野獣邸前ホモガキ鏖殺事件#1

 野獣邸前ホモガキ鏖殺事件。


 十年以上前からインターネット上で注目され始めた、東郷邸を端に発する事件だ。かつて東郷邸は家主の意向もあり、実写映像作品の安価なロケ地に提供されていた。個人製作の映画から商業用ドラマまで幅広く、特に予算の少ないアダルトビデオ業界では長らく重宝されていたのだ。しかし、二〇〇一年に成人男性向けゲイポルノビデオ『真冬の昼の淫夢』撮影に用いられてから六年後、突如として深刻な風評被害の憂き目に遭う。


 原因は『真冬の昼の淫夢』に登場する『野獣先輩』の異名を冠したキャラクターだ。作中における彼の言動が、何をどう解釈したのかネットユーザーの琴線に触れ、動画投稿サイトを中心としたコミュニティ群で「独特にして極めて滑稽」と広く認知されてしまう。立て続けに投稿される本編と無数の関連作品へ、その奇妙な魅力に魅了されたネットユーザーは夢中になって喰らいついた。


 全て、有志の手による違法アップロードだ。


 関連作品は演者を共通項に数珠つなぎで増加していく。ネットユーザーは『真冬の昼の淫夢』に出演した役者を中心に、同役者の出演する他作品を掘り起こしては、その作品に登場する新しいキャラクターをひっくるめ次の滑稽を見出した。『淫夢ファミリー』へ加わった演者の経歴を追って、更なる作品が発掘されていくのだ。インターネットコミュニティの成長期に醸成され、今なお発展する混沌、件の豪邸はその爆心地となる。


 野獣先輩の名は晒されるように讃えられ、いつしか東郷邸は彼の名前に因み、野獣邸と呼称されるようになってしまった。不本意な聖地の立ち位置に確立されたのだ。また、聖地とは常に信奉者にとっての巡礼対象であり、野獣邸もその例に漏れない。無作法な低年齢層、蔑称『ホモガキ』が興味本位で全国から押し寄せ、歴史ある住宅地の閑静な空気を容赦なく破壊した。土地に住まう人々は騒音や不法投棄、公道封鎖といった迷惑を被り始める。


 千夏と彼女の家族もその被害者だ。


 事件前日、千夏は書斎で新作を執筆しながら、台風の通過を待っていた。

「入る」父の牢慈郎が書斎の入り口をノックする。

 返答も聞かずに扉を開けて、千夏の隣にコーヒーを淹れたカップを置いた。

「進捗はどうだ?」牢慈郎は千夏の横顔に問う。

「それなり」千夏は置かれたカップに目もくれず、原稿用紙を埋めていく。「何か用?」


「台風は今日の夜には去るそうだ。明日には問題なく晴れる」

「それで?」

「明日は八月十日」牢滋郎は困った顔をする。「例年のことながら、いつにも増して迷惑な子供たちが押し寄せてくる日だ」


 無論、千夏は理解している。

 書斎のカレンダーにも、赤の油性ペンで強調と警告が記入され、近隣住民ならば誰しもが警戒すべき日であるとの認識を強固にしていた。


「台風直後だよ? 流石に来ないんじゃ」

「台風直後だから溜め込んだ鬱憤を晴らしに来るんだ。遊び盛りの彼らは、今か今かと台風が止んで外に出れる機会を伺っている」

「大した観光地でもないのに」千夏は手を止めて溜息をついた。

「明日は一段とうるさくなる、作品執筆に集中するのは難しいだろう」


「うえー、勘弁してよ」千夏は牢滋郎と顔を合わせた。「千冬んとこに行くしかないか。ちょっと気まずいのになぁー……」

「何かあったのか?」牢滋郎は意外そうな顔をした。

「一緒に応募した新人賞でね、一次選考までは一緒に選ばれたんだけど」

「ほう」牢滋郎は感心する。「現文専攻のアドバンテージか」


「二次選考ではわたしだけが通った」

「そういう時もあるさ。お互いどこかで覚悟していただろう、共に受賞まで生き残る確率の方が低いと」

「それはそうだけどさ、期待しちゃったんだよ」

「はは、競走社会は疲れるなぁ」牢滋郎は渋い顔をした。


「本当だね」

「千夏が賛同してくれて嬉しいよ。それとな……」

「まだあるの?」

「明日一日外出は控えて欲しい」

「なんで?」


「さかりの時期を迎えた奴らとの接触は、トラブルの原因になるからな」

「だったら遠出した方が良くない?」

「行き帰りのタイミングで遭遇するだろう」

「朝帰りすれば」

「そいつは親として許可できん」


「過保護」

「なんとでもいえ」牢滋郎は笑った。


 事件当日、天気予報通りの快晴が訪れた。

 千夏は書斎に籠って執筆作業を行っていたが、午前八時を過ぎると普段にも増して外が賑わってくる。

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