ブレインサイト

岡 辰郎

1・ブレインサイト




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この作品は2016年に第6回アガサ・クリスティー賞にノミネートされたものです。当時のままの形で掲載していますので、国際情勢の表現に正確性を欠く部分がありますが、ご了承ください。


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〝医療ジャーナリスト〟と呼べば、聞こえはいい。

 だが、所詮はドロップアウトした医師だ。手術でミスを犯し、妻を殺し、一人息子から見放された、落ちぶれた〝ゴッドハンド〟……。

 アルコール依存症にもなろうというものだ。

 それでも、生きていかなければならない。すでに60歳は過ぎた。仕事にはしがみつく。生きる〝希望〟は失っていても、たった一つの〝責任〟を果たすまでは、しがみ続けるしかない。

 そんな私に居場所を与えてくれたのは、かつて私が主治医となって脳腫瘍を治療した出版界の重鎮だ。私は医師として当然の職務を果たしたに過ぎない。だが彼は、当時は困難だと言われていた脳外科手術を成功させた私に恩義を感じ、系列の出版社での職を与えてくれた。

 感謝すべきは私の方だ。

 目立った仕事ができているわけではない。やや色あせた専門知識を使って、医学的な内容について記者たちの相談に乗る。他人が書いた記事に一応目を通し、私の署名を入れて世に送る。多少のコネが使えるにしろ、報酬に見合うほどの利益を会社に与えているとは思えない。

 過去の名声を切り売りするだけの役割だ。

 だとしても、居場所は得られた。時に若い記者から頼られることもある。人間にとって、居場所があることが何よりも心の平穏をもたらすのだと、つくづく感じる。

 そんな私が最先端のオペ室に戻ったのは、単なる偶然だった。

 医学界が密かに注目する実験的な手術――『医療支援ロボットの遠隔操作による深部病変に対する脳外科手術』のオブザーバーとして、警察から呼ばれたのだ。

 確かに私は一時期、日本の脳外科医の頂点に立っていた。東京大学脳神経外科の教授といえば、誰もがなれる地位ではない。アメリカ・デューク大学の福山教授の直系の〝弟子〟だからこそ与えられた役職だ。

 福山教授は『鍵穴手術(キーホールオペレーション)』という画期的な方法を開発した脳外科の世界的権威で、〝ゴッドハンド〟の異名を欲しいままにしていた。東大を辞める直前の私も、マスコミではその〝称号〟で紹介されることが多かった。五年以上のブランクはあるが、今でも相応の知名度は残っている。

 福山教授の一番弟子であり、元東大教授――。全国7000人の脳神経外科専門医で、知らない者はいないはずだ。

 私が招かれたこの福山記念病院は、教授の業績を讃え、最高難度の脳神経外科手術を行える施設として計画された。推進したのは福山教授の下で頭蓋底外科を学び、全世界で活躍する医師たちだ。その数は軽く500人を超える。

 彼らの多くは、世界各地で教授職などのアカデミックポジションに就いている。各国の脳神経外科学会会長経験者も10人以上に上り、総合病院の院長を務める者も少なくない。福山教授の人柄を慕い、私たち門下生が発起人となって記念病院設立の寄付を募った。その計画に賛同したのが全国規模の医療法人である鴻翔会で、『札幌はくちょう病院』の広大な敷地内に〝別館〟として福山記念病院を増築することが決まった。

 本館は地域の基幹病院として高度急性期医療を扱い、高度救命救急センターと災害拠点病院の指定を受けている。全館に最新の機材とコンピュータ制御システムを取り入れ、他の病院からの見学も絶えることがない先進的な施設だ。

 鴻翔会側はさらに何歩も進んだ脳外科専門の別館を併設することで、海外からの〝顧客〟獲得を目論み、多額の資金と敷地を提供したのだ。〝医療ツーリズム〟という新たな成長市場にいち早く進出し、先駆者メリットを享受しようという野望を叶えるための投資だった。

 福山記念病院には最先端の機器をふんだんに取り入れたインテリジェント手術室『ブレインサイト』が設置され、手術後は熟練したスタッフばかりが揃えられたICUで経過観察がなされる体制が整えられた。一般病室やリハビリテーションセンターにも最高の設備が注ぎ込まれ、さらには後方支援として、回復期病棟、療養型病床、老人健康保険施設、介護付き有料老人ホーム、ケアハウス、デイサービスセンターなどの幅広い受け入れ施設も充実させている。

 脳卒中患者のうち、手術に至るのは10%前後でしかない。だが、福山記念病院では膨大な数の救急患者を受け入れることで手術数を増やし、施設の練度を着実に上げていった。手術後の通院も、手術を行った病院を希望するのが普通だ。たとえ後遺症のため何らかの施設に入所しなければならなくても、この病院の敷地内で生活できる設備を徹底して揃えた。

〝患者を囲い込むため〟に、万全の対策が組まれていたのだ。

『どのような状況の患者であっても最後まで責任を持つ』という福山教授の理想と、『最大限の利潤を追求する』という鴻翔会の戦略との接点で誕生したのがこの病院だった。

 患者の〝取りこぼし〟を徹底して防いだ鴻翔会の狙いは、驚くべき収益につながっていた。その収益を投入して進化し続けるブレインサイトの〝集客効果〟もまた、絶大だった。

 脳神経外科領域の中でも最も手術難度の高い領域――頭蓋底手術が必要な患者が全国から、いや、アジア全域から紹介されていたのだ。

 頭蓋底部は脳の底面にある〝頭蓋骨の底〟で、内頸動脈、椎骨動脈、脳神経、脳下垂体、海綿静脈洞、眼球、内耳などの重要で複雑な組織が密集している。しかも脳腫瘍や脳動脈瘤ができやすい場所だ。当然、手術には高度な設備と技術が要求される。

 設備も技術も最高峰といえるブレインサイトでの手術後の経過は、通常では考えられないほど良好で、それが世界中で評判を呼んでいた。しかも主力の脳外科医がテレビなどに出演をするたびに、紹介患者数が増えていった。結果、今では緊急を要さない手術であれば、手術まで5か月待ちという状況になっている。

 この流れが病院にさらなる収入増加をもたらしていた。頭蓋底手術そのものでの病院の収益は、一回190万円になる。だが、顕微鏡加算、腹臥位加算、時間外加算などが加わっていくと、その金額は300万円前後に跳ね上がる。

 しかもアジアの富裕層の患者には日本の保険の適用もなく、その治療費は〝極めて高額〟とだけしか知られていない。一部には日本の保険制度を悪用してタダ乗りを目論む外国人もいるが、ブレインサイトには通常の数10倍の料金でも支払うという患者が集まるのだ。

『福山記念病院』の名は、もはや全世界に知れ渡っていた。

 福山教授自身は長い間、活動の拠点をアメリカに置いて、年に数回世界中を巡って手術を行ってきた。多くの患者が自国で最高難度の手術を受けられる場を作ると同時に、後進に手術の機会を与えるためだ。しかも彼らの教育のために、教授は膨大な資金をポケットマネーから捻出してきた。現在は高齢のためにノースカロライナから出ることもできず、〝手を降ろした〟――つまり、手術を辞めたと聞いている。

 私も若い頃は教授と行動をともにして、その技術を吸収してきた。そして教授はこの病院の計画が本決まりになった時、直々に私を医院長に指名していた。

 妻を〝殺す〟前――10年も昔の話だ。

 だから、一度は今回のオブザーバーを断った。

 手術用のマイクロハサミを取るわけではないと分かっていても、そんな病院に戻るのはまだ苦痛だ。高難度手術を行うオペ室を想像しただけで心臓が軋むような気がする。それが〝私の病院〟になるはずだった場所なら、なおさらだ。

 記憶の欠片が蘇るたびに、脳がアルコールの〝救済〟を求める。だが、私を救ってくれた社長の頼みを断るわけにもいかなかった。

 警察からオブザーバーとして〝ゴッドハンド〟を派遣することを要請された出版社は、交換条件として『最先端手術のルポを発表する権利』を要求した。当初、警察は手術の公開を拒んだという。だが、機材を提供する医療機器メーカーからも『最先端の技術開発の実力を世界に知らせて広報活動に役立てたい』という圧力がかかったようだ。結局、動画は使用せずに専門医向けの文字媒体に限定して記事にすることが認められた。

 患者は、警察にとって極めて重要で、しかも公にはしたくない人物らしかった。

 現役を離れてはいても〝脳神経外科の世界的権威〟を同席させることで、万全の安全対策を取りたかったようだ。というより、手は尽くしたという〝証拠〟が必要だったのだろう。仮に後遺症が残ったとしても、言い訳ができる逃げ道を確保したわけだ。

 官僚なら当然の考え方だ。

 出版社としても、注目度が高い手術を詳細な記事にする当たって、箔をつけるための〝ネームバリュー〟がある方が望ましい。そもそも私の過去の実績がなければ、オペ室内からのルポなど許されなかったはずだ。

 オペ室には入りたくないなどという我がままが通せるほど、今の私の立場は強くない。

 最後の居場所だけは失いたくなかった。

 私は、見ているだけでいい。現代の手術システムの進化に、ただ感嘆しているだけでいい。――そう、自分に言い聞かせた。

 手技をバックアップする医療支援機器や技術はデジタル化が進み、この数年間で爆発的に進化した。脳神経外科の領域は、とりわけ進歩が著しい。多くの手術は、現在では困難なものではなくなっている。

 20年前なら〝到達困難な神の領域〟とされた場所の手術でさえ、多くはルーチン化して〝一般的な手術〟へと変貌しつつある。かつてはスイスの時計職人のような超人的な手先の器用さを求められたものだが、今では必要条件でも十分条件でもなくなってきている。もちろん、日本各地のセンター病院の脳神経外科には、名の知れた術者が存在する。頭蓋底手術だけでも通算数百例を超え、手術成績も世界に誇れる者も多い。

 そんな彼らでさえ手術不可能だという症例は、これまで福山教授や私に紹介されてきた。しかし手術を引き受けられるのは、その中の1割ほどにすぎない。私たちでも手術不可能ならば、世界中の誰もできないというのが現実だったからだ。

 それが今、一段と進化しようとしているようだ。

 患者の症状の詳細は事前には知らされなかったが、頭蓋底手術の中ではさほどリスクが高いものではないだろうと考えていた。でなければ、実験的な医療の対象にはできないはずだ。

 私は、尻込みする自分をなだめてオブザーバーになることに同意した。そんな〝心配〟など無意味だったことを、オペ室のドアが開いた瞬間に思い知らされた。顔を覆ったマスクの下で、自分の思い上がりを噛み締めて苦笑いを浮かべたほどだ。

 すべてが変わっていた。

 私が知っているオペ室とは〝空気〟がまるで違う。SF映画の中のような世界だ。

 横に細長く、広くて明るいブレインサイトは、医療情報誘導機器で埋め尽くされていた。壁も機器も白を基調とした色合いで、清潔感に溢れている。まるで、最先端手術室のショールームだ。宣伝用の画像でしか見たことのない最新機器ばかりが揃っている。

 その中で、三人のナースと技術スタッフが準備を進めている。穏やかな小声で指示を出している小太りの中年女性がナース長だろう。

 まだ、患者も主治医も来ていない。

 大きな液晶モニターが2枚、正面の壁面に埋め込まれている。手術領域の画像をリアルタイムで表示するためのものだろう。他にも術中MRI用らしい液晶が3枚、随所に麻酔機用モニター、術中ナビゲーションモニター、電気生理学モニター、脳波モニター、術中血管造影用モニターが配置されていて、液晶ディスプレイだけで20枚はありそうだ。

 スタートレックのエンタープライズ号が実現できるなら、操縦席はこんな雰囲気になるのかもしれない。

 それらの機器は、入り口を入って右側の手術スペースに集中していた。反対側の奥には、白いソファーが置かれた小さなコーナーが設けられている。

 長時間の手術に備えた休憩所だろう。脳外科手術では10時間を越える手術もまれではない。私の体験から言っても、そのような場所があると医師は助かる。

 名の知れた術者の中には、手術台での患者の頭と体の位置決めを終えると1時間程度の仮眠を取る者がいる。仮眠の間は弟子が手術を進めて準備を整え、要所に到達してから執刀を変わる。手術の前の仮眠は、体力を配分するためにも集中力を高めるためにも重要だからだ。

 さらに目を引いたのは、手術台の奥の壁に据えられた、天懸架式の巨大な術中MRIだった。

 脳外科手術では、進行するに従い髄液が排出して脳が偏位する『ブレインシフト』が起きる。術前のMRIでは、頭蓋内の構造物の位置をサブミリメーター単位で確認する。しかし、手術が進むにつれて、実際の構造物の位置が微妙に変わっていくのだ。脳腫瘍の中に重要な血管や神経が埋没している症例では、摘出していく過程でそれらを損傷させる危険が生じる。患者の脳内を解析して正しく医師を誘導するナビゲーションには、2、3ミリのずれも許されない。

 だから術中MRIが何度も必要になる。同時に、手術の進捗に従って脳の機能が損なわれていないかを逐次チェックする役目もある。一般のMRIと比べて、発生する磁場が小さいのが特徴だ。

 床には手術台の周囲に楕円形のオレンジ色のラインが記されているが、それはMRIの磁場が影響する範囲を記したものだ。その範囲内に磁力に反応する磁性体が入れば、MRIに強く引き寄せられて吸着事故につながる危険がある。だから患者の周囲で用いる金属の機器や用具は、すべて非磁性体のアルミやステンレス304などで作られている。

 ブレインサイトの中に踏み込んで、気づいた。

 入り口の右側の壁面に大きな窓があり、病院から見下ろす札幌市の風景が見えている。窓の先は廊下のはずなのに……と違和感を覚えてから、分かった。

 一段と巨大なメインディスプレイが埋め込まれていて、外のライブ画像が映されていたのだ。ディスプレイの縦は身長を超え、横幅は4メートルに達していそうだ。様々な医療誘導機器はそれぞれ専用モニターを装備しているが、それらの画像や他の映像を同時に表示して総括的に比較検討できる大画面があると聞いていた。そのディスプレイだろう。

 確かに、圧倒されるほど大きい。

 ディスプレイの近く、術中MRIの前に手術台が置かれている。手術台の傍らには、アームに取り付けられた手術用の顕微鏡がセットされていた。

 患者の脳内の術野を拡大して見るための精密機器だ。顕微鏡の本体は電子湯沸しポットほどのサイズで、両側にハンドルが出ている。本体を宙に支えるための台座から、太いオーバーヘッドアームが伸びている。台座は洗濯機ほどの大きさがある。

 全体の形状は私が使っていた当時より曲面が増えて洗練されているが、基本的な機能に大差はないだろう。液晶タッチパネルが付いているが、そこで照度、倍率、フォーカスやズームの駆動スピードなどをカスタマイズして設定できるはずだ。顕微鏡は消毒することが難しいために、大半は減菌ドレープ――透明なビニールで覆われている。

 手術中は顕微鏡が動かないよう固定されているが、術者がハンドルのボタンに触れればロックが解除され、わずかな力で細かく滑らかに動かせるようになる。手術中は顕微鏡を覗いたままでマイクロハサミを脳の深部に入れ、顕微鏡自体をミリ単位で動かさなければならない。顕微鏡にほんの1ミリ無駄な振動を与えれば、50倍の倍率なら振れ幅が5センチにも見えてしまう。操作にスムーズに追従できなければ、まるで手術中に巨大地震に見舞われるように視界が揺れるのだ。

 そこが、かつての私の〝戦場〟だ。

 頭蓋骨に開けられた直径数センチの穴を顕微鏡で覗き込み、脳内に勢力を広げる腫瘍と闘ってきたのだ。

 馴染み深い器具を見て、記憶が引き戻された。

 腫瘍ができやすい位置はある程度決まっているものの、厳密に言えば場所も形も一つとして同じものはない。だから手術には緻密な準備が欠かせない。最初にCTやMRI、脳血管造影などで脳や血管、神経などの構造物の情報を徹底的に調べる。次に過去の膨大な手術症例と引き比べて、アプローチの困難さや術中の突発的な事象について可能な限り予測する。さらに手術中にどのように自分が対処し、周囲にどんな指示を出すか、そして不備があった場合にどう対応するかまで考え尽くす――。

 それでも、イレギュラーな事態は起きる。まるで腫瘍が凶暴な意志を持ち、私に挑んでいるように思えることも多かった。

 私の武器は、コンマ数ミリ以下の単位で操作可能なマイクロハサミやバイポーラと呼ばれる電気凝固装置だ。

 バイポーラはピンセットのような形状で、先端の電極の間に足元のペダルスイッチで低電圧の電気を流す。複雑に走る血管や神経に絡み付いて勢力を広げる腫瘍を100度以下の温度で焼き固め、切り裂き、引きはがし、同時に止血するための道具だ。

 手術では緊張を強いられる。重要領域(エロクエント・エリア)の脳を損傷すれば、患者にどんな後遺症を残すか分からない。患者の機能を損なわず、可能な限り完全に腫瘍を取り除くのは、何重にもトラップが仕掛けられた時限爆弾を解体するような緊迫した作業だ。どこかで一つでもミスを犯せば、患者の人生は大きく変わる。最悪の場合は、命を奪う。しかも神経をすり減らす攻防は、おおむね数時間にも及んだ。

 だが、嫌いではなかった。手術中だけは、作業に集中して心を空にできたからだ。

 脳神経外科教授には、後進を育て、研究成果を残し、医局を運営する能力と成果が求められる。医局員たちからも、関連病院の同門会員たちからも、次々と難題が持ち込まれる。トラブルの全てを解決はできなくても、何とか〝仕事〟を転がしていく手腕が必要になる。

 ましてや東大ともなれば、関連病院へ医師を派遣し、日本の規範とならなければならない。その重圧は凄まじい。すべてをこなせる〝スーパーマン〟が必要なのだ。

 だから手術場こそが、私にとっては雑念を拭い去れる〝静謐なオアシス〟だった。

 私の人生の大部分は、脳内の腫瘍との戦いに費やされてきた。戦いに勝てば、患者の心からの笑顔がこの上ない〝報酬〟となる。『あなただからこそ、私の命が救えたのです』とまで言われることもある。患者のために力を尽くすという気持ちは、福山教授と同じだ。だから教授は、私を一番の後継者として育ててくれたのだろう。

 私がたどったのは、福山教授が切り開いた道だ。細くとも、すでに道は出来上がっていた。継承者なりの苦しみはあったが、開拓者である教授とは困難の度合いが全く違うと思っている。それでも、『創業は易く守成は難し』という諺の重みに押しつぶされそうになったことは数え切れない。

 一つの戦いに勝つと、次にはさらに困難な手術が持ち込まれる。患者の命を救うためにも、福山教授の名を汚さぬためにも、失敗は許されない。これまでは手術不可能とされてきた腫瘍と戦うために、新たな術式を編み出さなければならないこともあった。しかも、勝つたびに壁は厚く高くなっていく。

 その壁を乗り越えることは苦しみではあるが、同時に私の誇りであり、喜びでもあった。

 そうして私はいつの間にか、〝ゴッドハンド〟の称号を受け継ぐ医師になっていた。東大教授としての責任も、日に日に重くなっていった。

 戦いは、腫瘍だけが相手ではなかった。伝統という名に安住した医学界の硬直化した〝組織〟との軋轢も、引き受けなければならなかった。

 東大では、手術場の器械出し看護師は数年程度でローテーションしていた。全部の科を回り、どの科の手術の機械出しもこなせるようにするためだ。そうすることで、看護師全員で夜間や休日のオンコールに対処でき、急な病欠や忌引きもカバーできるようになる。

 だが私は、その慣例に逆らって持論を押し通した。

 脳外科の手術は、極めて高度な技術と経験を要する。機械出し看護師といえども変わりはない。だから脳外科の機械出し看護師だけは、10年から20年かけて育てる方向へ組織を改変したのだ。実際に、米国ではそれが普通だ。私はその実例と経験をもって要求を貫き、看護師の意識も高めてきた。あのまま私が教授を務めていれば、結果は手術の成功率の高さとなって現れていたはずだ。

 そうやってスタッフを育成していても、大きな突発的事象が彼らの処理能力を上回ることはある。〝ベテラン脳外科たちがお手上げの症例〟というハイリスク手術ばかり手がけていると、稀なはずの手術中のアクシデントも避けられないのだ。

 難手術ほど、当然成績は悪い。福山教授の後継者と認められれば、他の誰も手がつけられない手術が持ち込まれる。成功率は5%だと告げても、手術を受けたいと懇願する患者もいる。その手術を拒むことは、治療を受けて成功する『期待権』を奪うことになる。

 それどころか、成功率ゼロと告げてさえ、手術を受けたい、受けさせたいという者も皆無ではない。家族は、結果はどうあれ努力は尽くした、『最善の医師』にかかっても治療できなかったのだという〝証し〟が欲しいのだ。残された者たちが前を向いて生きていくためにも、〝諦め〟が必要なのだ。

 そんな手術でも受け入れる場合はある。倫理的問題を孕んではいても、医療従事者として、医学の発展のため、その選択を認めざるを得ないことがある――。

 手術しないまま放置すれば、その患者は死ぬ。しかし、私と弟子たちの手術を受けて死ぬのなら、その死は未来につながる。ひとつひとつの難手術が、私たち外科医の技術や知識を磨き、心を鍛え、成長させるからだ。それは数万件の難手術をこなした私でも変わらない。患者の死が医師を育て、その医師が別の患者たちを救命していくのだ。

 次の手術では、きっと麻痺を軽度で抑えられる――。

 次の手術では、きっと手術時間も短縮できる――。

 そう願いながら、医師は患者の死と向き合っていく。だから医師には、患者の死という重圧を乗り越える心の強さが求められる。

 そして私は、実際に乗り越えてきた。

 私は充分に強いハートを持っているはずだった。 

 あの日までは――。

 軽い吐き気を覚えた。妻の手術を思い出す時は、いつもこうだ。私に対する罰なのだろう。だが、軽い。あまりにも軽すぎる罰だ。その軽さが、10年が過ぎても私を苛んでいる……。

 顕微鏡の傍らには、初めて実物を見る装置が置かれていた。一見してSF的な印象を持ったのは、その装置のせいだ。想像していたより大きい。

 イスラエルの医療機器メーカー・BH――ブルー・ヘキサグラム社が開発した手術支援ロボット『アスクレピオス』で、2本の長いアームと3D顕微鏡の〝眼〟を持ったマシンだ。丸みを帯びた白いドラム缶を立てたような外形をしているが、その上部からアームが伸びている。汎用のオリジナルタイプではアームが4本装備されているが、脳外科用にカスタマイズされた実験機だと聞いた。術野が極端に狭く深く、しかも精密さが求められる手術に対応しているのだ。ボディの内部には基本的な手術器具が内蔵されているという。

 イスラエル以外では真っ先にこの病院に納入され、実用試験が行われているそうだ。

 本体の傍らには、人間がすっぽり入れる〝繭〟のような形のコントローラーが設置されている。実際にコントローラーは、『ポッド』と名付けられていた。医師が座って頭を突っ込んだ先には、手術が必要な領域の3D拡大映像を映すゴーグル型のディスプレイや、各種の解析画像モニター、アームをコントロールするグローブなどが配置されている。

 グローブをはめて腕や指を動かせば、その繊細な操作がアームの先端に伝わる構造だ。術野をゴーグル内に投影しながらグローブを操作すると、まるで患者の脳内に入ったような気分になるという。

 どんな医師でも、顕微鏡を使えば術野を拡大して見ることはできる。だが、医師だからといって、必ずしも器用だとは限らない。患部に届くマイクロハサミやバイポーラを操作するのは人間の腕と指だ。不器用な者が微細な脳組織に触れれば、どんな災厄を引き起こすか分からない。

 実際、熟練の脳外科医でも指先――マイクロハサミ先端部の震えが止まらない者がいる。緊張が原因ではない。幼い頃から型にはまった勉強しかせずに、指先を使う訓練が全くなされてこなかったからだ。そんな者が24歳から顕微鏡手術の訓練を初めても、ほぼ使い物にはならない。

 関東のある大病院では、脳神経外科専門医認定試験に受かって31歳を過ぎると、顕微鏡で簡単な脳動脈瘤クリッピング手術を任される。最初の2~3例で適性を判定し、そこで上級医に認められなければ一生顕微鏡手術をさせてもらえないという。

 30歳を過ぎてから適性を判別されるのは残酷ともいえるが、脳外科手術の重要性を考えれば合理的な選抜システムだ。しかも脳神経外科は、意外に〝つぶし〟が効く専門科でもある。そこで弾かれて手術はできなくなっても、初期診療なら重篤な疾患でも対処できるのだ。

 だが手術ロボットが実用化できれば現場が変わる。術者の動きを半分にしてロボットアームに伝えれば、たとえ術者の手が震えても危険な振動も半分に減る。誰でも倍の精度が実現できるようになるのだ。動きの縮小化、スケーリング機能だ。

 アスクレピオスでは、術者の動きを何分の一にするのかも指定できる。不注意による無駄な動きも、コンピュータで解析して無効化できる。ムービーカメラの手振れ補正のようなものだ。

 操作が容易になれば、手術を行える医師の数自体を増やすことが可能だ。いわば技量のかさ上げができて、知識さえしっかり持っていれば〝不器用〟な医師でも現場に送り出せるようになる。医師不足を解消する決め手になり得る。

 とはいえ、その理屈が通用するのはこれまで、比較的難易度が低い手術についてだけだった。

 従来からあったマスター・スレーブ型手術支援ロボット――たとえば米国インテュイティブ・サージカル社が開発した『ダ・ヴィンチ』は、すでに国内に数100台も導入され、腹腔鏡手術での胃ガン摘出レベルの難度であれば極めて高い効果を上げている。切開する部分も最小限にできるため、患者の負担が小さくなって術後の回復も早い。

 腹部外科でのロボット手術は、もはや珍しくはない。内臓は常に外から力が加わるために案外丈夫に出来ていて、多少乱暴に扱っても出血しにくいからだ。腹に入れた内視鏡からの視野も非常に広く、いわばカレー皿程度の術野が腹の中に広がっている。

 だが、脳は別の世界だ。

 脳は、指で軽く触れただけで出血するほど柔らかく脆い。頭蓋骨で守られているので頑丈さが必要がないし、大量の酸素とグルコースを消費するせいか血管の壁も薄い。しかも脳は、術野が狭い。ロボットの腕が何本も入って脳に触れれば、あっという間に出血して術野は血で埋まってしまうだろう。

 微細な血管や神経を巻き込んで癒着した腫瘍などを取り除くには、執刀医が患者からあらゆる情報を受け取りながら臨機応変に処置する必要がある。患部の色や形は顕微鏡の映像で確認できても、腫瘍の弾力や癒着の強度はハサミを持った指先からしか感じ取れない。その情報のすべてが、次に刃先をどう進めるかを決定する。

 だから脳神経外科という分野はロボット手術自体の研究が遅れ、まして遠隔手術は不可能だとされてきた。

 その常識に挑戦したのがブルー・ヘキサグラム社のアスクレピオスだ。

 最大の特徴は、ハサミの先の〝感触〟を術者のグローブにフィードバックできることだ。手術器具の先端が感じた抵抗、感触、拍動、弾性などが操作者の指先に繊細に伝達される『バイラテラル制御法』を実現している。皮膚が持続的に押されている感覚を得る仕組みを応用したシステムだという。

 生体内でセンサーの役割を果たすのは『表皮メルケル細胞』だ。皮膚内のこの細胞が、そっと触れたり、ゆっくりと押される機械刺激を感知し、刺激に対応する信号を求心性神経に伝える。その原理を用いて、超高精度単結晶シリコンレゾナントセンサーで圧力を検知し、数値化する。その〝感覚〟を電気信号として送り、グローブ内で〝再生〟するわけだ。

 それでも、患部とグローブの間にはいくつものセンサーと電子機器、場合によっては複数の回線が介在する。しかも、手術の器具は頻繁に持ち替えなけれなばらない。アスクレピオスは各種器具を内蔵し、操作者の指示で自動的に〝アタッチメント〟を交換できるという。

 そのような複雑な機構を備えながら、アタッチメントを通じて実際に腫瘍を切る時と同じ感覚がグローブに伝わるものなのか。おおよその感触は掴めても、微細な腫瘍の〝手触り〟までも確かめられるものなのか。マシンの精度はどこまで人の感覚に肉薄したのか……。

 実際にアスクレピオスを使ったことがない私には、判断のしようがなかった。

 この種の〝冒険〟に日本が参加する――あるいは、できることは極めて稀だ。今回の医療チームはイスラエルの施設で臨床試用の研修を充分に繰り返し、マシンも米国FDAの認可を受けた上で、病院内倫理委員会の了解を得たのだろう。危険を冒したがらない厚生労働省の承認が下りたことには軽い驚きを感じるが、最先端手術を強行できるだけの資金と権力を持つ団体がバックにいることは間違いない。

 ブレインサイト側では、熟練した脳外科医チームが術場をセットアップする。チームリーダーは、私が良く知っている――というより、知り過ぎているほどの男だ。

 だが、彼自身がポッドに入るわけではない。万一の場合に備えた、いわば〝控え選手〟だ。主治医だけは国外にいて、アスクレピオスを遠隔操作するわけだ。

 こういった実験的手術には不測の事態がつきもので、出血が制御不能になったら即座に現場の脳外科にバトンタッチし、通常の手術に切り替えなければならない。その場合、現場の脳外科医にも相当の技量が要求される。

 実際に〝ハサミを握る〟のはアイザー――アイザック・メイアだと聞かされている。

 アイザーとは、医師としての活動を辞めて以来連絡を取ったことはない。だが、ともに福山教授の下で技術を磨き合ってきた懐かしい名前だ。今はイスラエルに自分の病院を構え、腕を振るっている。光ケーブルと衛星通信回線を通じたオンラインの通信によって、イスラエルで手術顕微鏡の映像を見ながらグローブを操作するのだという。

 ポッドに入って傍らのロボットを操作できるなら、理論的には地球の裏側からでも高度な脳外科手術ができる。これまでは患者か医師のどちらかが移動しなければ不可能だった手術も実現できる。

 患者が重症で移動できないなら医師が出向くしかないが、それは時間の無駄を生む。移動の費用は医療費を高騰させ、患者の負担となって跳ね返る。移動時間がなくなれば緊急の手術にも即応できるし、手術の回数を増やすこともできる。極地や洋上、あるいは戦場のような特殊な環境でも、さらに将来は宇宙空間でさえ適切な治療が行えるだろう。

 このテストは、手術から〝空間の縛り〟を取り除く可能性を秘め、成功すれば脳神経外科のパラダイムシフトが起きる。

 病院に着いてから知らされた今回の手術の概要は、意外にも最も困難な内容だった。かつて妻が患った部位に近い、頭蓋底手術だ。ただでさえ手がかかる症状を実験対象に選んだことは先鋭的ではあるが、勝算はあるのだろう。

 確かに、取材する意味は大きい。

 看護師は淡いブルーの手術衣を着ている。様々なマシンの周囲で動き回っている臨床工学士は、無数の機器を操作するために白い防塵衣だ。

 オペ室では見慣れないユニフォームを着たスタッフは、BHの日本支社から派遣された専門エンジニアなのだろう。今回は使用しない予定のポッドや顕微鏡を邪魔にならない位置に移動し、アスクレピオスを定位置近くにセッティングしている最中だった。

 私自身はオブザーバーだとはっきり分かるように、グレーの手術着を身に付けている。

 手術予定は8時間以上――その間、部屋の反対側の休憩コーナーで彼らの仕事を見守るだけだ。ソファーに座って居眠りをしていても、誰も気付かないだろう。一応、メモ代わりにする記録用のムービーカメラを、ソファーの脇のキャビネットの上にセットした。

 カメラといっても、記者から借りてきた〝探偵グッズ〟のような製品で、見た目は携帯電話の予備バッテリーそのものだ。民生用の盗聴器などと同じ怪しげな機材だが、制約が多い取材には役立つのだという。録画時間も内蔵電源だけで二〇時間を越えるというので、手術が延びても最後まで記録できる。

 機材は怪しげだが、きちんと病院長の許可を得ているので問題はない。

 ただし、セットしたのはMRIなどの磁場の影響を受けない部屋の隅だから、手術の詳細が写せるわけではない。手術自体は病院側が詳細な動画を残すから、後で正式に要請すれば手に入れることはできるだろう。

 だが、記事を素早く書き上げなければならない担当者にとっては、複数の情報源がある方が望ましい。いくら先端医療に精通していても、その場にいなければ臨場感のある記事は書けない。まして高度に専門的な内容になれば、5、6年目の脳神経外科医でさえ何が行われているか理解できないこともある。

 このメモ映像と私の話を元に、記者がすぐさま記事を起こす手はずになっていた。私はいつものように、そこに署名を貸す。

 お飾りのような存在だが、それが今の私だ。

 医師免許を放棄したわけではない。今も知り合いから応援を求められれば患者を診ているし、単純な手術なら手がけることもある。町医者の補佐、といった役回りだ。それでも、一時は真性のアルコール中毒にまで肉薄した私にとっては、奇跡だとも言える。

 東日本大震災の直後から一年以上ボランティアとして現地に滞在したことが、どん底から這い上がるきっかけだった。

 当時、現地では医師が圧倒的に不足していた。だからといって、被災地だけに医師を集中させれば全国規模での医師不足を助長する。そもそも、医師の移動を強制する権限など誰も持ち合わせていない。

 大学病院は医師不足が極端で、人を出すのは不可能だ。徳洲会や済生会、勤医協といった全国的に有名な組織でなければ余力もなかっただろう。知識と技術を持ちながら〝遊んでいる〟私のような人間が、動かないわけにはいかなかったのだ。

 脳の奥に分け入らなければ、医療に関わることはできた。過酷な運命に打ちのめされた人々の話し相手になり、支えの一つになることはできた。必要ならば、簡単な外科手術も可能だった。

 慢性硬膜下血腫、減圧開頭術、ありふれた脳動脈瘤破裂に対してのクリッピング手術程度なら、実際に脳に触れることもできた。専門医不足のために、私がせざるを得なかったのだ。時に隠れて酒を飲みながら震える指と動揺する心を押さえ込んでいたなど、破滅的な災害時でなければ決して許されないし、知られてはならないことだ。

 熊本の震災でもおよそ1ヶ月間、避難所を巡回した。その間の仕事は主にエコノミークラス症候群の予防や感染症対策、内科的治療の処方で、実際に脳に触れることはなかった。それでも、医師としての感覚は戻りつつある。

 だが、常勤の医師に復帰することは考えられない。

 自分でも分かっている。

 問題は、あくまでも心理的なものだ。

 分かっていても、越えられない壁はある。それが人間というものだろう。

 一方で、被災地での経験が私を蘇らせつつもある。自分でも、変わり始めたことを感じる。

 だから、論文だけは書き続けてきた。脳神経外科で最もインパクトファクターの高い雑誌に第一著者で掲載されたものは、20本以上になる。だからこそ、医学専門誌に克明な記事を載せることが許された。

 それでもまだ、このブレインサイトは息苦しい。使い捨てのラテックス手袋をはめた瞬間も、そのかすかな匂いに目眩を覚えた。それは、恐怖に近い感情だ。

 だからまだ、アルコールから完全に離れることができずにいる。極度の緊張が加われば、不意に指先が震えるだすこともある。

 やはり、オペ室に近づくのはまだつらい。

 準備が整っていくにつれ、圧迫感が増していく。

 喉がジャックダニエルズを求めている。ホテルで目覚めた時は不謹慎だと思って控えたが、やはり少しは腹に放り込んでくるべきだった。

 過去の名声にすがったお飾りに過ぎなくても――いや、だからこそ、見かけの威厳だけは整えておきたい。震える指など、年下の医師には見られたくない……。

 再び、苦笑が漏れた。

 何を格好をつけている?

 脳外科手術の最先端で活躍する彼らは、時代から取り残された私になど関心はない。敬意は払うだろう。だが、それだけだ。お飾りであることを私が知っている以上に、彼らはそれを心得ている。

 これは、儀式に過ぎないのだ。飛躍的に進化した脳外科の世界は10年前とは別物だと、世代交代を宣言する儀式だ。過去の遺物である〝退場者〟は、惨めな姿をしている方がふさわしい。

 そもそも、なぜ手袋をはめた?

 私が患者に手を触れることは許されない。医療機器に近づくことすら許されていない。ただ、オブザーバーとして見守るだけだ。

 身に染み付いた習慣だけで、いつの間にか使い捨て手袋を手に取っていた。

 ただ、それだけのことなのだ……。

 アル中?

 結構じゃないか。それが今の私だ。そして、医学界が求めている〝過去の栄光〟の形だ。

 現在の進歩を、より輝かしく見せるために。

 もはや〝ゴッドハンド〟など必要はないのだと、誇示するために……。

 ため息をついて、左上に視線を向けた。入り口正面の中二階に、オペ室を見下ろせる観覧室が配置されている。その大きなガラス窓の奥に、人の動きを感じたのだ。

 濃いグレーのスーツを隙なく着た中年の男が、私を見下ろしていた。私の口はマスクで覆われていたが、何者かが分かったようだ。軽く会釈された。

 反射的に会釈を返してから、私も思い出した。

 彼は、警察庁の人間だ。名前は……たしか、迫田だったと思う。どこの部署か、どんな階級かも正確には教えられなかった。私をブレインサイトに招いたのは彼なのだと、直感した。

 迫田に会ったのは5年ほど前だ。福島から戻った後、出版社の社長を通じて、解剖の立ち会いと結果の鑑定を依頼されたのだ。

 ある政治家の秘書の死について、医学的意見を聞きたいということだった。司法解剖で一応は病死という結論が出たもの、脳神経外科の専門医に再調査して欲しいのだいう。はっきりとは口にしなかったが、その秘書は政治家を守るために殺されたのではないかという疑念があったようだ。脳内に死因と考えられる病巣があれば〝殺人〟は否定される。

 再調査は極秘だったらしく、とある私学医大の解剖室でひっそり行われた。私が鑑定医として選ばれたのも、現役を退いていて目立たない存在だったからだ。その証拠に、解剖を終えた私は迫田から『この件は絶対に口外しないように』としつこく念を押された。

 私の結論は、やはり病死だった。

 それ以後、迫田からの連絡はなかった。政治家秘書の死亡が世間の話題になることもなかった。あの事件そのものは、すでに終わったことなのだろう。私も、すっかり忘れていた。

 迫田はいったい、何者なのだろう?

 警察の人間であることは間違いない。出版社や大学が、素性の不確かな者にあそこまで協力するはずはない。だが、単なる警察幹部だとも思えない。

 正規の手順を踏んだ司法解剖を、第三者に立ち会わせて再鑑定するというのは不自然だ。警察がどうしても必要だと判断したなら、現役の解剖学教室の教授や監察医が選ばれてしかるべきだろう。しかも私大の施設を密かに使うには、それなりの人脈、権力、資金力が必要になる。何よりも、再解剖自体を〝隠そう〟とした理由が分からない。

 政界の暗部に深く関わることなのだろうか……。

 だとすれば、私などが軽々しく詮索していい事柄ではないだろう。それは一方で、迫田が極秘とされる捜査を指揮していて、しかも事実を〝隠せる〟権限を与えられていることを意味する。

 私より一回り以上若そうだが、私が感じた以上の権力を握っているのかもしれない。

 その迫田が私を呼んだとするなら、何らかの意図があるのか?

 今度の手術にも政治的な〝何か〟が絡んでいるのか?

 あるいは、この手術の患者は〝政界の大物〟なのかもしれない。

 迫田から少し離れた場所で、数人のスタッフがブレインサイトを見下ろしながら作業をしていた。観覧室の一部に設けられた『戦略デスク』だ。

 手術に関わるスタッフには各種のセンサーが取り付けられ、心電図・心拍数・血圧・体温・酸素飽和度と、さらにオペ室内の位置情報が計測されているという。全機器からラジオ中波で転送された情報は、『戦略デスク』でリアルタイム解析される。そのビッグデータはブレインサイト内での最適な行動を解析するのに使われるという。

 どれも、私が執刀していた当時とは隔世の感があるシステムだ。

 と、金属製のドアが開き、バルブが閉まる音で振り返った。

 通常、オペ室内には空気が送られ続けて、気圧は廊下よりも高めに維持されている。細菌やウイルスなどの感染源を含む廊下の外気が手術室内に入らないように、加圧しているのだ。通常は安全のために圧力を外に逃がすバルブが半開きになっているのだが、ドアが開いた瞬間はそれが閉じる。

 医師団の登場だ。

 腫瘍にハサミを入れるのはアイザーだが、それまでの準備や患者の管理はオペ室内のスタッフが行う。

 準備は多岐に渡る。各種モニタリング、ナビゲーションの設定、術中画像検査、患者の位置・体位の決定、皮膚切開、筋肉の翻転、骨切り、側頭骨ドリリング、さらに腫瘍摘出後の閉頭、術中管理――どれも経験と知識が必要とされるプロの仕事だ。

 中でもこの手術で最も難しいのは脳腫瘍が近づいてからで、腫瘍摘出とその前後の操作をアイザーがアスクレピオスで執刀することになる。

 六人の集団、看護師や臨床工学士の先頭に立っていたのは、麻酔医――垂水史人(たるみふみと)だった。

 東大時代に何度も組んで手術を行った、気心が知れた男だ。手術の進行に合わせて患者を管理する手腕は信頼できる。何よりも、私とはリズム感が同調しやすいスタッフだった。

 垂水はマスクをかけながら周囲を見渡して、準備の進行を確認しながらオペ室に入った。部屋の隅に立つ私に眼を向け、おざなりに会釈する。

 キャップとマスクで顔を覆っているので、私が何者かに気付いていない様子だ。

 私は言った。

「垂水君、久しぶりだね」

 垂水ははっと私に視線を戻して、つぶやいた。

「長嶺教授……ですか?」

「教授はやめてくれ。過去のことだ」

 垂水はマスクの下で笑顔を浮かべたようだった。私に歩み寄る。

「お久しぶりです。何年お会いしてないでしょうか……。気づかなくて済みません、記者が見学に来る、としか聞いていなかったもので……」

 語尾が曖昧に消える。

 当然だろう。かつては上司だったとはいえ、医療事故を起こして医学界から消えていった人間だ。しかも、殺したのは妻だ。身近にいた垂水はそれを知っている。何をどう話せばいいのか、咄嗟に分かろうはずもない。

「その通り、今の私はただの記者……のようなものだ。気にしないで仕事をして欲しい。ここの常勤になったのかい?」

「はい。昨年から」

 私は垂水の肩を軽く叩いた。

「素晴らしい病院に引き抜かれたね。これだけの設備とマンパワーが揃っていれば、君の実力が存分に発揮できると思う」

 薄っぺらい社交辞令だ。私も、どう対応していいか分からない。

 親しかった顔を見れば、どうしても事故当時の記憶が蘇ってしまう。できるなら、今すぐここを出て酒を飲みたい。せめて何事もなかったかのように振る舞っていなければ、互いに気まずい。

 オペ室に戻ると決めた時に、そうなることは覚悟していた。それでも、やはり胸に何かが突き刺さる。

 垂水は深々と頭を下げた。口調が改まる。

「教授――いや、長嶺さんには本当にお世話になりました。ご無沙汰しておりました。今の私があるのは、長嶺さんのおかげです。今まで御連絡も差し上げず、申し訳ありませんでした」

「構わないから、さあ、仕事を」

 垂水の背後の若い男がつぶやく。

「長嶺教授って……あの、ゴッドハンドの……?」

 垂水が振り返って説明する。

「長嶺聡、元東京大学脳神経外科教授だ。デューク大学の福山教授の一番弟子で、私の師匠の一人。手術に関しては、一番多くのことを教えていただいた」そして、私を見る。「彼は応援麻酔医の田辺です」

 私の名を聞いて、背後の看護師たちもざわつく。

 垂水に紹介された男が思い切り頭を下げて言った。動きが堅い。

「田辺茂雄です。お噂はかねがね伺っておりました。今日はご一緒できて感激です!」

 噂は、いい話だけではないはずだ。

 だが、この素直そうな男までは、真実は届いていないのかもしれない。私が起こした〝事故〟が知られていないなら、彼の幻想は壊さない方がいいだろう。

「教授だったのは、たった二年間だ。しかも、とっくにリタイヤしている。緊張することはない。私が手術するわけでもないしね。これからアイザー――いや、アイザックの手技も見られるのだから、よく勉強しなさい。高度な手術の麻酔管理を見られることは貴重な経験だろうからね」

「はい。ありがとうございます」

 垂水はまた軽く頭を下げ、手術台へ向かった。麻酔の準備に取りかかるのだ。

 田辺が後に続く。

 後ろの看護師たちも会釈をして、持ち場に散っていった。

 またドアが開き、三人の男が入ってきた。ブルーの手術衣を着ている。執刀医と助手たち――つまり、先頭に立っているのが伊藤裕之だ。

 伊藤はすぐに私を見つけて言った。

「長嶺、久しぶり。ようこそ、私のブレインサイトへ。今までどこに隠れていたんだ?」

 私が来ることをあらかじめ知らされていたのだろう。態度に驚いた様子は見えなかった。言葉には、わずかなトゲがある。どう対応するか、じっくり考えてきたようだ。

 これも覚悟していたことだ。

 私はかすかに肩をすくめて応えた。

「まあ、いろいろとね。今はこうして医学雑誌に記事を書いている」

「隠居には早すぎるだろう。〝あんなこと〟があったとはいえ」

 マウンティング、というやつだ。明らかに、私より優位にあることを誇示している。

 すでに医師として対等ではないのだから、競う必要はない。勝負は10年前についた。社会的な地位を比べれば、私はもはや地の底にいる。伊藤も分かっているはずだ。だが、確認せずにはいられない――といったところなのか。

 過去を考えれば無理もないかもしれない。私は確かに、無神経な若者だった。

 伊藤と出会ったのは、東京大学の医学部に入学した時だった。伊藤はエリートコースを脇目も振らずに直進してきた男で、同期でもトップの成績を誇っていた。父親は一代で中堅商社を築き、息子をどうしても医師にしたいという願望を隠さなかった。伊藤はそれに反感を覚えながらも、従うことしかできなかった。精神的なプレッシャーに吐き気をこらえながら、そして実際に何度も吐きながら、幼い頃から東大を目指して壁を越えてきたという。

 伊藤が珍しく泥酔し、涙を溜めながら愚痴をこぼした時に聞かされた過去だ。

 ひたすら努力してきた人間なのだ。

 私とは対照的だ。

 私の父はそこそこ名が通った医師で、脳神経外科の開業医としては草分け的な存在だ。違法ではあるが、私は中学生から手術の手伝いをさせられた。伊藤が言うには、サラブレッドだそうだ。幼い頃からやらされた習い事は、ピアノだけだった。何かを〝作る〟時は、止められたことがない。

 小学生ではプラモデルに熱中していた。特にエアブラシを駆使したリアルな塗装には自信があり、全国規模のジオラマコンテストに何度も上位入賞した。その延長で、趣味はボトルシップの制作に変わっていった。

 酒瓶の中に帆船模型を組み立てるのだ。小さな注ぎ口だけを通して瓶いっぱいの大きさの精巧な帆船模型を組み立てる――まさに、鍵穴手術に近い技量を必要とするチャレンジングでパズル的な〝遊び〟だ。

 当初はキットを使って組み立てていたが、いつしか帆船の図面を手に入れて部品を削り出すところから作らなければ気が済まなくなった。それが、高校生の頃だ。

 勉強は、なぜかさほど時間をかけずに身に付いた。東大受験の成績はボーダーラインすれすれだったらしいが、浪人はしていないのだから問題はないだろう。

 大学に入ってからはジャズ研究会に入り、インプロビゼーション――いわゆる即興演奏に目覚めた。

 それまで学んできたピアノは、譜面に従うクラシカルな物ばかりだった。違った世界を覗いてみたくて始めたジャズは、私の性格にぴったりと嵌った。

 ジャズでは、譜面から脱して他人との違いを誇示することが〝善〟であり、メンバーと楽器で〝会話〟し〝戦う〟ことを楽しむ。本能を解放する音楽だ。そもそも、譜面など存在しないことの方がはるかに多い。

 研修医時代、医局時代と、古くさいしきたりや無駄な権威主義にうんざりしていた私にとって、ジャズは自分を解放する貴重な世界だった。医学部の教授たちから見れば、さぞ不真面目でかわいくない医局員だったろう。

 伊藤は、その間も必死に努力を続けていた。トップになれなければ自分の価値はない、とでもいうように。当然〝組織〟にも馴染んでいた。

 そんな時、アメリカにテニュアド・プロフェッサー――終身在職権つきの教授として招聘された福山教授が、数人の〝門下生〟を募集した。二、三年の間、教授と行動を共にし、その技術を吸収して広める〝フクヤマ・スクール〟を作ろうとしていたのだ。

 希望者は世界中から集まり、倍率は100倍をはるかに超えたという。福山教授の出身校である東大には特別枠があり、一人が参加できた。もちろん私は手を挙げたが、東大が送り込んだのは伊藤だった。

 私は一時期ひどくふさぎ込み、東大を離れることも真剣に考えた。瓶に詰め込まれた帆船になったような憂鬱な気分が続いた。

 父の病院に逃げ込もうと考えたこともあったが、早々に次期病院長を決められ、退路を断たれてしまった。父は元々、病院を世襲することには反対だったのだ。

 転機は、福山教授が手術で来日した時に訪れた。

 伊藤から私の話を聞いていたのだろう。千葉の病院での手術に個人的に招待された。そこで、なぜかジャズの話で意気投合してしまったのだ。福山教授もジャズドラムを叩き、演奏会も開いている。手術と音楽の共通点を語り合い、日本を離れる前の夜には六本木のクラブでセッションまでさせてもらった。

 アメリカに誘われたのは翌日だ。

 私は迷わなかった。東大病院を辞職し、二日後には日本を発っていた。そしてアイザーに出会った。

 イスラエルで医学を学んだ天才は、同時に超絶技巧を誇るベーシストだった。あっという間にジャズトリオが出来上がってしまったわけだ。

 もしかしたら福山教授が欲しかったのは、〝優秀な生徒〟よりも〝気が合うピアニスト〟だったのかもしれない。

 アイザーの攻撃的なエレクトリックベースは、ジャコ・パストリアスを思わせた。ウエザーリポートのメンバーとして頭角を現したジャズマンに瓜二つだったのだ。私のピアノは、飄々としたラムゼイ・ルイスのようだと言われた。『お前のピアノは戦闘意欲をそぐ。喧嘩にならねえよ!』がアイザーの口癖だった。

 私たちと演奏する時の福山教授はいつも心から楽しそうに、父親のような笑顔を浮かべていた。

 妻と出会ったのもフクヤマ・スクールだ。彼女は、病院の窓口で事務を行っていたアルバイトの地元出身者だった。恐ろしく控えめな、アメリカ人にしては極めて珍しい女性だった。ありふれた挨拶以外には言葉を交わしたことも少ない。だが彼女は、私がどこかで演奏する時は、必ず会場の隅で控えめに、しかし穏やかな笑みを浮かべていた。

 私のピアノを愛してくれたのだ。

 だから私も、心を惹かれた。

 思い出すのは、まだつらい。

 フクヤマ・スクールは刺激的な場所だった。高度な脳外科手術に不可欠なのは深い知識と器用さだが、リズム感と思考の柔軟さも欠かせないのだと知った。私たちは、おそらくジャズのセンスを身に付けていたから選ばれたのだ。

 シカゴへ出向いた時だった。脳の中心、脳幹近くの聴神経由来の腫瘍の切除に、用意されていた器具の形がふさわしくないことがあった。執刀していた福山教授は一瞬悪態をついたが、すぐさま既存の器具の刃先を手術用ニッパーとペンチで整え、ヤスリで削り始めた。その場で器具を〝創作〟したのだ。インプロビゼーションだ。

 並の医師ならば、手術用具を納入するサプライヤーに緊急で器具を取り寄せてもらうだろう。その間は当然、手術は中断する。

 だから、それを見ていた生徒のほとんどは、伊藤も含めて青ざめた。おそらく、自分たちにはそんな発想はできない……と、打ちのめされたのだろう。眼を輝かせて身を乗り出したのは、私とアイザーだけだった。

〝できない〟ではなく、〝やっていいんだ〟ということに気付いたからだ。

 私はあのとき、雷に撃たれたように壁を破った。

 患者を救うためなら、やってはいけないことなどない。医学書に書かれた常識や過去のデータにばかり縛られる必要はない。基本が身についてさえいるなら、医師は〝権威〟から離れて構わない――殻を割ってより良い可能性を求めるべきなのだ、と。

 アイザーも全く同じ感覚を得たと言っていた。私たちは一生の友となり、同時に教授の愛弟子として選ばれた。教授の技術を次々に吸収し、爆走した。

 伊藤は優秀だったが、周回遅れの三番手だった。私には、遅れて来る人間を気遣う余裕などなかった。アイザーと競い、知識と技量を高めていく自分が楽しくて仕方なかった。福山教授が切り開いた道を押し広げ、絶望に捕われた患者を救うことだけが自分の使命だと確信していた。

 それ以後も私たちは、福山教授の自由な発想を常に見せつけられた。

 教授は全米各都市で、時間があればDIYホームセンターを見て回った。家庭用品の先の丸いフックを購入して、皮膚や側頭筋を釣り上げるのに使い、組織へのダメージを減らす方法を〝発明〟したこともある。

 医療器具の脳ベラ――術野を維持するために脳を寄せる細長い金属板は、直接当てると接着して、はがす際に脳を傷めやすい。医療用の綿やジェルのシートを当てても剥がれにくくなる場合がある。そこで教授は、汚れのこびりつきにくい調理用ヘラを購入して、脳を持ち上げるヘラとして使った。

 手術の結果を上げるためなら、医療以外の世界からも〝良いもの〟を取り込む――それが教授の柔軟な姿勢だった。

 私たちは、その自由な環境の下で〝闘える脳神経外科医〟に育てられたのだ。

 時が過ぎ、私は東大に呼び戻されて手術の回数を重ねていった。次第に、『長嶺にしか任せられない』という手術が増えていった。結果、教授の座に着くことになった。

 権威など、欲しくはなかった。本当は、手術にだけ没頭していたかった。患者を救うことだけに、専念していたかった。

 当時は二人の教授候補の勢力が拮抗していて、院内の平和を保つために〝漁父の利〟のような形で私が選ばれたのだ。それでも、私が行ってきた手術の数と内容、そして結果は彼らを圧倒的に凌駕していた。しかもそのときすでに、マスコミでの評判が広まり始めていた。

 いったん私に決まった教授選は、結果的に病院の評価を高める〝大英断〟と持て囃された。

 当然、内部からの反発は多かった。

 東大は優秀な頭脳が集まる場所だ。だからこそ〝ブランド〟であり、〝階級社会の頂点〟になっている。それが最も端的に現れるのは、官庁の中の官庁――財務省だという。

 成績上位者が集中する財務省での上下関係は、仕事の能力よりも東大法学部卒業時の席次と国家公務員Ⅰ種試験の成績で決まる。財務省内では〝東大法学部卒でなければ人にあらず〟とまで言われているそうだ。しかもトップでスタートを切った者が、そのまま生涯トップに居続けるともいう。

 官僚組織の悪しき部分で、私には変化に対応する力を失った硬直した世界だとしか思えない。だが組織の内部では、その〝規律〟が絶対的な力を発揮する。能力があれば頭角を現せる、あるいは能力がなければ這い上がれない一般企業とは本質的に違う。

 医学部であっても、それが東大の一部門であればなおさらだ。

 卒業時の成績だけを見るなら、私は伊藤の足元には及ばない。教授選の候補になど推されるはずもなかった。

 そもそも、私自身が教授職を望んだことがない。

 自分が東大では〝異端児〟であることは、私が一番知っていた。

 だから、病院内の権力闘争には関わらなかった。関わらずに済んだから、手術の腕を上げることに集中できたし、新たな手術方法を生み出すこともできた。結果的に難手術を数多くこなし、たくさんの患者から感謝された。それがマスコミの目を引き、図らずも私を東大の伝統にヒビを入れる存在に押し上げた。

 だが所詮、異端児は異端児だ。

 職務を果たすべく、できる限りの努力は惜しまなかった。成果も上がったはずだ。それでも、妻の死後は瞬く間に東大を追われた。東大を去ることは私が決めたのだが、異端児を排除しようとする勢力がここぞとばかりに〝牙を剥いてきた〟ことは否めない。

 私が辞めてから、後を引き継ぐように伊藤が教授職に付いた。成績優秀だった伊藤がその椅子に座ることで、東大病院は〝安定〟を取り戻したわけだ。しかし教授職は数年だけで、今は福山記念病院の手術全般を仕切る外科部長になっている。

 病院長ならばともかく、実質的には〝都落ち〟だとも陰口を叩かれたそうだ。

 その間の詳しい事情は、私には知る術もない。たとえ尋ねても、伊藤は明かさないだろう。

 だが伊藤には、宮の森と呼ばれる高級住宅街に2億円もの豪邸が用意されていたという。自然環境が素晴らしい札幌でこれだけの厚遇を受けられるなら、〝負け〟とはいえない。しかもこの病院で外科を統括するのは、福山教授の正当な後継者の証しだ。現場主義を貫いてきた私から見れば、病院長よりも誇りを持てる地位だ。

 私が現役だったら、自ら望んで付きたい〝居場所〟だ。正直、羨ましく――あるいは嫉ましく思う気持ちはまだ残っている。

 だから、こうして心を乱されている。

 世間では、脳神経外科のベテランは外科医の中でも特別に格が高いと思われているようだ。全員が器用で、慎重で、体力に優れ、人格者だとさえ考えているかもしれない。

 それは誤りだ。

 脳神経外科医の世界といえども、人間の集まりにすぎない。自分が上か下か、常に厳しい相互評価で成り立っている。

 最高難度の手術を何千例手がけたか――。

 米国のチャンピオンデータを上回る手術成績が残せているか――。

 通常なら10時間かかる手術を、常に3時間に縮められているか――。

 患者は自分でコツコツ外来で見つけているか――。

 関東一円から紹介されているか――。

 全国から紹介されているか――。

 世界中から手術を依頼されているか――。

 欧米の学会からライブ手術の依頼を受けたか――。

 大学教官であると同時に、〝神の手〟の称号を得ているか――。

 そんな、一つ一つの実績や評価にこだわって、お互いをランク付けしていく。実際に現役当時の私のひと言は、高度救命救急センターの脳神経外科部長1000人の意見よりも重みを持っていた。

 伊藤はフクヤマ・スクール時代から、周回遅れであることを自覚していた。だから、誰よりも努力した。確実に、努力によって到達できる頂点にいる。東大教授、そしてこの病院の技術的なリーダーになる価値は、間違いなくある。

 だが頂点を極めたということは、これ以上は進歩できないということでもある。

 この壁は大きい。

 努力すればカラオケは上達するが、誰もがマライア・キャリーになれるわけではない。真のトップに立つには、努力では破れない天性の〝何か〟が必要なのだ。

 伊藤には、それが足りない。残酷ともいえる現実だが、患者の生命はその現実に左右される。医師の技量がダイレクトに〝命の質〟に関わるのが、脳神経外科だ。

 私は、伊藤自身がその限界に苦しみ続けてきたのだと思っている。今回の手術が重要なものなら、最も高い技術を持つ医師が執刀するのが当然だ。それなのに、選ばれた執刀医はアイザーだった。

 伊藤は今でも周回遅れのようだ。

 だからマウンティングをやめられなかったのだろう。八つ当たり、ともいえようか。アイザーに執刀医の座を奪われた自分自身に苛立っているのに違いない。

 そう、お前は努力でここまで登り詰めた。

 それはお前の実力だ。

 祝ってやるよ。

 私は、地の底でおとなしく眠っているさ。

 それで、いい。私は、それで満足なのだから……。  

 私は、伊藤に言った。

「まあ、この歳になるといろんなことがあるもんさ」

 単に話を合わせただけの、無意味な返事だ。

 伊藤は肩をすくめてスタッフたちを見渡すと、軽く手を叩いて注意を集めた。

「今日、手術を見学する記者さん――元東大教授の長嶺さんだと知っているね? 東大時代の私の前任者だ。恥ずかしい手術を見せるんじゃないよ。昨日のカンファレンスから変更点はないが、患者さんが入る前に手順を再確認しておこう」

 そう言って、壁際のメインディスプレイに向かう。スタッフがその周囲に集まると、伊藤は軽く手を振りながら言った。

「メインディスプレイ、術中モード」

 とたんに外の風景が消え、画面が一面淡いグレーに変わる。

 画面の左右には小さな画像がぎっしり並んでいる。伊藤は隅にあったMRI画像を空中で掴むようにすると中央に移動し、両手で広げるジェスチャーをする。患者の脳内の画像が画面いっぱいに広がった。

 どこにも触らずに、指と腕の動きで画面をコントロールしているのだ。話には聞いていたが、実際に見ると印象がまるで違う。かつて見た映画『マイノリティ・リポート』の場面を思い出した。

 まさに、SFの世界だ。 

 原理は難しい物ではない。何年も前にマイクロソフトが作ったゲーム機、キネクトの応用だ。CCDカメラと深度センサーなどが眼の前の人物の動きや声を読み取り、それに対応する反応を起こす。身体そのものがコントローラーになるわけだ。

 ゲーム機としてなら家庭で楽しんでいる者も多いだろう。だが、こうして精度を高めて医療の現場に持ち込まれると、その意義が飛躍的に高まる。

 手術中でも、医師は何度もデータを確認しなければならない。その度に機器のタッチパネルやキーボードに触れていれば、どんなに手術用手袋を交換していても細菌やウイルスが付着する可能性が避けられない。避けるためには、そもそも触れなければいいのだ。患者は不必要な危険から守られる。

 感染症対策としては究極のシステムと言っていい。

 伊藤はMRI画像を指差して、私に言った。

「見てみろよ。とんでもない化け物が隠れていた」

 私はディスプレイに近づいた。

 まさにモンスターだった。脳のど真ん中、錐体斜台部に巨大な白い腫瘍が見えている。一目で、脳の変形が半端ではないことが分かる。

 やはり部位は、妻の症状に似ている。妻の腫瘍は、これほどまでに巨大ではなかったが。

「まさか……こんなになるまで、症状は出なかったのか? 生きていられるのが不思議だ……。この部位の巨大髄膜腫は数百例は手がけてきたが……脳幹がここまで圧排されているのは初めてだ……」

「だろう? いきなりてんかん発作を起こして精密検査をしたら、こいつが出てきたそうだ。よくよく聞けば、軽い失語症状はあったという。その程度で済んでいるのは奇跡としか言いようがない」

 何週間もかけて組み上げた、複雑な〝ドミノ倒し〟のコースのような脳だ。ちょっと強い風が吹いてどこか一カ所が倒れれば、連鎖的にダウンヒルコースをたどる。障害が脳全体に広がり、全身にも合併症が次々と現れるだろう。

 何がそれを止めているのか、私にも分からない。

 私はさらに画面に近づいて腫瘍に眼を凝らした。

「メニンジオーマ……だろうな。シュワノーマ(神経鞘腫)ではない……患者の年齢は?」

 脳萎縮がない。これは、〝政界の大物〟の脳などではあり得ない。

「20代だ。しかも脳幹との癒着が強そうだ」

 思わず、溜息が漏れた。

 メニンジオーマ――髄膜腫は良性腫瘍に分類され、脳腫瘍の中でも最も多い。症状がない小さなものなら成人の一〇〇人に二、三人はいるともいわれる〝ありふれた〟病変だ。ガン化して爆発的に増殖したり、他臓器に転移することは少ない。

 だが一方で、血管が豊富で腫瘍組織が硬い。

 特にこの患者のように、脳の中心に発生して重要な血管や神経を巻き込むと、手強い。脳幹や視床下部との癒着が強ければ、手術の難度は跳ね上がる。位置も悪い。

 側頭骨を削らねば到達できない部位なのだ。

 側頭骨は全身の骨のなかで最も固く、内部に聴神経、顔面神経、聴覚器官、平衡器官という重要構造物を含んでいる。しかも表面に目印(メルクマール)となる特徴的な構造が乏しい骨で、手術中に自分がどこを操作しているのか〝方向感覚の喪失〟を起こしやすい。骨を削るドリルの操作を熟知した医師がいなければ、安全に脳に近づくことすら困難だ。

 何よりも、腫瘍自体が巨大すぎる。症状が現れ始めた以上、次に何がいつ起きるか予断を許さない。緊急性も極めて高い。

 脳萎縮がない――つまり脳と頭蓋骨の隙間がない上に、腫瘍が脳を圧迫しているのでよけいにワーキングスペースがとれない。硬膜を開けた途端、脳の破局的突出(カタストロフィック・バルジング)――脳がトコロテンのように絞り出される事態が起きてもおかしくない。

 最盛期の福山教授でも頭を抱えそうな難物だ。インオペ――〝手術不能〟と宣言する可能性すらある。

「CTは?」

「これだ」

 伊藤は空中で腕を振って、MRI画像をずらしてCT画像を横に並べた。さらに、MRIの信号パターンを変えたT1、T2、 FLAIR(フレアー)強調画像、ガドリニウム造影後T1強調画像、CISS(シス)画像、3DCTA、そしてそれらのオーバーラップ再構成画像を並べていく。最後にSAS画像で脳の表面が立体的に映し出される。

 それぞれの画像は小さくなるが、得られる情報は格段に増える。ディスプレイ自体が大きく、撮影も液晶もフルスペック8K対応らしく、細部も驚くほど鮮明に識別できた。

 私はすべてをじっくり見比べた。

「メニンジオーマで間違いないが……放射線療法では有効性が低いどころか、悪性転化を誘発する恐れがある。化学療法はない。手術が第一選択で、重要構造物を温存するためあえて残すか……。術中迅速病理で、髄膜腫の悪性度(グレード)を見るのだろう? 悪性度が低ければ、あえて危険を冒して全摘を目指す必要はない」これほど困難な手術をなぜロボットで行うかは、聞かなかった。議論を積み重ねた結果だろうし、管理責任は病院運営者と脳外科部長にある。私に口を挟む資格はない。「……だが、今回は覚醒下手術だと聞いた。錐体斜台髄膜腫なのに、なぜ?」

 覚醒下手術の主な目的は、言語中枢の温存だ。この位置なら言語中枢とはかなり離れている。あえて覚醒下で行う意味はない。

 伊藤はもう一つの画像を出した。ファンクショナルMRIのデータだ。脳の活動に関わる血流動態反応を視覚化できる。

「これが患者の言語野だ」

 思わず口を突いた。

「嘘だろう……」

 おそらく腫瘍の圧迫で、言語中枢が本来ある場所よりも周辺に形成されている。移動しているのだ。錐体斜台髄膜腫が上方進展して、前頭側頭葉の内側付近までせりあがってきている。脳浮腫――間質組織の含水量が異常に増加して脳が腫れる状態が強く、その影響が言語中枢にまで及んでいるのだろう。

 脳浮腫の進行は、髄膜腫の成長より早い。だから、言語中枢の〝移動〟が間に合わなくて、失語症状が出たのだと考えられる。

 伊藤が頷く。

「俺は、こんな症例は経験がない」

 確かに珍しい。錐体斜台部の腫瘍が言語中枢を押しやったのを見たのは、過去一度だけだ。それも、ここまでは偏移していなかった。この症状なら、本来であれば前頭葉・頭頂葉の手術で使われる覚醒下手術を錐体斜台部髄膜腫に行うのも止むを得ない。

 だが、なおさらロボットの遠隔操作で闘える相手だとも思えない。

「アイザーなら摘出できるかもしれないが……」

 伊藤もうなずく。

「アスクレピオスが信頼できないんだろう?」

「極めて繊細で正確な手技が必要になる。しかも、腫瘍は硬いだろう。マイクロハサミや吸引管で触れて感触を確認していかなければ、腫瘍に包埋された脳底動脈を損傷するかもしれない。脳幹に近すぎるから、ミスは命に関わる。この状態では患者を移送するのは無理だし、時間もないな……。アイザーを日本に呼べなかったのか?」

「だから、俺がいる。ロボットが音を上げたら、このチームが引き継ぐ」伊藤は声を潜めた。「俺の出番が来る確率は80パーセント以上だと思っている」

 私も同意する。

「だろうな。だが、そもそもなぜロボットを介在させる? 患者のためには、最初からお前が執刀すべきじゃないか?」

「決めたのは俺じゃない。福山教授は事実上引退している。アイザーはイスラエルで順番待ちの患者を何百人も抱えている。で、BHが考えた。『ブレインサイトでは自社の最新鋭ロボットが実用試験の最中だ。遠隔操作で最も繊細で困難な脳外科手術を成功させれば、自社システムのまたとないデモンストレーションになる。世界中の病院で採用される道が広がるし、アメリカ軍を始め、世界各国の軍隊への販促にも役立つ』――とね。実際、今回の手術の資金もすべてBHが出している。ビジネス、だよ。ただ、成功の可能性がさほど高くないことも承知している。だから、大々的に宣伝して、観客の前で恥をかくことは恐れた。まずはこぢんまりと試験してみて、改良点があれば直す。運良く成功すれば、お前のネームバリューを最大限に利用して、世界中にアナウンスして打って出る。一気に勝負をかける戦略だ」

 また、小さな溜息が漏れた。私が嫌った、医学界の〝政治力学〟と〝企業利益の優先〟だ。

 この手術の陰には、巨大な医療機器メーカーの思惑が蠢いていたのだ。厚労省が折れたのも分かる。

 BHは医療だけではなく、軍事産業部門も収益の大きな柱にしている。このシステムが実用化できれば、戦場というマーケットをより広く制覇できると計算したのだろう。

 医療は、命を救うためにある。だが一方で、非常に高額なサービスだ。それによって〝儲ける〟企業があるから、医療は進歩し、新しい技術が試され、一般化していく。

 快くは感じないが、否定しようがない現実だ。

「アイザーもそれに乗った……ということか」

「あいつだって自分の病院を切り盛りする身だ。ヨーロッパ、アラブを中心に世界中から裕福な患者をかき集めている。しかもBHから資金提供を受けているし、共同開発している機材も多い。アスクレピオスの開発にもどっぷり浸かっているようだ。金づるの要望を無下に断るわけにもいくまい? 大丈夫だよ、昨日も連絡を取ったが、あいつ自身がまだロボットに全幅の信頼は置いていない。BHの手前、危険がないところまでは手術を進めるが、意図した操作が術野に伝わっていないと感じたらすぐにこっちに引き継ぐと言っている。それとも、執刀するのが俺じゃ不安か?」

 伊藤は間違いなく、日本にいる脳神経外科医ではトップの技量を持っている。だから、この病院で手術を任されている。福山教授が執刀できない今、最善の対処法だ。しかも、かつてはアイザーと腕を競った私がオブザーバーとして同席すれば、鉄壁の体勢といっていい。

 少なくとも、対外的には。

 現実的にも、他の選択肢はない。

「とんでもない。状況はよく分かった」私は、画面に目を戻してつぶやいた。「それにしても、巨大な腫瘍だな……。アプローチは小脳テント上下から錐体骨経由だとして、顔面神経と聴神経は温存できるか――」

「お前は執刀医じゃないし、ここは俺の病院だ」

 伊藤の、勝ち誇った一言だった。部外者は口を出すな、ということだ。

 だが、正しい。

 これも快くない現実の一つだ。私はメインディスプレイから身を引いた。

「すまない。もう邪魔はしない」

「そんなつもりで言ったんじゃない」伊藤は軽く肩をすくめた。「ガバナンスの問題だよ。この段階になっての新たな意見は混乱の元だしな。手術方針はカンファレンスで練り上げているから」

 私はもう、医療の最先端で医師を名乗ることはできない。記者ですらない。

 じゃあ、何なんだ?

 役立たずのアル中か?

 それでも、認めるしかない。すべては、自分が行ったことの結果だ。受け入れるしかない。

 伊藤は、それぞれのスタッフに短い指示を出して手術手順を確認した。決まり通りに物事を運ばなければ気が済まない伊藤らしい。〝指差し確認〟のような儀式だ。

 だが、その言葉は私の頭には入らなかった。入れる必要もない。言葉は、ムービーカメラが正確に記録している。

 私は、邪魔者だ。いや、邪魔にすらならない、無意味な存在だ。探偵グッズまがいのカメラにさえ劣る。

 失ったものの重さが、改めてのしかかる。

 地位や名誉ではない。伊藤に負けたという悔しさでもない。

 誇りだ。

 生きる意味だ。

 自分が戦えば誰かが助かる――かつてはそう思えたから、過酷な業務にも耐えてこられた。それが喜びだったから、生きてこられた。

 オペ室に戻るべきではなかった。

 酒が飲みたい。

 いつの間にか、床を見つめて立ち尽くしていたようだ。声が聞こえて、はっと顔を上げた。

「患者さん、入りまーす」

 開いたドアから、看護師に囲まれたストレッチャーに乗った患者が運び込まれる。

 私は壁際に身を引いて、患者の顔を見た。

 白人の男性だった。てっきり患者は日本人だと思い込んでいた私は、よほど意外そうな目をしていたのだろう。

 伊藤が言った。

「患者のこと、聞いてなかったのか? イスラエル大使の息子だそうだ。だからBHが喰いついたのさ。ほら、奥で休憩できる。長丁場になるから、ソファーでくつろいで見てろよ」

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