第4話 ウクライナとロシアの歴史

今日からコテンラジオ「【特別編 緊急収録】ウクライナとロシア」の一話と二話をまとめていきます。これらには「ウクライナとロシアの歴史」が話されていて、


プーチンさんの要求の一つにあった

「ロシアとウクライナは一つの国民」そのルーツを探る。その手掛かりがありました。


忙しい人もいると思いますので、結果から書こうと思います。結果として分かったのは二つ。


〇もともとはキーウ(キエフ)公国という東スラブ人の国があり「ロシア、ウクライナ、ベラルーシ」の先祖が、このキーウ(キエフ)公国の人々にあたるそうです。


〇キーウ(キエフ)公国が滅び、新しくできたモスクワ公国が。拡大しロシアと名乗るようになり、ウクライナはそのロシアの行政区として存在し小ロシアと呼ばれた。


コテンラジオで明確に提示されていませんが、このどちらかが「一つの国民」と位置付けるルーツになっているんではないかと思います。ニュース等を見ていると後者のような気もしますが、イマイチ自分ではハッキリと分かっていないのが現状です。


その他、どのような経緯を経てウクライナとロシアが今に至るのかをまとめたので、皆さんの知恵を借りながら、訂正を加えつつ歴史を紐解いていこうと思います。


※これより先は話が長くなる為、忙しい方は読み飛ばして頂いて大丈夫です。


          ○


時代は6世紀後半。小さな家族から始まり、キーウ(キエフ)という、東スラブ人の国ができたそうです。この人たちが「ウクライナやロシア、ベラルーシ」といった人々の先祖だと言われています。この地はハザール人やバイキングの交易路で少しづつ発展していきました。


ある日、キーウ公国のノブゴロドという地域で内紛が始まります。決着は着かず、ノブゴロドの人々は、そのとき力を持っていた自らをルーシとなのるバイキングに統治をお願いすることにしました。バイキングは力はありましたが、数ではキーウの人々が多く、バイキングはそのままキーウと同化する形で国はまとまっていきます。


キーウ公国の大きな転換点はギリシャ正教に入ったことです。これは、今のロシア正教やウクライナ正教の骨組となる宗教になります。中世ヨーロッパ(ラテン語)のカトリックやプロテスタント対して、ギリシャ正教はギリシャ語。同じキリスト教ではあるが文化がいろいろと異なるのだそうです。


その後、キーウ公国はタタール(モンゴル)に攻められて配下に入り「タタールのくびき」という自由を束縛された時代へと入っていきます。


そして、キーウ公国は消滅するのですが……全てが無くなるのではなく、小さな東スラブ人の集落は残ったの出そうです。それが「ハールィチ・ヴォルィーニ公国」と「モスクワ公国」になります。


この二つの国が「ウクライナ」と「ロシア」に変貌していくのですが、続きは次回。お付き合い頂きありがとうございました。

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