第10話
「岩沢さん、岩沢さん!」
信也の声で我に返った。いつの間にか眠ってしまったらしい。朝になっていた。空は曇っていて、強すぎない朝日がさしている。
どうやら、俺は夢を見ていたらしい。ひどく恐ろしく、悲しい気分だ。
「俺、何か言っていたか?」
「何も言っていませんでしたけど、すごいうなされてましたよ」
信也は、愉快そうに言った。机の上ではおにぎりが湯気を立てていた。柔らかく、暖かい朝。粉雪は止み、太陽がまぶしいばかりに輝いていた。
「気にするな。怖い夢を見ただけだ」
俺がそういうと、信也はにやっと笑って
「あなたにも怖いものがあるんですね。とんでもない怯えようでしたよ。ヒヒヒ」
と、煽ってきた。これには結構カチンときた。これは、そこらに転がっている怖いなんてもんじゃない恐怖だ。正直絶対に馬鹿にされたくない俺の逆鱗だ。
俺は無言で手を挙げた。信也が不思議そうな顔をする。俺はそのまま手を横に加速させると、信也のこめかみを手刀で打った。信也は平衡感覚がマヒしてふらつく。
「何するんですか!」
信也が抗議する前に、俺は用意されていた朝食をひっつかむと部屋から出て行った。
捨て台詞の代わりに催涙ガスをまき散らす煙玉を落とす。
催涙ガスを甘く見てはいけない。催涙ガスは目の痛みで涙が止まらなくなり、その上、皮膚にピリピリと痛みが走る。その症状が一、二時間ほど続く結構恐ろしいガスなのだ。
俺が催涙ガスから逃れるために部屋から飛び出そうとした信也の目と鼻の先でドアを勢いよく閉めるのと同時に、煙玉が爆発した。狭い空間で爆発するとエネルギーが中に充満して、とんでもない圧力でガスをまき散らす。信也のくぐもった悲鳴が響いた。
誰しも叩かれたくない過去を持っている。それをからかうとどうなるか。
触らぬ神に祟りなし。俺のポリシーだ。
俺はおにぎりを食べながら一階に下りた。階段全段飛ばしてジャンプして、大体十秒ぐらいで一階に着く。
カウンターでは黎明が、鉄製のつまようじを並べて、柔らかい布で磨いていた。
そのつまようじは、先端があり得ないぐらいに尖っていて、とてもじゃないが歯の掃除とか羊羹を食べたりに使える物じゃなかった。
「黎明さん。おはようございます」
ひとまず俺は半分ほどに量が減ったおにぎりを口に押し込むと、黎明さんに挨拶をした。
一心不乱につまようじを磨いている人に話しかけたのはこれが初めての経験だったが、喧嘩した後で少し気が動転していて、そんなことをじっくり考えて人生経験を付けようとかそういうことには思い至らなかった。
と言うことで、黎明はさっとこっちを一瞥すると、
「朝からハイテンションですね。喧嘩でもしたのでしょうか?」
と、いつも通り何考えているのかわからない口調で聞いてきた。俺の脳は十秒ほど停止した。
ハイテンションな人を見て、良い事でもあったのか?と聞く人は多い。だが、喧嘩でもしたのか?と聞く人は、世界広しといえども黎明だけだろう。
そもそも気が動転している=ハイテンションなのか?最近の言葉は難解だ。
さらに問題がもう一つある。確かに喧嘩したというのは図星なのだが、何と反応すべきなんだろう。「なんで分かったんですか!」と驚くべきなのか「いえ。違います」と否定すべきなんだろうか?「どういうことですか?」「そんなことするわけないでしょう」「そもそも私ハイテンションじゃありません」言葉が次々と集まってくる。だが俺の頭の中で舞踏会を開催している言葉たちの中に、この状況にしっくりくる言葉はない。俺の語彙力が足りないせいだろう。俺も黎明みたいにファウストを読めば語彙力がつくのだろうか?
「あ、本当に喧嘩したんですか?」
固まっている俺に痺れを切らしたのか黎明さんが声をかけてきた。質問した相手が固まったら普通、怪訝に思うか、図星だったかと思うかの二択だろう。
黎明が思ったのは後者らしい。まあ普通そうなるよな。実際正解なので、何とも言えない気分になった。ただ、喧嘩というよりは俺の一方的な蹂躙だった気がする。
喧嘩にしてはかなり一方的だった。まあやった本人までそれに気づくぐらいだ。だが、弱い方が悪い。弱くあり続けた方が悪い。それが現実だ。そして今、俺は黎明を論破できるほど己の言葉を鍛えなかった。つまり、こうなっってしまった以上、肯定しなければ後々ばれてもっと面倒くさいことになるだろう。
「そうなんですよ。喧嘩しました」
これで話は終わりだな。俺は自分の部屋に逃げようとした。今逃げたらまだ空中に待っているガスを吸って被害を受けるが、それどころではない。
だが黎明はさらに食い下がってきた。
「誰と喧嘩したんです?」
当たり前のことを聞くな。この町に喧嘩できるほどの太い関係を持っている人はいない。
「信也以外に誰かいますか?」
「なんで喧嘩したんです?」
黎明がさらに探ってきた。適当にはぐらかすか。
「言う必要ありますか?」
「気になるじゃないですか」
「客のプライバシー侵害していいんですか?」
俺がそう言うと、黎明は丁寧な口調を止めた。
「もう客じゃない。とっくに契約期間過ぎている。今君たちは、俺がやつらに襲撃されるのを待っているだけだ」
「なるほど。そういうことか」
京都に来てから四日目。三日目には帰るつもりだったから、もう一日オーバーしている。
「と言うことなのでぜひ教えてください。私、夫婦げんかの仲裁もしたことありますから力になれるかもしれませんよ」
黎明は楽しそうに身を乗り出してきた。
俺はもう隠すことをあきらめて、喧嘩の内容を洗いざらい話した。これを話すと、何故俺らが例の部隊を倒したいのかの詳細までばれるが、仕方がない。
そもそも、隠す必要性のある情報ではない。
黙って聞いていた黎明は
「それは大変ですね。でも信也さんも道場からの脱出の時に一緒にいたのなら、岩沢さんがそのことをトラウマに持っていると言うことぐらいわかりそうですけどね」
と、コメントした。確かにもし信也も俺らと同じ方向に下っていたら、そうなっていただろう。
「脱出の指揮を執っていたやつから、作戦終了後に聞いた話なんだけど、非戦闘員は別のルートから山を下ったんだ。俺らは、そいつらに敵の目が向かないようにするためのおとりとして目立つルートから山を下ったんだ」
「なるほど。いい手ですね」
と、感嘆の声をあげた。
走っているときは俺らが囮にされているなんて思いもしなかった。冷静でなくなっていて頭が回らなかった。
俺はその時、仲間を見殺しにした司令官を恨んだが全員で同じ方向に下りていたら非戦闘員を守り切れなかった。
司令官の判断は正しかったと今では思う。彼は脱出作戦の際、先陣を切って走り、最後手榴弾の爆発から後ろにいた全員をかばって死んだ。
司令官の鏡だ。と、今は思う。
黎明が
「なるほど。いい手ですね」
と、感嘆の声をあげた。俺の表情を見て何があったのかなとなく察したらし、くすみません、と言おうとしたが俺はそれを黎明が言う前に
「俺もそう思う。彼は司令官の鏡だった」
俺は短く返した。その表情を読み取ったのか黎明は最後に
「まあ、その話を信也さんにもしてあげたらどうですか?そうすれば信也さんも納得すると思いますよ」
と言ってつまようじの手入れの作業に戻った。俺は部屋に戻ることにした。
黎明のアドバイス通り、信也に話をしてみよう。
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