ブランド・コーティング#2

「そうそう」わたしは携帯端末をスリープ状態にして、カバンにしまった。「競争社会は、止むを得ぬ蹴落とし合いの連続でしょう」

「わたしだって、数多の屍の上にデビューしたしなぁ」千夏はコーヒーを啜る。


「人を強引に蹴落として、無理やり自分の成功の犠牲者にするのは、一般的に非人道的な行為と非難される。反面、公正な競走上におけるゼロサムゲームは、悪意の不在が全ての犠牲を倫理化する。けど、脱落時に生じる個人のストレスまでは健全化できない」


「まあ、成功手前で失敗するほど、脱落時のストレスは過剰化するよね」

「ストレス・エントロピー」

「競争社会の犠牲とやら」

「気運のまぐれが集中して、一歩を逃した挑戦者の人生が悲惨に転落したって、暗黙の了解で恨みっこなし。成功者を憎んで殺してもいけない」


「あの子にはそんな社会摩擦から生じる、元凶不在のストレスが過集中した」

「偶々、ね」

「随分と作者都合の偶々だけど」千夏は苦笑する。

「ご都合悲劇さ、認める」わたしはにやりとした。「メタ言及してたよ?」

「それでも成功したかった、『神様』に抗うと決めて」


「だから、最後に立ちはだかったライバルを人間関係ごと機能不全に陥れ、社会へ悪印象を拡散させた。その微かな印象の差、今後途轍もない厄介事を引き起こすんじゃないかって危惧から、彼女の方が選ばれて成功することができた……」

「結局、お話に登場する悪役はたった一人だけ」

「主人公」


「あっはは……思い返しても、容赦しない作風だ。成すべきを成しただけの善人に囲まれて、最後には悪役誕生の理屈が成り立つもん」

「悪人を産むのに、悪人はいらないのをシミュレーションしたかった」

「作品コンセプトは競争社会批判?」

「あ、考えてなかった」


「うそっ?」千夏は驚いた。

「単にシミュレーションしたら面白そうだったから」

「アメリカン・コミックス悪役の素質あるよ」

 わたしはコーヒーの氷を掻き混ぜてから、言った。

「夢追いは、ただでさえエゴの風穴を開ける工事なのにさ」

「うん」


「大なり小なりあるけれど、特に失敗続きで気持ちのどん底にいたり、スタートラインにさえ立てなかった人は半狂乱で必死になる。その段階に行くと、もう周りが何も見えなくなって、どんどん成功に手段を選ばなくなってくる」

「手段を選ばなくなったせいで、誰かに迷惑をかけてしまう。それが怖くて、中々一歩踏み出せない人だっているけどね」


 隅の席に座っている男が、手元の小説に視線を落とした。新進気鋭のベストセラー作家、夏乃洲治の新刊だ。千夏はその様子をちらと見てから、言った。


「わたしは彼女に共感したよ」

「え?」

「どうしても夢を追いかけたいなら、敢えて許されない道を行く選択肢もある」

「そーかな。わたしはアレを、できるだけ否定的に描いたつもりだった」


「成功は最悪の過程を美談にできて――帳消しにはならないけど、肝心かなめの奈落を抜け出した後に、何食わぬ悟り顔で世間様へ懺悔する権利を貰える」

「成功して懺悔の機会を得るがために、やむを得ず悪事を? 本末がゲスく転倒してる」


「子細を知らない部外者が、納得できるだけの筋は通ってる。犯罪率が大幅に低下した共感世代のわたしたちには、理解した上で動くやり方もあるってこと」

「興味深い意見だ」

 わたしと千夏は、コーヒーを飲み終えて店を出た。


 気晴らしに一級河川の堤防を散歩する。

「さっき言ってた共感世代って?」歩きながら、わたしは千夏に問うた。

「フィクションの普及で過酷な体験をした人物の内面を追体験する機会が増えて、自ずと実在する人物の内面も想像できるようになった世代」

「する側・された側の気持ちを理解して、犯罪率が減った世代?」


「望まぬ殺人に苦悩する物語を読んで、なお現実世界の殺人に踏み切れるかって話」

「ふーん」

 雑談を交わし歩く午後三時。

 突然、千夏は背後から声をかけられた。


「夏乃洲治先生ですね?」


 振り返ると、一人の男が立っている。

 先刻、ドーナツショップの隅の席で、千夏の新刊を読んでいた男だ。

「すみません、プライベートですので」千夏は穏やかに断って、足早に立ち去る。

 わたしも後に続いたが、男はその後を追ってきた。

「わたくし、『東響にじいろプライド』広報の守竹という者です」


 千夏はうんざりとした顔をしていた。

「野獣邸前ホモガキ鏖殺事件の原因となった、淫夢カルチャーについてのご意見を伺いたいのですが」

「作品を読んでいただければ」千夏は不快感を声に出さない。

「やはり、根幹にはヘテロセクシャルのホモフォビア文化が関係しているとお考えで?」


「読者の方それぞれが、作品を通して得た答えを大事にしてください。作品外の部分から著作に色を与えたくありませんので」

「では――」

「以上です」千夏は遮って言い、わたしの手を握って走り出した。

「え、ちょっ」あまりに突然で、わたしの足は絡まって動けない。

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