ブランド・コーティング#3
すると千夏は握った手を強引に引き、体を手繰り寄せて背中に背負った。
体格差もあるだろうが、ここまで軽々持ち上げられるとは。
そのまま前傾姿勢で力強く地面を蹴って走り、守竹を置き去りにする。
涼風切って髪を揺らし、背中越しに伝わる体温。
落下しそうになって、遠慮がちに抱きつきバランスを取る。
背後から足音が迫った、息も切れ切れに追ってきた守竹だ。
「来てるよッ」千夏に囁く。
千夏は頷いて速度を上げ、前方の老人を左に避けた。
青信号の横断歩道を渡り、遅れた守竹を赤信号で置き去りに。
加速して、緩やかなカーブを長々と曲がっていく。
千夏の呼吸も、流石に乱れてきた。
距離を作って、階段から住宅地に降りる。
降ろされたわたしは、千夏の呼吸が整うのを待とうとした。
千夏はすかさず左手で丸印を作り、堤防を離れるよう促す。
「……もっと、もっと撒くッ」そう有無を言わさぬ気迫で告げられる。
入り組んだ住宅地の網目をぐるぐると回った。
じきに千夏も呼吸を落ち着けて、わたしは気になったことを訊く。
「よくそんなに走れるね」
「作家は体力使うから」
瓦屋根の下を通り、狭い路地の階段を降りる。
「そういう問題?」
「千冬の家にだって走って行ってたじゃん」
脇道に逸れ煉瓦造りの川灯台を目印に、迂回しながら大通りへ行く。
「駅からでしょ」
「家からだよ」
夕暮れが訪れて、じきに暗くなり、道沿いの石灯篭に電気が灯った。
疎らな人混みに追手の姿は見当たらず、昭和の趣を残す商店街には穏やかな時間が流れている。
「てゆーか、ここどこ」
「どっかの下町」
「そりゃ分かるけど」
携帯端末のナビゲーションアプリを起動し、現在地から千夏宅までの道筋を検索する。徒歩で五十八分、四六〇〇メートルの距離だ。
端末を覗くわたしたちは同時に異なる感想を述べる。
「あれ、意外と遠い」とはわたし。
「あれ、意外と近い」とは千夏。
顔を見合わせて、笑った。
団子屋で買ったずんだ豆腐団子を齧り、未開の帰路を冒険する。
「ずんだの豆腐で作った団子?」
「豆腐の団子にずんだの餡子?」
無論、冒険と言ってもコンパスは万能の携帯端末。
「どっちなのさ」
「さあ」
問答と咀嚼を繰り返して、良く知った空気感の漂う道に出た。
気楽なものだ、るんるん。
一抹の不安はあるけれど。
「家の前で待ち伏せされてないかな」わたしは心配する。
「その時は、機材を家から持ち出して逆取材だ」千夏は肝が据わっていた。「遺品発掘中に出てきた古いヘルプマークをひけらかして、ASDかADHDを装い質問攻めにしよう」
「なんで発達障害?」
「後で叩かれてもポリコレ・シールドを展開できる」
「最低、悪知恵ついたね」わたしは顔をしかめる。
「つけたくなかった」千夏は顔を落とした。
「千夏……」
「ま、心配いらないよ」千夏は顔を上げた。「家の前には誰もいない」
千夏は確信を持って断言した。
いよいよ見慣れた道に着いて、暫く歩けば千夏の家が見えてきた。
家の前に予想した人気は無く、虫の鳴き声ばかりが響く静寂。
「――トラックには轢かれたくないから、さ」千夏は底冷えした声で言う。
簡明な理由に繋ぐべき言葉を見失う。
裏腹に、千夏はけろりとした表情に戻って続けた。
「今日はもう遅いし、歩き回って疲れただろうから。泊まっていきな」
リビングに通されたわたしは、ロングソファに腰を落ち着け休憩する。
千夏もわたしの右隣に座って、テレビの電源を入れた。
夜のニュースはLBGT団体の『東響にじいろプライド』に所属する守竹彰吾という男性が、赤信号の横断歩道に飛び出し、乗用車にはねられ全身強打の末に搬送先で死亡した事故を報じていた。
淡々とした読み上げは規則正しく終了し、キャスターは次の話題を提供する。
「ねえ」テレビを見ながら、千夏に声をかけた。
「ん?」千夏も同じく、テレビを見ながら反応。
「今日みたいなの、ちょくちょくある?」
「うん。あの事件さ、作家キャリアの踏み台に使えたのはいいんだけど。題材が題材だから、LGBT系団体に睨まれちゃって」
「危険視されてるの?」
「逆、味方に取り込もうと接近してくる」
「覆面作家なのに」
「どこで特定されたのやら」
「怖いね」
「怖いよ」千夏はやけにさっぱりと言った。
「あっさり言うけど。対策とか取ってる?」
「お巡りさんと相談中」
「敵の狙いは分かる?」
「当然。いかに淫夢カルチャーが品性下劣で、いかに唾棄すべき文化であるのか、それを夏乃洲治の声で喧伝させたいのよ」
「事実下品では」
「否定できない。けど、担当編集からは著者本人の言葉を用いた、直接意見表明は控えるよう言われてる」
「一応の中立かぁ。ま、ビジネス面からは納得できる」
「作者の立場を明言しない限りは、LGBT系団体と淫夢民でそれぞれが都合のいいよう解釈して、単行本の売り上げに貢献してくれるから」
淫夢民とは、淫夢カルチャー圏に所属するユーザーのことだ。
「近年の作家にしては、珍しく本人名義のツイッターをやってないと思ってたよ」
「止められてる」千夏は伸びをした。「異論はなかったね、元々呟くようなこともないし」
「相変わらず作品で語るタイプ」
「呟きの数行も惜しいんだ。できるのなら、全部小説に換算したい」千夏はソファーを立った。「先にシャワー浴びてくるね」
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