第三幕

第7話

 翌朝、私がエレノアに旅支度を用意してもらって、すっかり出発の準備が整っても、むかつくことにイルスは寝ていた。

 別れが気まずくて寝たふりをしているのではないかと期待して、エレノアとこっそり見に行ってみたけど、イルスは本当にぐうぐう寝ていて、通りすがりの猫が踏んでも目を覚まさなかった。

「叩いて起こす?」

 エレノアが、枕元で拳をふりあげ、やる気まんまんで私にたずねた。

「いいですよそんな」

「でも失礼しちゃうじゃない。寝てる場合かっていうの」

 エレノアの言うとおりだった。だけど起きられても、なにを話していいか分からない。さよならは、昨夜もう言ったような気がする。

「エレノアさん……」

 私は足元に置いていた、旅の荷物を抱え上げた。

「もし自分が神殿の人に火刑にされそうになったら、イルスは助けにくると思います?」

 真面目に質問した私を、エレノアは少し、わけがわからないという表情で見つめ返してきた。

「さあ……来ないんじゃない?」

「どうしてですか」

「どうして、って。なんとなくだけど。だってもう助けようがないでしょ」

 エレノアの言葉は、仮定の話にしても、あまりにもあっさりしていた。

「エレノアさんは、それで悔しくないんですか」

「なにが悔しいのよ」

「助けにきてほしくないんですか」

 私がひそめた声でせき立てると、エレノアはやっと、あーなるほどねという顔をした。

「テル、あんたね、そこまで考えるんなら、もうちょっと先まで想像してごらん。自分のせいで、イルスが死ぬかもしれないんだよ。あんたはそれで嬉しいの? あんたがイルスを好きなんだったら、そういう時にはむしろ、助けに来るな馬鹿野郎って思うんじゃないの。それが本当の愛よ」

 それは私にとって画期的な発想だった。私はあぜんとした。

 私は試しにエレノアが言うように、想像してみようとした。でも、できなかった。もし助けに来てくれたら、私はきっと嬉しい。見殺しにされたら、つらい。悔しい。それが私には、限界いっぱい。

「愛っていうのはね、男にもらうものじゃなくて、女が与えるものなの。あんたも、もうちょっと成長して、ほんものの女になれば分かるわ。その時は、どんな男もあんたにイチコロよ」

 にっこりと微笑んで、エレノアは保証するように何度も頷いてみせた。

 私が与えられる愛? そんなものがあるだろうか。

 自分になにができるかって、考えてみたことがなかった。

 私は、自分の物語が向こうからやってくるのを、ただ待っていただけだった。

 不意に、ひとすじの風が私の耳元の後れ毛をなぶって吹きすぎていった。

 部屋の中なのに?

 暖かく吹き続ける風が、私の髪だけを優しくなびかせていた。この世界にやってきた時にも、同じように風が吹いていたっけ。

 そうか。私はまた旅立つんだ。ここでの私の物語は終わろうとしている。

 甘い風の香りをかいで、私は忘れていたことを思い出した。

 私は、この物語の主人公だったのだ。

「エレノア、イルスを起こして。見せたいものがあるの。神殿の前の広場に来てって、たのんで」

 もらった荷物を足元にのこして、私は裸足のまま、部屋を駆けだした。まるで風のように。

 驚いたエレノアの声が私の名前を呼んでいたけど、私は振り返らなかった。

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