新人賞応募#3

 動かない。こんなにも綴りたい思いは、指先を不格好に振るわせるだけ。

 言わば綴りたい思いの先は暗夜行路か、その理由や単純明快だ。


「ああ、そうだ――」

 当たり前の事実に錯乱してしまった。だから次に打つべき鍵が分からない。

「それだけの話だ、それだけの話さ」

 震える指先の気を引き締め直したら、視線をキーボードの上に戻す。

「何も書けなくなった訳じゃない」


 右手の中指の先に「I」が、左手の人差し指の先に「F」があるようだけれど、本当にこの鍵を押していいのか分からない。

 真っ先に浮かんだのは「IF」=「もしも」、その次に「FI」→「FIN」。

 ぞっとしない終局の予感、そんなくだらない占いを蹴散らしてチャイムは鳴った。

 やたらと眠い顔を上げると、壁掛け時計は午後四時を告げている。


『千冬? おーい、いる?』玄関越しに千夏の声がする。

「あ、千夏? 今行くよーっ!」わたしは返事をして玄関を開けた。


 吹き抜ける秋風と、アパートで会うのは暫くぶりの千夏が、以前と殆ど変わらない様子でわたしの前に立っている。


「久しぶり。どうしたのさ、そっちは忙しい?」

「おかげさまで。ごめんね、後処理続きで中々来れなくて」

「やっぱり、わたしから行った方が良かった?」

「駄目だよ」千夏は真剣な顔で言う。「千冬を巻き込むことになる」

「わたしは巻き込まれても平気だよ? 別に恨んだりしない」


「そうやって巻き添えに死なれたら嫌だから、千冬までリスクを背負う必要はないの。だいいち、全部解決したらこっちから会いに行く約束なんだから」

「そうだったね」

「厄介事は片付いて、千冬に無事また会えた。寂しい夜は今日でおしまい。それだけでいいよ、万事解決」


 さらりと言ってのける千夏を、わたしはアパートの中に招いた。


 千夏が長い間わたしの部屋に来れなかったのは、十年に一度の台風のせいでも、ましてやわたしの落選と彼女の受賞で生じた距離感から、どうしようもなく気まずくなったせいでもない。


 それっぽっちでわたしたちの友情が揺らぐもんか。


 無論、表面上の時間経過にだけ沿うならば、「第24回大学生新人文学賞」二次選考通過者発表の翌日から台風がやってきて、千夏がわたしの部屋に来れなくなったのは疑いようもない事実だ。ただ、その間には台風直後に千夏の周囲で発生した、とある事件が板挟みになっている。


 部屋に入った千夏は真っ先にパソコンを覗き込んで、わたしの小説を読み始めた。


「あー……これ、だいぶストレスきてる?」

「そうだよ」わたしは苦笑した。「どうしてそう思ったの?」

「ネガティブな心理描写が原稿用紙一杯に果てしなく敷き詰められてて、物語がまるで進んでない」

「心理描写を重視しただけかも」


「思考を率直に綴ったリアリティはあるけど、キャラクターの感情になってない」

「あはは……さっき、今更のように気付いたよ。ただ溢れ出る感情を羅列したところで、何の物語にもなりやしない」

「伝えたい思いが先行し過ぎたね」

「落ち着いたら書き直す」


「それがいい。あ、文章はストックに残しときなよ」千夏は書き殴られた感情をコピー&ペーストして、デスクトップのメモ帳に保管する。「テキスト自体は良質だから、捨てるのは勿体ない。適宜タイミングを見計らって挿入しよう」

「キャラクターにわたしの感情ローンを押し付けるのか」

「分割払いも一括払いも大差ないよ。どうせ後から何度でも湧き上がるものだし」


「嫉妬ストック、あんまりいい気はしないけど」わたしは千夏と顔を合わせた。

「がんばれ」千夏は優しく微笑んだ。

「頑張るよ」


 千夏は持参したパソコンを広げ、いつものフォーメーションで執筆体制に移行した。長らく耳にしていなかった落ち着きのあるタイプ音が、不思議な心の安泰をくれる。


 ひとまず浮かんだ物語を整理して、次の段階をラフに確保。

 登るべき階段の全体像を俯瞰し終えたら、改めて本編の執筆に戻る。


 三時間後、すっかり外は暗くなって、打ち込みの音は遂に途絶えた。お互いに疲れが溜まっていたのか、同タイミングで顔を上げて視線を交わす。


 千夏は額に冷汗を流していた。慎重に観察すると呼吸も荒い。


「熱?」わたしは千夏に訊ねた。

「三十五度六分、来る前に測ったけど微熱すらない」千夏は間を置かず即答した。

「自律神経失調症?」

「それはありそう。感染はしないだろうから安心して」

「問題があるなら相談に乗るよ」わたしはペンとメモ帳を取り出す。「取材も兼ねて」


「取材って」

「話せるなら、話してみなよ。話したくないなら、それでもいい」

「ただの野次馬じゃん……いいよ、これに関しては当事者になってもらおうかな」千夏は呼吸を整える。「実はね、編集から打診があって、次回作はこの間わたしが巻き込まれた事件を書くことに決まったんだ。もう犯人は逮捕済みで、既に襲われる心配もないから、世間の注目を集めているうちに出版しようと」

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