第5話 取り込まれた「ウクライナ」の歴史

前回はもともとあった東スラブ人の国「キーウ公国」が滅び、残った二つの国がありました。と、ここまで、まとめさせて頂きました。


ちなみに……


残った二つの小国。「ハールィチ・ヴォルィーニ公国」は今のウクライナの先祖で、「モスクワ公国」は今のロシアと言われています。


「モスクワ」は「ハールィチ・ヴォルィーニ」の分家と言われていますが「ハールィチ・ヴォルィーニ」が先に滅びてしまっているので確証がないそうです。


もし「ハールィチ・ヴォルィーニ」が滅びていなければ……(かなりナイーブな問題だな)


          ○


その後……


「ウクライナ」は


統一権力のないまま、ポーランドが統治。西側がカトリック、東側がギリシャ正教という状態になります。ユニエイト合同教会と呼ばれるカトリックとギリシャ聖教の混ぜこぜ宗教もできたとか……


その中で力を付けてきたのが「コサック」と呼ばれる力を持つ者達。没落貴族や遊牧民の盗賊など、純粋に腕っ節の強い人達の集まりのようです。


そのコサックの長は、タタール(モンゴル)と共闘してポーランドに対抗する姿勢を見せますが失敗に終わります。苦渋の選択で「モスクワ」に自治を求め協定を結びますが……


結局は「ウクライナ」はポーランドとモスクワに分割統治をされるという結果になってしまうのでした。


         ○


今の流れを「ロシア」の視点で描くと


オスマントルコが破れて「モスクワ」が大頭するようになります。もともとは小さな国だったモスクワは、15世紀に大公国にまで大きくなります。


タタールと組んでポーランドと戦っていたウクライナが、モスクワに臣従する形で自治を願い出てきます。が、「モスクワ」は「ウクライナ」の自治を認めません。


当時のウクライナをロシアの「ピョートル大帝」はいいように使い、コサック達は疲弊していきます。


そして、「ピョートル大帝」から時が過ぎ「エカチェリーナ2世」という女帝へと変わります。モスクワ大国はロシアと名乗るようになりました。


……そして、ウクライナはロシアに取り込まれていくのでした。この時のウクライナは「小ロシア」と呼ばれ、ロシアの行政区という位置づけになったそうです。


          ○


前回の繰り返しになってしまいますが……


「ロシアとウクライナは一つの国民」そのルーツを探りたい。そして、調べた結果。


〇もともとは一つのキーウ(キエフ)公国という東スラブ人の国があり、ロシアを意味するルーシと自らを名乗るバイキングが治めていた。


……さらに時は過ぎ


〇拡大したのは「ロシア」。ウクライナはそのロシアの行政区として存在した時代があり、小ロシアと呼ばれていた。


どちらのことを言っているのか?

(個人的には後者ですが……わからない)


……それとは別に、歴史を紐解くと、そこには「ウクライナ人」として、そこに住んでる人達がいたことも確かなような感じがします。どうしても民主主義の考え方になってしまうのか、陸続きにしても「住んでた人がいるなら国民主権はあるんでねぇーの」みたいな発想になってしまいました。


皆さんはどうお考えでしょうか?


          ○


次回は、みんな大好き?ナポレオン・ボナパルトによる「フランス革命」以降を話していこうと思います。

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