す者もいるだろう。酒にすがって自堕落な生活を送った時期があったことさえ知っているかもしれない。

 だからアイザーは、あえて高圧的な口調を使っている。私を〝医学界〟に――というより、〝まともな世界〟に引き戻そうという優しさだ。

 もう時間は充分に過ぎた。そろそろ帰ってこい……。

 そういうアイザーの声が、聞こえたような気がする。

「分かった。電話するよ」

『約束だぞ』

 私は軽くうなずいて見せた。アイザーははち切れんばかりの笑顔を見せた。たったそれだけのことだったが、私は救われた気分になっていた。

 そして、気づいた。

 アイザーとのやり取りには、何の不自然さもなかった。相手はイスラエルにいる。なのに会話していても、テレビの海外中継のような時間差は感じない。当然ではあるが、おそらくKU―帯域を使用する静止衛星と地上の光ファイバーを組み合わせた高速大容量回線を使用しているのだ。 

 伊藤はアイザーに指示していた。

「グローブを操作してみてくれないか?」

『昨日から何回繰り返した? まあいい、患者はVIPだし、ギャラは半端じゃないからな』

 画面の中で、アイザーが移動する。アイザーも、彼の病院のオペ室にいるようだ。周囲に待機しているスタッフの姿も映し出される。

 カメラ映像がアイザーを追い、アスクレピオスのポッドに座る姿が映る。身体の前半分はポッドに包まれたが、背中は露出したままだ。そして映像が切り替わり、ポッドの中のアイザーを正面から移し出す。3D映像を映すゴーグル型のヘッドマウントディスプレイを装着した顔のアップだ。

『画面を切り替えた。こっちからはアスクレピオスの映像がはっきり見えている。そっちの画像はどうだ?』

 伊藤が空中で両腕を振ってメインディスプレイを操作していた。

 これまで表示されていた医療情報の画面が小さくなってディスプレイの右端に並ぶ。アイザーの表情の横に、アスクレピオスの超高解像度カメラが捕らえた画像が大きく表示された。ブレインサイトの映像――脳模型の表面とアームの先端が写されている。

 同じ画面を、アイザーはイスラエルのポッドの中で見ている。

 伊藤は私にゴーグルを差し出した。

「見てみろよ。機材はとてつもなく進化しているぜ」

 手術助手や臨床工学士の何人かもゴーグルをはめようとしていた。ゴーグルは、手術の閲覧者用に数多く準備されているようだ。無線で結ばれ、アスクレピオスの映像を見られるらしい。

 私はゴーグルを受けて取って装着した。完全に目の周囲を覆うのではなく、下に隙間ができていた。装着したままで器具の受け渡し作業などを行えるように考えられているようだ。

 目の前に、ロボットの先端部が捕らえた映像が広がる。まさに、自分が小さくなってその場に立っているような臨場感だ。

 アイザーがコントロールグローブを操作したのだろう。こちらのオペ室のロボットアームが動き出し、映像が動いていく。

 動きはスムーズだ。先端のマイクロハサミが模型の小脳テント――大脳と小脳の間との間に伸び出している脳硬膜のヒダに近づく。マイクロ吸引管が、側頭葉を軽く持ち上げる。側頭葉と錐体骨との間にできたわずかな隙間に、マイクロハサミを入れる。さらに吸引管を入れて側頭葉を持ち上げる……。

 3D映像の奥行き感にも不自然さは全くない。シネマコンプレックスなどで採用されている3D映像技術とは明らかに違う。電子ホログラフィーだろう。

 一般的な3D技術は左右の眼から見える物体の視差を利用する2眼式で、臨場感に乏しい。片目をつぶってしまえば消えるような、脳の錯覚を利用した〝擬似的な立体感〟でしかないのだ。映画館のようなエンターテイメントでなら許容できるが、物の相対的位置関係が分かる程度の精度しか表現できない。

 電子ホログラフィーは根本的に原理が異なり、精密な画像が再現できる。だが膨大な高速計算処理が必要で、フルカラー化が困難だと言われていた。いつの間にか画期的な画像データ圧縮システムが実用化されていたようだ。

 まさに、自分が脳の中に入り込んでいくような感覚だ。

 思わず、右手にマイクロハサミ、左手に吸引管を持っているかのような動作をしてしまった。

 傍らで伊藤の声がする。

「リアルだろう?」

「ああ……模型だから、まだ何ともいえないが……脳ベラは助手が操作するのか?」

「今は隠れているが、アスクレピオスに内蔵している。ポッドから操作できるし、圧迫した脳の血流を滞らせないように自動的にテンションを緩める機能もある」

「何から何まで一人でできるのか……術者の責任も、逆に重くなるな……」

「だが、手がけられる手術も増える。部下のミスで足を引っ張られることもない。これまで以上に稼げるぞ。この実験が成功すれば、だがな」

 アイザーの声がした。

『それは俺のセリフだ。イトーには似合わないぞ』

「俺にだって、病院を支える責任がある」

『お、病院長を狙っているのか?』

「バカを言うな」

 伊藤はそう答えたが、あながち的外れではないだろう。

 だが、大勢が聞いているオペ室での話題には生々しすぎる。アイザーは、そういう〝配慮〟をあえて無視するような男なのだ。しかも昔から、融通が効かない伊藤をからかって楽しんでいた。

 私は、助け船を出すようなつもりで言った。

「このゴーグルは、顕微鏡で見るより操作しやすそうだが……お前もこのロボットで何回か手術をこなしたのか?」

 伊藤の口調には微かに安堵の響きがある。

「もちろん。導入してから三ヶ月以上経っているからな。回数は多い。だが、今回のような深部病変に対する手術は、ホルマリン固定の側頭骨手術解剖シミュレーションだけだ。ホルマリン漬けじゃ脳が縮むし、出血もない。実際の症例に対して行う自信は、まだ持てない。果たして、どこまで使えるものか……」

 確かに、模型だけでは判断できない。自分が持つ膨大な頭蓋底手術の経験と、ロボット手術のシミュレーションで得た感触とを融合させて取り組むしかない。

 そもそも、本番で執刀医だけを置き換えること自体が難しい。

 実際の手術では、開頭後に患者の脳を露出させ、超音波で腫瘍の位置を確認する。さらに脳MRIとナビで、手足を動かすの神経の通り道――錐体路をバーチャルで確認しながら、機能障害を最小限に抑えられる場所を探す。

 そのため、手術中も多くのモニタリング装置で電気や光の刺激を加え、正常な反応が得られているかどうかを確認する。スタッフはそれぞれの行程に習熟していなければならず、連携も要求される。モニターの波形の解釈やトラブルシューティングをめぐっても知識と経験が必要になる。しかも長時間の作業が続くため、チームには〝阿吽の呼吸〟が成立していることが望ましいのだ。

 ロボットの感覚伝達の難しさよりも、チームが円滑に機能するかどうかの方が問題になりそうだ。いかにシミュレーションを繰り返していようと、生身の体を手術するとなると別だとしか思えない。

 だが一方で、最も困難な手術でそれが実現できるなら、医療の可能性は格段に広がる。可能だと証明できれば、後に続く者も現れる。現時点でこの手術を成功させられるチームがあるとすれば、彼らだけだろう。

 私はゴーグルを外しながら、小声で伊藤に尋ねた。

「アイザーに質問していいか?」

 アイザーは、画面の中で鋭い雰囲気を発散していた。軽口を叩いていながら、すでに真剣な〝手術モード〟に入っている。一瞬で集中力を高め、無我の境地を意図的を作り上げたのだ。

 それができるからアイザーは一流でいられる。伊藤より早く、彼自身が応えた。

『サトシ、何だ?』

 伊藤が私を見て小さくうなずく。会話していいというサインだ。

 どうしても確かめたいことがあった。

「アイザー、感触はどうだ? ハサミの先端を感じられるのか? 動作に時間差はないか?」

『まだダミー・シミュレーションでしか切ってないから、何とも言えないね。作業もゆっくり進めているしな。今のところ時間差は感じない。公称では、時間差は0・1秒以下だそうだ。感覚の伝達機能も、今までのロボットと比べたら別次元だ。わずかに触れただけで、きちんと模型の弾力を感じる。患部が表層なら、脳手術にも充分使えると思うが……今回のような奥深い場所で微細な作業ができるかどうかは、正直、未知数かな……』

 アイザー自身も、半信半疑のようだ。伊藤にバトンタッチすることを前提に執刀を引き受けたというのは、本心のようだ。

 私の横に立った伊藤が説明する。

「イスラエルとは、超高速インターネット回線で結ばれている。DARPA(ダーパ)が用意した軍用の衛星回線だ。BHがアメリカ軍の協力を取り付けたそうだ。実験自体が軍での使用を視野に入れているんでね。ほら、無人機がテロリストの隠れ家なんかを爆撃するだろう? 操縦者は大体ネバダの空軍基地からコントロールしている。地球の裏側の攻撃機をタイムラグのない回線で操っているんだ。あれだよ。俺たちには縁のない、ばかでかい組織が動いているのさ」

「ダーパ……って?」

「アメリカ国防高等研究計画局――とか言ったかな、国防総省の中にあって技術開発を行う機関だって聞いた。最先端の技術を軍事に転用する研究所らしいな。インターネットの原型やGPSも開発したそうだ。そこが軍用回線の使用を許可した。この手術は、それほど重要だってことだ」

 インターネットの出発点が軍事目的だったことは知っている。ということは、この超高速回線もいずれは家庭で使えるようになるのかもしれない。

 医療支援ロボットとともに一般化すれば、確かに僻地医療などには圧倒的な威力を発揮するだろう。コストを度外視して最先端の技術開発ができる軍事部門のイノベーションが、医療へ移転されることは歓迎できる。

 将来は明るい。

 私は期せずして、医療のブレークスルーの現場に居合わせたようだ。

 アイザーが言った。

『吸引管を試してみたい。術野に血液を注入して欲しい』

 あらかじめ第一助手が待機していた。

 スポイトを脳模型に近づけ、脳をうかべている〝髄液〟を模した透明な液体と、血液を模した赤い液体をアームの脇から交互に注ぐ。二本目のアームに装着されている吸引管――細い鉛筆のような管がさらに術野に入り込んでいく。

 私はゴーグルをはめた。

 模型の〝患部〟には、ピンクの液体が満たされている。視界に吸引管の先端が現れる。同時に、吸引管の先から体液を吸い込むリズミカルな音が、断続的に聞こえる。ゴーグルに内蔵されているスピーカーが、音を忠実に伝える仕組みのようだ。

 ブレインサイトで見た機器の中で一番の衝撃を受けた。

 音楽をやっている分、私は音には敏感だ。ハイレゾが一般化する以前は、CDの可聴域以外を切り捨てた音のチープさに耐えられなくなることもあった。このスピーカーの音は、原音そのものの〝ふくよかさ〟を保っている。

 吸引管で血液や髄液を吸い取る際の音は、医師にとって極めて重要な判断材料なのだ。高低やバイブレーション、音程の変化を聞きながら、吸引力と吸引管の位置を微妙に変化させる必要があるからだ。この通信システムには、高音域を消したり音を劣化させるという欠点がなさそうだ。

 だがそれには、音楽CDの6・5倍ともいわれる膨大なデータ量を超高速で送る必要がある。そもそも〝感覚〟の伝達にはそれ以上のデータ送信が欠かせないはずだ。おそらく、電子ホログラフィーと同じ画期的な情報圧縮―解凍法が背後で機能し、初めて実現された仕組みなのだろう。その技術がアスオレピオスの基盤になっているようだ。

 イスラエルの開発力の底力を感じる。

 第一助手が、赤い液体と透明な液体を代わる代わる加える。その都度、アイザーはそれに見合った吸引管の操作を試している。臨場感は半端ではない。

 さらに体液が注がれる。

 実際の手術でも髄液があとからあとからせりあがって、術野が〝水没〟してしまうものだ。わずかではあるが、血液が術野に出てくることもある。そのままでは患部が目視できずに、ハサミが進められない。体液を吸い取って視界を確保しなければならないのだ。

 吸引管は切り取った腫瘍を吸い付けて取り出すためにも使われる。

 そのため、脳外科の手術では吸引のテクニックに最も精緻さが要求される。決して強く吸いすぎず、かといって噴き出す体液や切り取った病巣の破片は確実に取り除かなければならない。

 それを可能にしたのが福山教授が考案した吸引管だ。ティアドロップ型の穴の開け閉めを巧みに行うことで、吸引力の強弱を繊細にコントロールできるようになったのだ。

 私が得意な技の一つでもあった。

 幼い頃から模型の塗装にエアブラシを使っていた私にとって、指先の微妙な感覚で気流を細かく制御するのは慣れたことだった。エアブラシは、気流で塗料を吹き付ける。気流の強さや塗料の量は、レバーを押したりずらしたりする指先の細かい動きでコントロールする。吸引管は気流で障害物を吸い取る。流れは逆だが、コツは同じだ。

 左右の手にも、それぞれの役割がある。

 手術を上達させるための訓練として、左手で箸を使う術者がいると聞く。人それぞれの考え方はあるだろうが、私は否定的に見ている。左手に、数十年使い続けた右手のような精緻な動きを求めるのは無理だと思えるからだ。たとえ可能でも、意味が薄い。

 右手のマイクロハサミにいかに効率的な仕事をさせるかが、左手の役目だからだ。脳を損傷しない程度に軽く力をかけながら、右手が切るべきものを浮き立たせるのが〝仕事〟だ。

 例えばフライドチキンの皮をはがそうとすると、皮と肉の間に細い繊維状のものが浮き出てくる。浮き出た繊維は簡単に右手のハサミで切ることができる。だが、皮にかけるテンションを緩めると、繊維がひっこんでしまう。その連携が崩れれば、右手は切るべきものを見定めることができない。

 左手は、いかに右手の操作をやりやすくするかに徹すればいい。そのために重要なのは、動きの精緻さよりも予測力だ。

 アイザーが操る極小のハサミと吸引管の動きは、滑らかに同調していた。模型は実際の脳とは別物ではあるが、あたかもそれがリアルな脳であるかのように補完しあっている。とても国外から遠隔操作されているとは思えない。

 このシステムは、私が思っていた以上に洗練されている。これなら、本当に腫瘍の摘出までできるのかもしれない。

 アイザーが言った。

『今日もいい感じで〝つながって〟いる。実戦に参加できるぞ』

 伊藤がうなずく。

「では、本番に入ろう」

 その一言で、スタッフが一斉に動いた。

 私はまたゴーグルを外した。

 ロボットの前の模型が片付けられる。同時に二人のBHエンジニアが手術台にロボットを移動していく。一方で看護師たちが患者を手術台に移し、脳を開く準備に入った。

 垂水は患者の横で、すでに麻酔導入にかかり始めている。

 私は、それを見守る伊藤に尋ねた。

「ロボットの調整はあれだけで充分なのか? ダミーの中まで切らないのか?」

 確認したのは、ほんの入り口を切開する行程だ。実際に繊細さが要求されるのは、患部にたどり着いてからだ。

 伊藤は言った。

「それは、昨日すませた。模擬手術だけで2時間かけた。アイザーだって疲れる。今の動き、見ただろう? アイザーも俺も、アスクレピオスに関しては充分な経験を積んできた。これ以上は、実際の患者でなければ意味はない」

 確かに、どれだけ訓練しても、模型は模型に過ぎない。〝本物〟とは、最初にハサミを入れた瞬間から違うだろう。ロボットアームが自在に操れることさえ確認できれば、あとは臨機応変に対処する以外にない。

 つまり、通常の手術と何も変わらないということだ。

 アイザーが私の言葉を聞きつけたようだ。

『サトシ、心配するなって。イトーがそこにいるんだ。それでも心配なら、お前にハサミを譲るが?』

 冗談だ。10年も現場を離れていて、いきなり復帰できるわけがない。それでも、うれしかった。

 アイザーは、まだ私を仲間だと認めてくれている。疎外感に打ちのめされていた私には小さな救いだ。

 私は笑いながら言った。

「遠慮しておくよ。だが、近いうちにそっちに取材に行く。一緒にまたセッションしよう」

『約束だぞ』

「もちろんだ」

 本気だった。

〝事故〟の後は、もう復帰は絶望的だと諦めた。医療に関わることも辞めようと決めた。だが、東日本大震災のボランティアで考え方は少し変わった。

 一緒に活動することが多かった米軍の医師の影響も大きい。

 ボランティアの前の私は、完全にアル中だといってよかった。職業柄、病的な依存症患者に接することもあった。自分が、〝彼ら〟に近づいていることは分かっていた。だが、それを止めようという気力が湧かなかった。

 血中にアルコールが充満していることが常態化し、それが切れれば身体に変調を来す。突然汗が噴き出したり、手が震えたりもした。金には不自由はしていなかったし、マンションに引きこもることが多かったので、他者に危害を加えたことはなかったが……。

 今から思えば、〝破滅〟を望んでいたのかもしれない。苦痛なく孤独死を迎えられるなら、それも受け入れただろう。少なくとも、立ち直りたいという意欲はなかった。

 だが、最後の一線――ひとつまみの理性は残っていたようだ。どうしても果たさなければならない〝約束〟を放棄することだけは、できなかった。

 だから、ボランティアの要請を引き受けた。津波に呑まれた人々の映像を目にして、自分だけを哀れんでいるわけにはいかなかった。

 家族を失いながらも他者への気遣いを忘れず、気丈にふるまう人たち――彼らに非があろうはずがない。ただ、過酷な運命に見舞われただけだ。それでも不運を嘆くばかりではなく、力を合わせて毅然と立ち向かっている。

 なのに、私は……。

 脳の奥は手術できなくても、傷口ぐらいは縫える。人並み以上の医学知識もある。これまでに築いた人的コネクションも役に立てられる。被災地の心もとない医療システムをやり繰りする手腕にも自信がある。何よりも、避難所に常駐の医師がいれば、それだけで被災者に安心感を与えられる。

 できるであろうことは、たくさんあった。

 かつてテレビで紹介されることも多かった私が、彼らの苦労話を聞くだけでも、精神的な支えになれるはずだった。ネームバリューなど重荷なだけだったが、それが役に立つのであれば、利用しなければならないと思えた。実際、テレビで報道されるたびに援助や寄付の申し出が増えていった。

 だからといって、急に酒が抜けるわけではない。自分より悲惨な目にあった者に囲まれても、自分が救われるわけではない。

 被災地で患者を診察する間も、隠れてヒップフラスコに詰めたジャックダニエルズを空けていた。身体的にも精神的にも、葛藤はあった。ただただ忙しかったことが、救いになった。

 災害医療には徹底したリアリズムが要求される。目前の難題を解決することにしか意識が向かない。否定的、悲観的なことばかり考えていては、事態を好転させられない。助けなければならない人々が目の前にいなければ、確実に挫けていただろう。

 立ち直るきっかけは、確かに得られた。

 福島から戻ってからは、少しでも精神と身体を正常に近づけようともがいてきた。指先のコントロールを取り戻せるように、ピアノもボトルシップ作りも再開している。指先が震えれば、少しだけ呑んで身体を抑えつけることもできるようになった。呑んでも量を守れるように、気持ちを鍛えてきた。末梢神経障害とウェルニッケ脳症を防ぐため、ビタミンB1錠剤を飲むようにもした。

 そしてここ数年は、ようやく町医者程度の仕事は引き受けられるようになった。

 失敗することもある。迷いもある。理由のない不安に駆られて、アルコールにすがりたい時もまだ多い。

 だが、オペ室に戻って初めて分かった。

 疎外感を味わうということは、現場に戻りたいという欲望があるからだ。まだ一線で活躍できるという、はかない希望があるからだ。

 目標があれば、再び前に進める。私はずっと、そうしてきた。また、始めればいい。這い進めばいい。足りなかったのは、その目標だけだ。

 そろそろ殻を破っていい頃だ。私が立ち直れれば、息子と和解することもできるかもしれない。

 息子は私に反抗するように医学部から文学部に編入し、卒業後はマスコミ界に進んだ。生活は家庭教師のアルバイトで支えられていたようで、金を無心されたことすらなかった。今は、テレビ局で報道番組のアシスタントをしている――はずだ。

 息子が出て行ってから連絡があったのは、被災者でごった返す福島の体育館で受け取ったメールが一通だけだ。『局から命令されたから頼む。避難所での医療活動を取材したいので便宜を図ってくれ』と言ってきた。こちらからの電話には出ないし、メールにも返信はない。テレビ局の取材スタッフにも参加していなかった。まだその仕事を続けているとは思うが、連絡が取れないので確信が持てない。

 息子は、私が妻を意図的に殺したのではないかと疑ったのだ。そして、私を拒絶した。

〝約束〟は守らなければならない。真実はいつか伝えなければならない。伝えるべきか否か――それを確かめるタイムリミットは近づいている。そろそろ、息子が結婚しているかどうかだけは調べなければならないのだが……。

 結婚するなら、私には知らせるはずだ。いくら嫌っていても、父親なのだから。そう、思いたかった。

 だが、息子は素直に私の言葉を受け入れるだろうか……?

 今でも私は、許されていないのかもしれない……。

 私を苛む迷いだ。

 だから、酒にすがった。だがやっと、息子と向き合う勇気が湧いてくるのを感じた。

 この手術が終わったら、とりあえず記者は休業しよう。たとえ仕事を求められても、ネットとパソコンさえあればどこででもできる。医療関係の記事を書くことも、検証することも難しくはない。メールさえあれば、世界のどこにいてもリアルタイムで編集部と繋がっていられる。

 それでも仕事を絶たれるのなら、受け入れるまでだ。蓄えはまだ充分にある。

 イスラエルに行って、アイザーに会おう。福山教授も見舞いに行こう。今までの自分を、見直そう。 

 そして、息子に会おう。

 新しい自分を始める時だ。

 画面の中のアイザーと目が合った。アイザーは、真剣な眼差しで繰り返した。

『約束だ』

 私はしっかりとうなずいた。

 伊藤が垂水に言った。

「切開にかかれるかな?」

 垂水がうなずく。

「あと1分ほどで開始できます」

 患者は最初に、チオペンタールの静脈注射で麻酔導入される。意識を失った後に、手術台の上でやや横向きになって頭を固定される。

 メイフィールド型3点固定器の釘のようなピンが、頭にねじ込まれていく。クランプの3カ所から出ているピンの先端を頭蓋骨に突き刺し、がっちりと固定しなければならないのだ。麻酔がかかっていなければ〝拷問〟のようにしか見えないが、極めて繊細な手術中は絶対に頭部を動かせない。万一振動が起きれば、それが1ミリ以下の動きであっても、患者の命を奪う事故を誘発しかねない。

 脳外科手術は、それほど精緻なものだ。

 その後プロポフォールを使用して麻酔深度を深くしてから頭蓋骨の『骨切り』をして、脳の表面を露出させる。今回の手術では大脳と小脳の隙間を切り開いて患部へアプローチし、その後に局所麻酔に切り替える。そして意識を回復させ、その状態で手術を進行させる。

 それが『覚醒下手術』だ。

 人間の脳そのものには痛みを感じる神経はない。感じるのは周辺の筋肉、硬膜、主な血管などであって、脳自体ではない。そこさえ痛みを感じない深さの麻酔をかけていれば、脳をハサミで切り進めていっても本人は気付かないのだ。

 覚醒下手術の目的は、術後に患者の日常生活動作(ADL)――特に言語機能を損なわずに、腫瘍を最大限切除することにある。言語中枢を確定するには様々な言語テストを行いつつ、同時に術者が脳表に微弱な電流を流して脳の機能を一時的に麻痺させる。

〝術中モニタリング〟と呼ばれる方法だ。

 電流を流した部分が言語機能に関係する部位であれば、言葉に異常が現れる。その領域は切除出来ない。逆に、言語機能に変化が見られなければ切除可能な部位となる。

 こうして切除範囲を決定しながら脳腫瘍の摘出を進めていくのだ。この方法を取れば術中に後遺症を残す部位を避けられ、術後の回復が早く、社会復帰も迅速になる。

 病巣への入り口は、右耳のやや上の部分――側頭葉だ。私が思い描いたアプローチと一致している。その部分だけ、皮膚は髪が剃られている。

 第一助手と看護師が切開の準備に入る。

 オペ室に戻って来た実感が、改めて湧き上がってきた。福山教授の下で学んできた数年間の記憶が、津波のように折り重なって一気に蘇った――。

 福山教授が作り上げた『鍵穴手術』は、画期的な方法だった。

 それまでの脳外科手術の多くは、頭蓋骨を直径10センチ以上開けることから開始された。病変部分に対してアリジゴクのような円錐状の術野を確保したのだ。切開する部分が大きくなれば手術中の出血や脳へのダメージも増し、術後の回復にも遅れが出た。

 鍵穴手術は、その円錐形を逆さまにするイメージで行う。極めて小さな開頭部分を頂点にして内部を広げ、結果的に大きな範囲を手術していく。

 そのためには、開頭する場所、正確な解剖学的知識、術者の経験と技術が重要になる。しかも術者も顕微鏡も、頻繁に位置と向きを変えなければならない。狭い術野での顕微鏡操作に熟達している必要がある。突発的な出血や、脳を傷めて脳浮腫を起こさないことが前提だ。

 それを可能にしたのが、MRI、CT、ナビゲーションシステムなどの医療機器の発展だ。かつての手術が大きな範囲の切開を必要としたのは、手術で脳のどの部位をいじっているのか、病巣はどこにあるのかを、手術用顕微鏡で目視しながら探さなければならなかったからでもある。

 技術的に重要なのは『硬膜外の処理』だ。骨の下にある硬膜の周辺を効率よく処理することで、鍵穴手術が可能になる。頭蓋骨の奥を広げるように削ることで、そこから差し込む器具を動かせる範囲が広がる。

 特に頭蓋底腫瘍では患部が深い場所にあることが多く、狭いトンネルを通って術野に到達するような形になる。周辺の正常脳の機能、血管や神経を損なわないためには、高度な手術テクニックと多くの専用機器が必要になる。

 それらを開発したのも、福山教授だ。

 教授は優れた脳外科医であると同時に、アイデアに溢れたエンジニアでもある。マイクロハサミやバイポーラのような患部に直接触れる器具、組織を保護する手術用コットン、繊細な作業をこなせる吸引管、術中に患部を特定する小型の超音波診断機、狭い術野を確実に目視する最高倍率50倍の超小型広視野手術顕微鏡、視野の奥行き全てにピントの合った全焦点手術顕微鏡システム、脳波によって手術顕微鏡をコントロールする最新システム――どれも教授がパテントを持つ医療機器だ。

 日本にいるときは大田区の町工場に出かけるのを〝趣味〟にしていた。特殊金属加工、微細加工、超精密金属加工に秀でた無名の職人を発掘し、手術器具をオーダーして世に出すためだ。だからマイクロ手術器械のカタログには、福山の名が冠せられた機器が数多く並んでいる。

 鍵穴手術は、教授が持つ深い知識と精緻な手技、そして柔軟なアイデアが一体になって生み出された画期的な手術アプローチだった。

 もちろん、この方法ですべての脳疾患が治療できるわけではない。腫瘍のサイズ、場所や性質、手術の目的、患者の状態などによって、一つとして同じ手術はないからだ。浸潤や癒着が事前の検査による予測よりも進んでいて、腫瘍の多くを残した部分摘出に終わることもある。

 それでも、かつてなら匙を投げられていた患者に治療が行えるようになったことは事実だ。救われる命が増え、希望が持てる患者は爆発的に増した。福山教授が作り上げた鍵穴手術は、確実に医学界を変えたのだ。

 世界脳神経外科学会の会長が、最も権威ある脳神経外科学医学雑誌の年頭所感にこう記した。

『現代脳神経外科学のバトンは、クッシング、ヤサージル、スペッツラー、そしてフクヤマへと受け継がれてきた――』

 今回の患者にも、鍵穴手術の適用は難しい。

 髄膜腫が大きすぎるからだ。経錐体骨アプローチを選択するしかなく、頭蓋骨を耳の上から後ろに沿ってL字型に開かなければならない。脳と頭蓋骨の間に隙間をつくり、脳の中心部に到達する方法だ。

 三半規管と蝸牛、顔面神経管を温存すれば、顔面神経麻痺と聴覚障害を起こさず、脳も傷つけずに手術ができる。ただし、骨の削除には高度な技術を要する。

 アプローチは鍵穴手術とは異なるが、腫瘍までたどり着けばその先は福山教授が作り上げた方法がそのまま生かせる。腫瘍を凝固し、切開し、摘出する。重要構造物を温存しつつ、目的を達成する手技を可能にする手術器具が、300種類以上もシステマティックに開発されてきたのだ。

 私は垂水が全身麻酔の仕上げにかかるのをぼんやり眺めていた。アイザーとのやり取りに気を奪われていた間に麻酔は終わりかけていた。

 見慣れた仕事だ。

 だが、ふと気付いた。

 垂水の動きが固い。かつて私とともに手術に臨んでいた時は、もっとリズミカルに、スムーズに、楽しげに作業を進めていた。見ている私と、リズムがシンクロしていく安心感があった。

 それが、ずれる。小石を踏んで歩幅が乱れるような小さな違いだが、なぜか狂う。

 あの頃から、もう10年も過ぎている。そんな違いがあっても当然だ。変わったのは私の方なのだろう。しかも垂水は、私の視線を意識しているようだ。

 それもまた、無理はない。

 医療ミスで妻を殺して医学界の頂点から底辺に落下した、かつての仲間――。そんな男がいきなり目の前に現れれば、どう振る舞っていいのか戸惑う。固くなってあたりまえだ。

 原因は私だ。

 視線を落として、かすかな溜息を漏らした。そのとき、患者の右太ももの一部が露出しているのが目に入った。

 鼡径部から細いチューブが伸びている。トリプルルーメンの中心静脈カテーテルが挿入されている。一本のカテーテルで三本分の点滴ルートが確保できる方法なのだが……。

 アイザーの手技に感心している間に処置されたのだ。

 なぜだ? 何のためだ?

 そんな手間をかけなくとも、患者が若い男性なら末梢静脈ルートは確保しやすい。わずかであれ、意味のないリスクを加えているだけのように思える。

 中心静脈カテーテルは、点滴や静脈注射を投与しやすくするための手段だ。薬剤を注入する〝チューブ〟の先端を心臓近くの太い血管に挿入して、心房から下大静脈付近の、中心的な静脈に留置する。鎖骨や首、太ももの付け根から挿入し、カテーテルを血管内に通していくのだ。

 末梢の血管から入れるのがふさわしくない薬品や高濃度の栄養などを注入する場合に使用し、滴下速度も速くできる利点があるのだが、多少のリスクを伴う。

 特に鼡径からの中心静脈カテーテル穿刺は、股間に近いから不潔な印象をぬぐえず、感染症の危険性も懸念される。また、血管内にカテーテルを入れると、血の塊がこびりついてくる。足の太い静脈が詰まる深部静脈血栓症を起こし、この血の塊が肺まで流れてくると肺塞栓症による突然死もありうる。過去には穿刺時に誤って腹腔まで刺して腸穿孔を起こしたり、後腹膜出血で死亡する例もあった。現実に医療事故で医事紛争に発展した例も知っている。

 中心静脈ルート確保が必要な場合は、リスクを説明した上で患者家族に同意書を取ることが常識になっているほどだ。

 手術場で鼡径から中心静脈カテーテルを入れたということは、当然、カテーテル位置を確認させているはずだ。右心房に近接した下大静脈に到達したかどうかを、ポータブルレントゲン装置を使用して撮影したのだろう。

 注意して見ると、手術台も放射線過性のタイプのものを使用している。つまり、術中にもレントゲン撮影ができる状態になっているわけだ。最初から中心静脈カテーテルを入れることを念頭に置いていたらしい。

 術中の急変に備えたのだろうか……?

 垂水に近づいて尋ねた。

「中心静脈カテーテルが必須な患者なのかい?」

 垂水ははっと目を上げ、私を見た。すぐに伊藤に視線を移す。まるで、乱暴な主人の叱責に怯える仔犬のような態度だ。

 麻酔に関する事柄なのに、執刀医の許可を得なければ説明できないのか?

 伊藤が説明した。

「事前の検査で、若干の不整脈が見られた。ただでさえ、初めて行う種類の遠隔手術だ。何が起きるか分からない。万が一の場合に備えて、安全性、確実性を最優先したまでだ」

 それが主治医が決めた最終的な〝万全の体勢〟ならば、反論するべきではない。不整脈以外にも、気になる問題があるのかもしれない。

「不整脈って……手術の続行が不可能になりそうな種類のものか?」

 房室ブロック程度のものだろうか? ブルガダ症候群やQT延長症候群なら、もう少し身構えるはずだ。

「大した問題ではないがね。彼らに要求されたんだ」伊藤は観覧室の迫田をあごで示した。「絶対に準備不足だったという事態は避けろ。不測の事態をすべて予測して、万全の対応策を用意しておけ――ってな」

 観覧室にはこちらの会話が聞こえているようだ。

 迫田が私に向かって小さく会釈をした。

 警察の意向だ、というわけだ。確かに、安全対策が過剰なら態勢の不備を非難される恐れはない。そもそも、私がオブザーバーとして呼ばれたのも彼らの要求だ。

 だが、BHが希望した実験的な遠隔手術といい、警察が指示した行き過ぎた準備といい、何か普通の手術とは異質なものを感じた。単純に患者の命を救うということの他に、様々な組織の思惑が絡んでいるようだ。

 手術そのものに不必要なほど高額な資金が投入されていることも明らかだ。この病院単独で取り組めるものではない。BHにとっての宣伝効果を考えれば、何億円かけても安いものかもしれない。日本側にも、先端医療を輸出産業に育てようという産・官・学連携の目論見があるのだろう。日本とイスラエルの医療共同開発の端緒となるのかもしれない。

 だがそれなら、なぜ警察が先頭に立つのか? 事は手術台に横たわる青年の命に関わる。彼は自分が先端技術の〝実験台〟にされていることを了解しているのだろうか?

 そもそも、この患者は何者なのだろう……? 単に大使の息子だという理由で、これほど大掛かりな手術が行われるだろうか……?

 そのとき、天井から声がした。

『垂水先生、どうかなされましたか? 血圧が上昇しています。心拍数、皮膚電気反応の電位にも異常が見られますが……』

 垂水も観覧室の『戦略デスク』で身体情報をモニターされていた。体調が変化したらしい。

 垂水が応える。声がかすかに震えていた。

「大丈夫、ちょっと緊張しただけだよ。ギャラリーに見られるのは慣れてないんで……」

『分かりました。続けてください』

 私の目からは、垂水が普通だとは思えなかった。私の視線を過剰に気にしているように見えるし、額にうっすらと汗をにじませてもいる。

 センサーなどなくても、問題がありそうだと分かる。

 少なくとも、私が知っている麻酔医・垂水ではない。

「垂水君――いや、垂水先生。具合が悪いんじゃないですか?」

「いや、大丈夫ですって……」

 そう答えはしたが、かすかに手が震えているようにも感じる。アルコール依存症や緊張ということはないだろうから、原因は体調不良だ。

 私が執刀医なら、麻酔科部長に要請して主麻酔医から外してもらう。副麻酔医が応援として待機しているのだから、すぐ決断するべきだ。そのためのバックアップ体制だ。

 だが私は、要請できる立場にはない。

 私に歩み寄ってくる伊藤に目をやった。

 伊藤はつぶやくように言った。

「交代するまでの事ではないだろう。本人が大丈夫だって言ってるんだから」

「だが――」

 伊藤が私に身を寄せて声を落とす。

「垂水君の立場も考えろ。よほどの理由がないかぎり、麻酔科医の途中交代は評価が下がる。体調不良だとしても、自己管理能力が疑われる」

「患者の立場に立つべきだ」

 伊藤がかすかなため息を漏らした。

「実は今、この病院の体勢見直しが進められている。福山教授が現場を離れた隙に、アメリカ資本が入り込もうと狙ってきたらしい。TTPから一旦撤退したために、搦め手で日本市場に食い込む気だ。ガードが固い農業分野と違って、医療マーケットは目をつけられている。条件次第では、鴻翔会も取引に乗るかもしれない。言うまでもないが、日本の医療市場は評価が固まった先端分野では国産が主流だが、アスクレピオスのように突出した最先端分野ではプレイヤーにすらなれない。海外メーカーにマーケットを食われるのを恐れてばかりいると、逆に世界から取り残される。俺はここを超一流にしたいんだ。高度救命救急センターの部長クラスが必死に食らいついても、一つのヘマだけで振り落されてしまう」

「だからといって、患者は――」

「お前はいつもそうだ。少しも変わってない。大人になれ。政治が必要なんだよ、医師にだって」

 そう吐き捨てた伊藤は、ロボットの傍らに戻っていった。

 私は肩をすくめるしかなかった。

〝それ〟が嫌だから、私は患者の腫瘍を取り除く事にだけ没頭してきた。皮肉な事に、その結果トップに持ち上げられ、堕ちた。だからといって、今さら〝政治家〟になるつもりはない。

 再び垂水の傍らを見た。

 周囲には麻酔医が管理すべき装置や電子機器が集中している。全身麻酔での手術中は、麻酔や筋弛緩剤などによって呼吸を含む患者の生命維持機能の多くが低下して、機械と薬剤頼みとなる。全身麻酔とは、人工的に作り出された〝死の一歩手前〟の状態なのだ。麻酔医は必然的に生命維持全般を受け持ち、各種のセンサーの数値に目を光らせていなければならない。

 その中の一つ、ディプリフューザーに目が止まった。なぜか、違和感を感じた。

 ディプリフューザーは、プロポフォールを手術中に持続点滴するシリンジポンプだ。体重から自動計算して、目標となる血中濃度に到達し、その状態を維持するように投与速度を算出する。リアルタイムで投与速度を自動調整しながら、表示する機能も持っている。

 中枢神経抑制作用を持つ鎮静剤であるプロポフォールは、その使いやすさから全身麻酔薬としても重宝される。数十秒で意識を失うほど導入が素早く、投与を中止すれば通常一〇分程度で意識を回復する。適量を投与し続ければ、全身麻酔を維持できる。覚醒下手術に使用する麻酔薬としては常識的な薬品だ。

 だが、副作用がないわけではない。

 過剰に投与した場合は心拍数、血圧の低下を招く危険がある。呼吸抑制作用もあるので、呼吸停止を引き起こすリスクもある。〝麻薬〟として使用される事もあり、マイケル・ジャクソンの死因だとも言われる。〝ミルク〟と称したプロポフォールを過剰投与して死亡したのだと推測されていた。

 だから手術中はディプリフューザーを用いて、投与量を厳密に管理する必要があるのだ。

 プロポフォールの国内使用開始は1995年末、ディプリフューザーが普及しはじめたのは2000年頃だ。当時、私はすでに脳外科医として一線に立っていたが、麻酔医の現場が大きく変わっていくことが気になっていた。

 鍵穴手術を円滑に進めるためには、麻酔医との緻密な共同作業が欠かせない。進化する麻酔の技術と知識を深めたくて、無理を押して三ヶ月ほど麻酔科へ回った事があった。

 そして、その経験はその後の私にとっては貴重で有益な財産となった。今でも、脳外科医に必要とされる以上の知識はあるはずだ。その知識が、『何かが変だ』と告げている。

 ディプリフューザーの横のバットに目が止まった。プロポフォールの50㎖入りキットが8本も並べられている。またしても違和感を感じた。

 多すぎないか?

 麻酔導入には15㎖程度で十分なはずだ。ましてやこの患者は見たところ、特別体重が重いというわけではない。1時間あたりにしても、多くても50㎖投与すれば充分だろう。

 しかも覚醒下手術なら、すぐに意識を回復させなければならない。過剰に投与すれば、手術の進行を遅くするだけだ。

 さらに注意して見ると、プロポフォールキットの封がはがしてあるようだ。全部開封した跡がある。使用直前に封を切れば清潔を保てるのに、手術が始まってもいないのに8本全部の封を切るのは早すぎないか……?

 さらにその横に、黄色い液体が入った20㎖の注射器が準備されている。

 あれは何だろう?

 あんな黄色っぽい薬品を、麻酔中に使うだろうか?

 私の麻酔の知識はすでに最新とはいえない。同じ効果を持つ薬品でも、メーカーによって見た目が違うこともある。そのすべてを知っているわけでもない。だが、やはり気になる。

 覚醒下手術で使うのだから……セルシンか? 抗不安剤を準備するのは理解できるし、セルシンならベンゾジアゼピン系だから、いざという時には拮抗薬で効果を消せる。だが、セルシンは透明で、使用量も多くて5から10㎖だ。あんなに大量に用意する必要はない。

 では、マスキュラか? 筋弛緩剤のマスキュラックスなら、そもそも使っていないはずだし、色も透明だ。利尿剤のラシックスなら、手術の初期段階から準備する必要はないだろう。ガスターなら20㎖に溶解しているはずだが、やはり透明だ。

 黄色といえば……パントールか? しかし手術中にビタミンなど入れないだろう……。あるいは、アドナ? しかし術者が希望したわけでもないのに止血剤は使わない。まだ手術が始まってもいないのに、おかしい……。

 なんだ、あの黄色い溶液は……?

 これも、カンファレンスで合意を得た方針に沿った準備なのか……?

 だとすれば、あまり口出ししたくない。する必要もない。私が感じる違和感など、もはや時代に取り残されたドロップアウトの知ったかぶりに過ぎない。

 医師の間の政治に首を突っ込むつもりもない。

 目を逸らそうとしてディプリフューザーを見た時、違和感の原因が分かった。

 ディプリフューザーには、プロポフォールの目標血中濃度がデジタル表示されている。そのモニターの上に大きなポストイットがべったり貼られ、表示されている数値が読み取れないのだ。

 ディプリフューザーにはコンピューター補助式の投与モードがある。目標とする血中濃度をあらかじめ指定して入力すると、薬物半減期と体重、投与速度などを自動的に計算して投与速度・量が調節される『TCI機能』だ。装置に任せていれば、基本的に間違いは起きない。

 だからといって、モニターを隠す必要はない。手術中はどんな事故が発生するか分からない。経験のある麻酔医なら、取れるデータはすべて把握しているのが常識だ。

 ポストイットには細かい文字が並んでいた。おそらく、手術の進捗状況に合わせた麻酔深度などを書き込んだのだろう。だが垂水は充分な経験と実績を積んでいる。

 なぜ、わざわざメモを残す?

 病院内の政治的要素に怯えて、過剰にミスを恐れたのか?

 それにしても、モニターの上に貼るものか?

 まるで、数値を隠しているようではないか――。

 一瞬、寒気が走った。

 何かがおかしい。普通の手術の手順と、あまりに違う。私が知っている垂水とあまりに違う。

 何だ、この不安感は……?

 また、プロポフォールのキットに目をやった。よくよく見ると、色も変だ。こんなに黄色みがかっているものか? まるで、腐った〝ミルク〟だ。

 疑問をそのままにしておいてはならないという切迫感に襲われた。

 垂水は私に背を向けて、中心静脈カテーテルのルートに何かのシリンジを接続しようとしていた。

 何のための投薬だ?

 何のために、どんな薬品を投与しようとしているんだ?

 私は言った。

「垂水先生、全身麻酔の薬品を変えましたか?」

 垂水はびくっと肩を振るわせ、シリンジを持った手を止める。

「え? 普通のプロポフォールですけど……」

 私はプロポフォールを指差した。

「なんだか、黄色っぽく見えるけど」

 垂水は振り返った。だが、視線を合わせようとしない。

「ああ、それですか。メーカーによってはそんな風に見えること、あるんですよね」

「投与速度は3μg/mlくらいかな? TCI機能を使っているんですよね? 記事を書くのに、ちょっと確認しておきたくて」

「あ、そんなとこですかね。覚醒下手術ですから、投与速度とかデプリフューザーの血中濃度表示はあまりあてにしないんです。ラムゼイ鎮静スコアを意識して使ってます。患者の覚醒度、バイタルサイン、呼吸抑制といったものはマメにチェックしてますよ。投与速度を刻々と調整してかないと、呼吸が止まるリスクもありますし」

 声に、妙に緊張を感じる。なのに、説明がスムーズに出てくる。まるで、考え抜いた遅刻の言い訳をまくしたてる中学生のようだ……。

 そのとき、垂水の背後でバイラルサインをチェックしていた応援麻酔医の田辺が言った。

「ああ、まずい! 血圧76!…… 56……! 急だ! 血圧が急激に下がってます!」

 背中に冷や水をかけられたような気がした。やはりおかしい。垂水は隠れて何かをしている。

 シリンジには何が入っている?

 何をしようとしている?

 その瞬間、垂水はシリンジを押していた。中心静脈カテーテルに薬品が注ぎ込まれる。

 私は厳しい声で問いただした。

「その薬品は何だ⁉」

 垂水はシリンジを離し、後ろに飛び退いた。目に、激しい怯えが浮かんでいた。答えようとしない。

 患者に何をした⁉

 と、周辺の機器が同時に警告音を発した。

 ナースの一人が叫ぶ。

「Vfです!」

 心室細動――緊急事態だ。心臓の心室が小刻みに震えて血液が送り出せない。心臓のポンプ機能が停止した状態だ。

 スタッフが一斉に動き出す。患者の周辺にセッティングされていた機器類を移動し始める。変わって、大型の除細動器が部屋の端から運ばれる。

 だが、遅い。もっと急がなくては間に合わない! 

 周囲を囲んだロボットなどの特殊な機器が邪魔になって、素早く移動できないのだ。

 私は垂水の両肩を抑えて詰問した。

「何をした⁉ 今、何を注射した⁉」

 もはや、垂水が患者に危害を加えた事を疑わなかった。

 心停止が起きたのは、薬品を注入した直後だ。

 何を射った⁉

 まさか……殺そうとしているのか⁉

 それならカリウムか⁉

 なぜ⁉

 それは医師がやってはならないことだ。

 絶対に!

 そして、私は硬直した。

 医師がやってはならないことなのだ……絶対に……。それを、私はやってしまった……。私は〝あの時〟、この手で患者を……妻を殺したのだ……。

 医師がやってはならないことだ……。

 私の頭は真っ白になっていた。

 動けなかった。

 垂水は私を睨みつけ、手をはねのける。

 私は壁を見つめて硬直したまま動けない。ぼんやりとした頭に、アイザーの叫びが染み込んできた。

『何が起きた⁉』

 伊藤の声が応える。

「心停止だ。すぐに蘇生する!」

 頭の中にスタッフたちの声が入り交じって響き渡った。 

 ……頚動脈の脈拍触できず!

 ……モニター上、心室細動!

 ……早くしろ、早く!

 ……脈拍蝕知不能、鼠径も触れません!

 ……150で充電

 ……そこ、邪魔だ!

 ……チャージ完了です

 ……離れて!

 ……私がマッサージを!

 ……波形確認します

 ……250充電、もう一度!

 ……チャージ完了!

 ……垂水先生、血圧を上げてくれ……

 彼らを見ることはできなかった。なぜか、全く身体が動かない。だが、私のぼんやりとした意識の一部では、〝医師〟としての頭脳が勝手に働いていた。

 スタッフの声が手術台の状景を呼び起こし、患者に起こりうる危険性を瞬時に計算していた。まるで、夢の中で難解な問題を解こうともがく数学者のようではないか……。

 二度も電気ショックを与えたのか……。

 生理的な筋肉の収縮反応で、激しく身体が跳ね上がったはずだ……。

 当然、脳も揺さぶられる。頭部が三点ピンで固定されているというのに、体が跳ね上がるのは危険だ……。

 そもそもが緊急手術が必要なほど変形した脳だ。得体の知れない薬品と心停止で血圧も乱高下している。その上二度も物理的な衝撃を与えれば、どこかに致命的な症状が現れてもおかしくはない……。

『ドミノ倒し』のコースを地震が襲ったようなものだ。

 そう恐れたと同時に、私の頭には一つの言葉が浮かび上がった。

――垂水先生、血圧を上げてくれ――

 その名前に気づいて、我に返った。

 まずい! 垂水は危険だ!

 患者に触れさせてはいけない!

 振り返ると、垂水が再度シリンジを打ち込もうとしていた。さっきから気になっていた、黄色みの強い液体だ。見た目だけでは何だか分からない。

 だが、危険だ。

 確認する方法はある!

 私は、ディプリフューザーに近づいてポストイットを引きはがした。モニーターの数値を読む。

 それに気づいた垂水が息を呑む気配があった。

 30μg/ml⁉ 通常の10倍⁉ 上限の2倍だ!

 異常だ!

 プロポフォールには血圧を低下させる副作用がある。大量投与するだけで死亡する危険がある。実際、小児には使用が禁止されている麻酔薬だ。

 私はディプリフューザーを止めて、伊藤に向かって叫んだ。

「垂水は患者を殺そうとしている!」そして、再び垂水の肩を捕まえて壁際まで押した。垂水を詰問する。「何だ⁉ その注射器は何だ⁉」

 垂水は、握りしめたシリンジを背中に隠した。

 私の後ろで伊藤が叫ぶ。心臓マッサージをしながらで、息が切れ切れだ。

「どういう……ことだ⁉」

 私は、垂水を睨んだまま伊藤に答えた。

「ディプリフューザーを見ろ! 投与速度が10倍だ!」

「足立君、心マを変われ!」伊藤が助手に言った。私の横へ来てモニターを確認する。「プロポをこんなに……⁉」

 やはり色が気になる。私はもう一度垂水を詰問した。

「あれは本当にプロポフォールなのか⁉ 何か混ぜたんじゃないのか⁉」

 垂水は怯えた目で私を見つめ、口を固くつぐんで激しく首を横に振った。

 私はシリンジを握った腕を掴んで、さらに追求した。

「シリンジに何を入れた⁉ 何を投与しようとしていた⁉」

 垂水は答えない。伊藤が命じる。

「垂水君、答えたまえ! 君は何をした⁉ それは何だ⁉ なぜプロポを大量に⁉」

 垂水はいきなり叫んだ。

「脅されたんだよ! こうしなければ、俺は破滅するんだ!」

 背後で、看護師が叫んだ。

「波形確認します!」心臓マッサージが中断される気配があった。「心拍、再開、動脈ラインで血圧110、実測で100です。RR間隔整です。ST低下ありません。トロポニンTとCK―MB、CBC採血しますか⁉」

 伊藤が、私と同時に安堵の溜息を漏らした。患者は、とりあえず危機を脱したのだ。

 伊藤が振り返って指示する。

「頼む。血ガスもだ。心筋虚血の可能性は低いが、証拠を残しておきたい。それから、薬物中毒の検査をする。別の採血管にも血を取っといてくれ。分離剤なしのやつだ」

 垂水はその指示を聞き、がっくりと膝を折った。両手を床について、うめく。

「脅されたんだよ……」

 伊藤が振り返って、応援麻酔医の田辺に命じた。

「君、バイタルの安定化に全力を尽くすように」そしてスタッフ全員に指示する。「まずはMRI、すぐに各種モニタリングをチェックして――」

 スタッフが一斉に作業にかかる。

 と、天井から迫田の声がする。オペ室の騒ぎをじっと見守っていたのだ。

『患者は無事なんだな⁉』

 伊藤が観覧室を見上げてうなずく。

「緊急事態は去った。これから患者の状況を確認する。対処できる」

『ありがとう。そっちに行きたいんだが』

「オペ室だぞ! 部外者は入れない」

『そこの男、彼を殺そうとしたんだろう? 私は警官だ。すでに部下を呼んだ。彼らが着くまで、私がそこで拘束する』

 迫田は、私が垂水を追求していることを見ていたはずだ。患者の命が脅かされているのを見守りながら、今まで口を挟まなかったのは、スタッフの蘇生作業を邪魔しないためだ。

 プロの仕事はプロに任せる。状況が落ち着いたところで、自分がなすべき仕事を進める。証拠の保全もしたいだろう。各種モニターのメモリーを消去するような怪しい動きをする人間がいないかどうかもチェックしていたかもしれない。

 迫田もプロの警察官だという証しだ。

 伊藤が言った。

「垂水を外に出す」

『ダメだ。ここには私しか警官がいない。逃げられたら困る。体勢が整うまで外に出したくない』

「応援が着くまで時間はどれぐらいかかる?」

『大げさにはしたくない事情があるんだ。20分ほどでチームが集まる』

 伊藤は返事をしなかった。私は、観覧室で聞いている迫田に状況を説明するつもりで言った。

「伊藤、入れてやれよ。手術着に着替えさせればいいだろう? 心室細動に伴う血圧低下があった。脳梗塞がないことを確かめなければならない。MRIはスタンバイしているし、運動野、感覚野、視覚野の術中モニタリングも装着ずみだ。三叉神経誘発電位・聴覚脳幹誘発電位、舌咽・迷走・副神経モニタリングもしてある。ほぼすべての脳の領域の機能異常を調べられる。これだけ豪華な設備が揃っていれば、心室細動の脳への影響もすぐに判定できる」

 術中モニタリングのために用意されていた機材が、そのまま急変後の診断に使えるとは皮肉だ。だが、患者にとっては幸運以外の何物でもない。

 この患者には、〝ユダヤの神〟が味方についているのかもしれない。

「だが――」

「だが、急ぐ。垂水はプロに任せて、これ以上邪魔できないようにした方がいい。手術の延期は危険だ。脳梗塞があったとしても、非重要領域に多少起きている程度なら続行すべきだ。お前たちはそっちに集中しろ」

 巨大な腫瘍のために頭蓋内圧は高い。今のショックで脳幹が大後頭孔に向かって押し出されていく『脳幹ヘルニア』を起こしているはずだ。伊藤にそれが分からないはずはない。

 伊藤はじっと私を見て、しばらく考えてからうなずいた。

「そうだな……。頭蓋内は、手術を延期できる状況ではないからな」

 天井スピーカーからの声。

『刑事さんは今、そっちに向かいました!』

 戦略デスクスタッフからの連絡だ。

 伊藤が言った。

「彼を手術着に着替えさせる手配をしてくれ!」

『了解しました』

 伊藤は私に指示した。

「垂水はとりあえずお前が見ていてくれ。俺は準備を再開する」

「任せろ」

 伊藤は慌ただしく動き回るスタッフの間に入っていった。

 垂水は床に手をついたまま動かない。涙を流しているようだ。

 私は、垂水の手から離れたシリンジを拾い上げた。

「中身は何だ?」

 垂水はもう、抵抗しなかった。

「ニトプロ……」

 ニトロプルシドナトリウムだ。強力な血圧降下剤で、黄褐色をしている。それを、心停止から回復させるための昇圧剤に偽装して、投与しようとしていたのだ。プロポフォールが黄色みがかっていた理由が分かった。

「プロポにも混ぜたのか?」

「はい……」

「心カテに入れたのは何だ?」

「カリウム溶液……」

 私の直感は当たっていた。

 心臓手術で、心臓を止める『高カリウム心停止法』に使われる薬剤がカリウムだ。米国では、死刑の手段としても注射されている……。

 垂水は、麻酔医が管理できる各種の薬剤を組み合わせて患者を殺そうと企んだのだ。最初にプロポフォール大量投与とニトプロで血圧を降下させておく。その上で微量のカリウムを心臓直近に直接入れれば、それぞれの薬だけでは引き起こせない致死的な不整脈を誘発できる。

 各薬剤の量は、単独では致死量以下で構わない。手術中は当然、患者のバイタルは完全にモニターされている。その目を搔い潜るためにも、スタッフに不自然さを感じさせないためにも、一気に〝殺す〟わけにはいかない。

 だが、それらを短時間でも同時に投与すれば、確実に心室細動を起こせる。そして止めに、昇圧剤に見せかけたニトプロを注入しようと企んでいたのだ。

 中心静脈カテーテルルートが構築されていることも垂水にとっては有利だった。肘の皮静脈から確保された末梢静脈ルートなら、カリウムを静注しても心臓に達するまでに希釈されてしまうからだ。

 手術中は手首の橈骨動脈にカニューレ――プラスチック注射針のようなものを入れっぱなしにして、30分から60分おきに動脈から血をとって酸素分圧をチェックしている。血中カリウム濃度も計測するため、単に大量のカリウムを静注しただけでは露見する恐れがある。

 だが、中心静脈ルート経由で注射すれば全身の血液で薄まることもなく、少量でも直接心臓に到達する。そして手首の動脈に達するまでにはカリウムは薄まって、動脈血をチェックしていても証拠は残らない。 

 プロポフォールも同じだ。投与量と投与速度は麻酔科医が主に管理する。手術場の看護師はほぼ関知しないし、手術中の記録は麻酔科医以外は誰も残さないのが普通だ。体内に入ってからの半減期は30分から60分だから、死亡してから検死のために心臓血の採取をしても薬物濃度はかなり低くなる。

 ごくまれな予測不能の致死性不整脈が手術中に起きてしまった――そう判断されれば、検死自体が行なわれない。死因が明らかで、事件性がないからだ。

 医療過誤の存在も疑われないケースなので、所管警察署への異常死の届け出を速やかに行う義務もない。スタッフが蘇生に集中している間に使用済の薬剤容器を入れ替えれれば、これも証拠は残らない。

 法医学的な観点から調査されても露見することがない、麻酔医しか成し得ない殺人だ。警官の目の前で〝安全に〟行える殺人など、他には考えにくい。

 だが、なぜ?

 なぜそんなにしてまで、患者を殺したい?

 脅されたから?

 どんな理由で……?

 私は垂水の脇に手を入れ、立ち上がらせた。オペ室の奥の休憩スペースに導く。白いビニール製のソファーに垂水を座らせる。

 私は言った。

「脅されたって、誰に?」

 垂水は素直に答えた。

「分からない……いきなり非通知の電話が来たんです……声も、機械で変えてあったし……秘密をばらされたくなければ患者を殺せ、って……」

「秘密? 何だ?」

「相手は誰だか分かんないけど、何もかも知ってました……俺がプロポを横流ししてたことも、自分でも使っていたことも……」

 良くある話、ではある。

 麻酔科希望者は年々減少傾向にある。麻酔薬は劇薬指定されているものが多く、〝全身麻酔の眠り〟と〝死〟の距離は限りなく近い。そのため事故も起こり得るし、訴訟の対象にもなりやすいからだ。手術が必要だということ自体がその患者が健康ではない証拠なのだから、なおさら危険は大きい。

 なのに、麻酔はどんな手術にも必要とされる。手術では執刀医がスターで、麻酔医は脇役にすぎない。外科系の医師のミスを押し付けられたり、質の悪い執刀医なら下僕扱いする者さえいる。外科からも産科からも、夜中に頻繁に呼び出される。疲労が蓄積し、一見何もすることがない手術中は居眠りしている麻酔科医も見かける。

 全国的に手術件数は増加しているのに、麻酔科専門医の数はあまり増えていない。大学医局に所属して関連病院に勤務している常勤麻酔科医は、24時間365日ほとんど休めない。ヘルプとして召集がかかる場合に備え、休日ものんびり過ごせない。手取りも医師としては決して多くはない。麻酔医独自で独立開業しても、ペインクリニックを細々と経営するしかない。

 高度な技術を要求される心臓外科手術の麻酔ができる者の中には、大学医局を離れて一匹狼として高収入を得ている場合もある。中には一年のうちに3ヶ月間だけ毎日働き、残りの9ヶ月は趣味に費やす猛者もいる。だがそれは、ほんの一部に過ぎない。

 不公平感に嫌気がさして辞める麻酔医が続出するのも当然だし、肉体的にも精神的にも追いつめられていく。

 その結果、気持ちを解放する場を求める。

 生きるために……。

 麻薬に走る素地が整っているのだ。

 麻酔薬のほとんどは、すなわち麻薬だ。常に身近にあるし、知識もある。見つからない程度に……身体に害を及ぼさない程度に……そう思って自分に使っているうちに、歯止めが利かなくなる。女やギャンブルで金が必要になれば、横流しで大金を得ることもできる。手術中に使用量をごまかし、薬剤を溜め込むようになる。

 そうやって破滅した麻酔医を、私も何人か知っている。

 そのうちの一人は、手術場のトイレで死んでいた。

 そして、また一人……。

 横流しがばれても破滅、脅しに従っても破滅――袋小路だ。手術で人を殺せば、たとえ捕まらなくても医師は破滅する。

 私がその実例だ……。

 垂水も、そこまで追いつめられていたようだ。殺人に手を染めたということは、すでに人生を諦めていたのかもしれない。

 だが垂水以上に悪辣なのは、脅迫した者の方だ。

「相手は、本当に誰だか分からないのか?」

「分かりません……でも、たぶんこの病院の関係者……相当上の方の、お偉方だと思います。検死や書類上のことは心配しないでいい、って言っていたから……嘘、かも知れないけど……」

 また、政治なのか?

 この病院も、大手の医療法人の一部に組み込まれている系列病院の一つでしかない。関連病院の間での主導権争いや、役職を巡っての権力闘争もあるだろう。しかも今は、海外の巨大医療機器メーカーや米国の国防省まで絡んでいるようだ。

 政治は、国際化もしているわけだ。

 医療事故が起きれば、誰かが責任を取らなければならない。誰かが欠ければ、役職が動く。この手術が失敗すれば、立場が危うくなるのは真っ先に主治医の伊藤だろう。伊藤が失脚すれば、彼を支えていた上の〝誰か〟も道連れになるかもしれない。

 BHが背後にいるのだから、敵対メーカーが妨害を仕掛けることもあり得る。

 だがそのために、事故を起こさせるのか?

 患者を殺そうとまでするのか?

 そんな禁じ手まで使うのか……?

 曲がりなりにも、関わっているのは医療従事者だ。自分たちの欲のために患者の命を脅かすことなど、あってはならないはずだ……。

 それでも、現実は違う。世の中を動かすのは、やはり政治なのだ。そのために命を奪われてきた人間の数は、数えきれない。

 医学界もまた、〝戦場〟の一つに過ぎないのだろうか……。

 その時、オペ室のドアが開いた。着替えを終えた迫田が大股で入ってくる。

 ロボットの設置位置を細かく指示していた伊藤が、迫田に命じた。

「患者に近づかないでいただきたい。医療機器にも一切、手を触れないで。そっちへ」

 私たちの方を指差す。

 休憩コーナーにやってきた迫田が、改めて私に言う。

「長嶺先生、またお世話になりました。あなたがいてくれて助かりました。感謝しています。危うく、患者を殺されるところでした。失うことが許されない〝預かりもの〟ですので」

 その言葉で、患者が警察にとって極めて重要な人物だということが確認できた。

 垂水は首をうなだれたまま、迫田を見ようともしない。口も開かない。

 私は、垂水が誰かに脅迫されていたこと、そして背後で病院関係者が糸を引いているらしいことを告げた。

 確証はなくても、警察が知っておくべき情報だ。

 そして、ずっと疑問に思っていたことを問いただした。

「迫田さん、あなたは警察のどんな立場にいるのですか?」

 迫田はしばらく考えてから、小声で答えた。

「あなたには助けていただいてばかりだ。本来明かしたくはなかったんですが……それでは申し訳ないですよね。私は今、警察庁警備局外事情報部で国際テロリズムを捜査する部門――いわゆる公安警察の中の〝国テロ〟で、あるチームを指揮しています。あの患者は、我々にとって極めて重要な頭脳なのです」

〝国際テロリズム〟などという言葉は、日本では作り物っぽいアクションドラマでしか聞いたことがなかった。

 無論、現実に国テロという機関が存在するという知識は持っている。海外に出れば、テロが現実の恐怖であることは皮膚感覚として突き刺さる。日本も無縁ではないのは当然だし、備えを欠かしてはならないということも頭では理解できる。

 だがそんな物騒な組織が知らない間に身近に迫っていたことなど、考えてみたこともなかった。

「国テロ……? それじゃあ政治家の秘書を解剖したときも、テロに関係していたんですか?」

 迫田は声をさらに落とした。

「当時は別の部署にいましたが、アメリカの情報筋から、いわゆる〝暗殺〟の可能性があると警告されていました。あの秘書は、議員本人と間違われて毒殺されたのかもしれなかったのです。隣国の謀略なのか、単なる病死なのか――その判断が違えば、外交的な選択肢が変わってきます。ですが、あなたのお力添えでその恐れは否定されました。おかげで外交交渉で不必要な軋轢を生まずに済んだと、外務省から感謝されました」

 私は、即座に言葉を返すことができなかった。

 自分は、ただの落ちぶれた医師だと思っていた。だが、どん底でもがいていた数年前から、そんな大それた〝事件〟に関わっていたのだ。

 そして今、また何やらきな臭い現場に引きずり込まれてしまった。医学界の権力闘争などという〝小さな政治〟ではなく、本物の〝国際謀略〟に関わっていたのだ。

 何も知らず、知らされないうちに……。

 またも、背筋に寒気が走った。

「あの解剖にそんな意味があったんですか……」

 迫田が、スタッフに取り巻かれて数々のモニタリングを受ける患者に目を向ける。

「手術が無事に済めば良いのですが、またあなたのお力が必要になるような気がします。……いや、なに、何の裏付けもない、ただの予感ですが……」

 迫田の予感は当たって欲しくない。自分の問題さえ満足に捌けずに悶々としている私に、そんな重荷を預けられてはたまらない。

 正直、手術のオブザーバーを引き受けたことを後悔していた。

 これ以上は何も起こらないことを、ひたすら願うばかりだ。

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