部屋

田中が消えて2年、「4階のマティーニ」が消えて1年経ったある夏の日曜日の午後、あたしは自分の部屋の台所にミキシンググラスとマティーニグラスを置いた。氷はたっぷり作ってある。ジンもベルモットも前日、酒の量販店で渡辺さんが使ってたのと同じ銘柄のものを買ってきて、冷蔵庫で瓶ごと冷やしてある。オリーブも買った。レモンも。


かつて求婚までしてくれた飲む相手もいなければ、ドライマティーニを作ってくれる人もいないが、いつまでもうなだれてばかりいられない。

氷水で冷やしたミキシンググラスに、冷えたジンとベルモットを4対1で注ぎ、かき混ぜる。それをまた氷水で冷やしたマティーニグラスに注ぐ。最後に上からレモンの霧をひとかけ。


うまい。


あの時と同じ。


と言うわけにはしかし、いかなかった。

ジンとベルモットの配分を変えたり、レモンの量を変えたりしながらいろいろ試してみたけれど、うまくいかない。渡辺さんが作ってくれたあの味にならない。あたしは度重なる実験ですっかり酔っぱらってしまった。マティーニは強い酒だ。自宅で一人酔って、この体たらく。


流れているのは涙じゃねえよ、断じて。


あたしは知らないうちにベッドに横たわって眠っていたようだったが、突然の衝撃にベッドから振り落とされて目覚めた。

電車に乗っている時に急ブレーキをかけられるとこんな感じだ。部屋を見ると、マティーニグラスがテーブルの下で割れている。


地震だろうか。


あたしは開けっ放しの窓の外に目を移した。


「地面?畑?」


あたしの部屋はマンションの3階にあるはずだ。地べたが目の前に見えるはずがない。そして、繁華街の中にあるマンションの部屋から畑なんて見えるはずがない。あたしはベランダに出て、見たことのない景色に絶句した。


「昆布!?」


その畑の中、鍬を担いだ男が私の名前を呼んでいた。


え?あれって。

髪の毛も眉毛も生えていて、髭だらけだけど間違いない。


「田中!」

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