ブランド・コーティング〈承前〉#2

 シャワーの流水を止める。排水溝に水が流れ、音は止んだ。

 湿気、天井から水の滴る微かな音。心臓が激しく脈打つ。

 今だ、聞き取れ――浴室に響くストレス性過呼吸の喘ぎ声。

 肉体の行動を俯瞰し、口から漏れる発音を五十音換算する。

 耳を澄ませ、しっかりと聞いて、音の正体を追求しろ。


 ハアッ……ハアッ……ハァ……ハァ……。


 吐き出す音は『ハッ』か、『フハッ』か、発音直前の破裂音は?

 吸い込む音は『スゥ』で、『ヘアッ』なのか?


 ハアッ……ハアッ……ウッ……ハァ……。


 本当に自分で見出した分析か、動画講座のバイアスが強い。

 ああ、やっぱりわたしには理解できない、分からない。

 繊細な『喘ぎ声』の悟性を持っていない。

 過呼吸はゆっくりと穏やかになっていく。


 ハァ……ハァ……。


 波は逃した。シャワーのハンドルを回して、湯を浴びなおす。

「ドツボに嵌まった」

 進行をリセットしようか。

 いっそずんだもんを降板させるか、失うものは惜しいけど。

 慣れてはいるが、猛猛しいぶん投げの衝動に変わりはない。


 水を止め、ボディソープで体を洗う。

 洗い流し、今度はシャンプー。

 目を閉じ、頭を洗いながら考える。

 長編小説執筆期間にも、しょっちゅう苛まれた感覚。


 突然先が見えなくなって、四〇〇字詰め原稿用紙の五〇~六〇枚を遺棄したくなる。作品完成に付き物の通過儀礼。乗り越えて素晴らしい景色が見えることもあれば、悪夢のどん詰まりに落下するだけの場合もある。


 前者は成功の歓喜。

 後者は泣き潰れたくなる己の描写限界との直面。


 今回はどっちだろうと、シャワーで洗い流す。

 右手の間にびっしりと抜け毛が絡まっていた。

 風呂を出てぶかぶかの服に着替え、ドライヤーで髪を乾かす。

 その日の夜は、到底眠れそうになかった。

 

 断りを入れて座敷を借り、座布団を出して正座する。

 パソコンを座卓に置いて、動画の再生数を確認した。


 全動画平均で一三八二再生に六四件のコメント、一三二件のいいねと四件のマイリスト登録。

「減ってるし」

 固定ファンも気まぐれに去って、増加どころか絶賛低迷中。

 散歩中に分泌したアドレナリン、睡魔が襲ってくれない夜。


 気分が悪く、眼が冴えて、何よりも眠い。

 過呼吸部に参戦したとして、どれだけの人が注視してくれるだろうか。

 もっと力が要る、悪戯にでも注視させるだけの力が――。

 参考資料を求め、ニコニコ動画の検索ボックスに『劇場』と入力。

 エンターキーを押す。検索結果は『人気の高い順』に表示された。


 ボイスロイド/ボイスボックス/チェビオの動画が並ぶ中をスクロールする。

 キャラクターイラストのサムネイルが陳列する中、異物は一際目立っていた。

 田舎の背景に実写の男性と、隣に二本の棒。

 光源の違和感から察するに、合成写真で間違いないだろう。

 

 男性は額から上が、雑に途切れている。 

 まず疑問が沸いた、なぜ合成写真がここにある?

 キャラクターイラストの下に背景を敷いたボイスロイド動画のワンカットも、合成写真のようなものではあるのだが……実写とイラストでは、また話が違うだろう。

 タイトルには『BBホラー先輩劇場「オシラサマの祟り」』とあった。


 マウスカーソルを動かし、動画をクリックして再生する。

 五秒待って詐欺広告をスキップすると、本編が始まった。

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