ブランド・コーティング〈承前〉#1

 冷蔵庫から出した麦茶のポットと、グラスコップ二つをテーブルに置いて、千夏は浴室に去っていった。


 わたしはパソコンを起動して動画制作を開始する。

 十二作目の小説の主人公は、過呼吸症候群を患った少女だ。

 校舎の背景を敷き、中央にずんだもんの立ち絵を配置し、本文を入力。

 ボイスボックスにも地の文、及び彼女の台詞を打ち込んで調声、再生。


 アンッ……アンッ……。


 今回のシリーズは、台詞以上に過呼吸の調声が重要となった。


 わざわざ音声読み上げソフトを起用してまで、聞き取り辛い喘ぎ声を生成するのは、なんとも奇妙な話なのだが……。ずんだもんは過呼吸から来る喘ぎ声擦れ声に高い需要が認められており、『ずんだもん過呼吸部』『ずん虐』なるタグの下で連日活発な投稿が行われている。ちなみに、過呼吸文化発祥の聖地は明確化されており、ニコニコ動画にアップロードされた『些細なことで不穏になるずんだもんvs東北きりたんii』が全ての発端に当たるようだ。


 ンハァ……ハァフッ……。


 配役で掘り出せる金脈があるのなら、発掘しない手はあるまい。

 ずんだもんブランドによる大まかな集客能力。

 過呼吸部タグによる、小さく絞った集客能力。


 動画のマーケティング対象を(全体からして)ニッチな方面にも向けられれば、該当界隈の視聴者は供給を求めて無遠慮に喰らいついてくれる。つまり、過呼吸症候群少女の配役をずんだもんに割り当てれば、相乗効果でより多くの再生回数を見込めるようになるのだ。適役じゃないか。


 アフッ……アフッ……。


 しかしそのためには、変態どもの耳を傾けさせる過呼吸が必要。

 中途半端な喘ぎ声では、到底ソムリエの方々にご満足頂けない。

 底の浅さを露呈せぬよう、喘ぎの調声は細心の注意を払わねば。


 過呼吸研究界隈でもトップクラスの動画講座『ずんだもんに過呼吸させよう!【VOICEVOX解説】』を参考に、台詞直前で『ッハアッ』を書き加え、長さタブでは母音を短く切る。『ハア』部分は『アッ』『ヒア』『ヘエ』『ハウ』『ヒエア』など、その他の呼吸音をテキストに書き起こしたものに変更し、複数のバリエーションを確保。イントネーションの上げ下げで調声のトライ&エラーを繰り返し、媚びた喘ぎ声の実現に邁進する。


 フアンッ……ヘエッ……。


 風呂上がり、新しい服に着替えた千夏がリビングに戻ってくると、美少女キャラクターの稚拙で微妙な喘ぎ声が部屋を埋めていた。


 アハンッ……アフンッ……。


「セックスの資料?」千夏が背後からパソコンを覗く。「にしては映像の色気がない」

「資料どころか、本番かもね。音声読み上げソフトで過呼吸の喘ぎ声を作ってる」

「奇妙なことを」


 アヘエッ……アフエッ……。


「読み上げだけが求められる時代じゃなくなったんだ」

「動画に必要なの?」千夏は困惑しているようだ。

「使わないのに、こんなことはしない。売り込みの一環」


 ハフアッ……フハアッ……。


「大変だね。そんなことまでするんだ」

「小説、全然書けてないなぁ」溜息をつく。「文字の弱さを痛感する日々だ」

「わたしは、文字の強さを実感できてるよ」


 ンヘエッ……ヘエンッ……。


「立派な表紙絵にブックデザイン、映像広告の演出とナレーション。諸々の要素を連結させる宣伝が味方だもの」

「宣伝されてもコケる作家は大勢」

「本を取るきっかけに内容が伴わなかったから」


 フヒアッ……アヒアッ……。


「きっかけと内容が合わされば、シナジーが世界だって動かせる強力無比な物語になる。でも、文字だけじゃどうしたって無力でしかない」

 千夏はわたしの横顔を心配そうに見る。


 ハアンッ……アアンッ……。


「不思議だなぁ」わたしは千夏と顔を合わせる。「掛け合わせると主体なのに、単体だと見向きもされない。振り向かせる力が欲しいよ」

「……シャワー浴びて、汗落としてきな」


 アンアンアンアンッ……アンアンアンアンッ……。


 勧められるがままに浴室へ向かい、脱衣してシャワーを浴びる。

 浴室に満ちる白い湯気。熱い湯は肌から汗の粘り気を落とした。

 不可視の汚れも排水溝に流れていけ。


 変な声をさんざん聞いた後だが、別に興奮して股間が濡れてるとか、そういうのはない。喘ぎ声の調整はツール本来の仕様を逸脱したバグ技に近く、界隈の敬愛すべき変態共さえ何百回と試行を重ねる。五百回、七百回もの試行錯誤、果ては自身の声帯で過呼吸発声の研究を続けた結果、体調を崩す猛者もいる。恐らくだ、わたしはそこまで過呼吸に拘ることはできない。


 本気で過呼吸を追求しているのではなく、所詮はビジネスレベル過呼吸の追求に過ぎないから。そんなわたしが、本気でソムリエを唸らせるだけの過呼吸を調声できるとでも。無理に決まっている、競争相手は熟練だ。


 気が付けば、私自身が過呼吸を発していた。

 わたしがしても需要ないのに、いいや待て。

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