第6話

「花魁(ファラン)を待ってたのに、禿(デーデ)が来たな」

 ベッドに寝っ転がっていたイルスが、私を見て面白そうに言った。

 仰向けになっている彼のお腹の上で、あの黒猫が、いかにも満足そうに眠っている。それを撫でているイルスも、お酒を飲んでいるのか、どことなく眠そうだった。昼間着ていた夜警隊(メレドン)の制服を脱いで、質素な木綿の普段着姿になっている。そうしていると、彼はもっと、身近な存在に見えた。

「私、隣大陸(ル・ヴァ)へ行こうと思います。エレノアさんに相談したんだけど、神殿と気まずくなった人は、そうするのが一番いいんだって。それに、せっかくだから、どんなところか、行ってみたいし」

 だから船賃貸してください。私がストレートに頼むと、イルスはふっふっふと押さえた笑いでお腹をふるわせ、薄目をあけた黒猫が、にゃーんと不満げに鳴いた。

「それはいい考えだ。エレノアに追い出されたんでなければな」

「自分で決めたんです」

 私は早口に反論した。

「今月は巡礼月だ。あと数日したら、俺も族長の聖地巡礼に付き合わないといけない。俺が戻るまではここに厄介になったほうがいいが、そのあとは屋敷で匿ってやれるぞ。あとひと月ふた月、我慢できないのか」

「もう決めたんです。明日の朝には旅立ちます」

「そうか。エレノアが支度してくれるだろう。欲しいものがあったら、何でも頼め」

 不満げに張り付こうとする黒猫をベッドの下におろして、イルスは半身を起きあがらせた。彼は裸足で、岬に建っている屋敷にいる時よりずっと、自分の家にいるような顔をしていた。

「どうして私を助けてくれるんですか」

「ひと月に二度も火刑を見たくはないからな」

「そんなの、見に行かなければいいだけじゃないですか。知らん顔して、あの豪邸でのんびりしてればいいじゃないですか」

 私はどうも早口だった。なぜか腹が立って、責める口調でイルスに話しかけていた。助けてもらって、感謝しないといけないのに、それとは反対の態度をとる私を、イルスはただ苦笑しただけで見逃した。

「お前、俺の友達の子供のころにそっくりだ」

「私は子供じゃないです」

 窓辺の猫をかきわけて、イルスは窓を開いた。点々とともされた灯でほの明るい窓の外からは、弦を弾く静かな音楽が流れ込んできた。

「俺も子供の頃はそう思ったよ」

 窓辺のアルコーブに腰掛けて、イルスは夜風を楽しんでいるふうだった。横顔の輪郭が、花窓の灯りでぼんやり光っている。

「俺も十四歳のころには、何が正しくて、何がそうでないか、良く分かってた。それと分かっていて、正しい道から目をそむけるのは卑怯者だと思っていたさ。大人はみんな卑怯に見えた。だけど今はなんとなく分かる、自分もいずれはそういう一人になるってことが」

「おじさんくさい」

 吐き捨てる私を、イルスは笑って見ている。

「俺はまだ十八だぜ」

「立派におじさんです」

「そんなこと言ってると、俺の気が変わって神殿に引き渡すかもしれねえぞ」

 イルスの口調は、まるで小さい子供をからかっているみたいだった。ちょうど、街で見た、木剣をふりまわしていたハナタレ兄弟を、笑いながらあしらったみたいに。私はそれに、カッときた。なんだか胸がもやもやして、頭が熱くて、吐きそうだった。

「私が火刑になっても黙って見ているんですよね。自分が可愛いおじさんだもんね」

 腹いせに、私はイルスを傷つけようと思って、そう言った。

 癇癪を押さえている私を、イルスは困ったような顔で見つめた。

「いいや。お前が可哀想だから、火の中に飛び込んで助けるさ。そして俺の部下も、俺の家族も処刑されて、俺の部族は滅亡させられる。それでもいいよな、俺は正しいことをしたんだから」

 彼は皮肉を言っているらしかった。私が言っている事は子供のワガママだと、イルスは言いたいのだ。

「じゃあ、もし、火刑にあうのがエレノアさんでも、助けずに見ているんですよね」

 そこまで問いただす権利が私にあっただろうか。

 責めるような私の問いかけを、イルスは聞き流したように見えた。彼は黙りこんだまま微動だにせず、窓の外の音楽がいく小節もくりかえし同じメロディを奏でては流れ去った。

 私は謝罪すべきだ。言い過ぎたのだ。

 そう思い、私が言葉を選び始めた時、イルスはやっと口を開いた。

「俺の友達に、好きな女と一緒になるために世界を滅ぼそうとしている奴がいる。奴は、その女のためなら迷わず命をかけられる。奴には他に欲しいものも、惜しむものも、ひとつもないんだ。俺は奴のそういうところが哀れに思えるし、うらやましくもある。そこまで人を愛するには、わがままでなければいけないし、並はずれた強さも要る。俺にはできない。大切なものを失った後で、俺は言い訳するだろうな。仕方がなかった、俺は苦しんでいる、だから許してくれって」

 長い沈黙の間に考えただろうことを、イルスは淡々と答えた。私は要するに彼が、例えエレノアであっても見捨てると答えたのだと気付いて、驚いた。

「あなたはエレノアさんを助けると思います。だって……!」

 しかし根拠は見当たらなかった。でも私には分かる。

 言い淀む私のほうを見て、イルスは苦笑した。

「それは女の期待だ。命がけで助けなくても済むよう用心してくれ。お前も、エレノアも、他の皆もだ。そのほうがずっと簡単だからな」

 彼の言うことは、もっともだった。私はイルスが怒るどころか、ムッとした気配さえない事にがっかりした。

 どうして彼は、なんの義理もない私を神殿から匿ったり、ぶしつけな質問に真面目に悩んだりするんだろう。くだらない事を聞くなと怒って誤魔化してくれないんだろう。

 嘘をつく大人は嫌いだけど、嘘をつかない大人は困る。私は彼に、他の女なら無理でも、エレノアなら命をかけられるって言ってほしかった。だったら仕方ないなって思えるから。あの人に敵(かな)わなくても。

「赤ん坊(デーデ)はもう寝ろよ。明日には船に乗るんだろ」

 私は悲しかった。たくさん話したのに、肝心な事はなにも話していないような気がしたから。

「イルスは、あの火刑で死んだ女の子の代わりに、私を助けたの?」

 私はしょんぼりして、たずねた。胸の奥の訳の分からない怒りは、燃え尽きた花火みたいに消えていった。

「いいや」

 花窓にもたれて、イルスは正直に言った。

「お前が気に入ったからさ」

「それは私が好きだっていうこと?」

 イルスは薄く笑ったけど、今度はなにも答えなかった。

「私はイルスが好きみたい」

「そうらしいな」

 なんだ知ってたんだ。私も知らなかったのに。

「助けてくれて、ありがとう」

 それを伝えてしまうと、もう言うことがなにもない。

「テル。俺は戦ってる。いつかこの世界が、おかしい場所じゃなくなったら、戻ってこい。俺がその時も生きてたら、豪邸でのんびりさせてやる」

「その時、私のおっぱいがエレノアさんのより大きくなってたら、さっきの質問の答えを教えてくれる?」

 イルスは一瞬ぽかんとしてから、私もびっくりするような大声で笑いはじめた。イルスの側でくつろいでいた猫たちが、迷惑そうにその場を離れ、アルコーブからとんとんと飛び降りていく。あの黒猫が、恨めしそうに私をじろりとにらんでいった。

「元気でな、テル。悪い男にだまされんなよ」

 まだ笑いをこらえながら立ち上がって、イルスは通りすがりに、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でた。猫を撫でるときと、同じ手だった。

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