新人賞応募#2
千夏は気まずそうな顔をする。
わたしは、涙ぐまなければよかったと酷く後悔した。
窓の外、アパートから見下ろす町はずれに夕立が降り始める。
翌日からは十年に一度の台風がやってきて、千夏は部屋に来れなくなった。
わたしは部屋の暗がりでうずくまり、落胆するつもりもなく次回作の構想を練る。
「ぜんぜんへこんでなんかないもん。ただ、考え事してるだけだもん」
そうこうしているうちにも千夏の物語は来たる三次選考を通過し、最終選考を突破し、見事最優秀賞に輝いた。「凄いな」と、これもわたしの独り言。こんなどうしようもない心内環境でも、友人の成功を祝うだけの余裕はあったみたいだ。
日は瞬く間に過ぎ去って、気が付けば『第24回大学生新人文学賞』授賞式当日。
この部屋にいるのはわたし一人だけ。相も変わらず、わたしだけはここにいる。
先を越されてしまったけれど、当然負けっぱなしではいられない。
部屋で一人パソコンを打鍵する。
当たり前の執筆作業が、なんだかとても味気ない。
鉛よりも指は重いけど、辛うじて物語は綴れるよ。
別に動かせないほど重いわけでもない。
朝が来て日が暮れて、それを45回繰り返したら新しい作品ができていた。やけに時間ばかりかかってしまった気がする。
出力したデータを『第51回野性文學大賞』に応募した。
小説の応募はいつの間にかデータ応募が一般的になってしまったが、そこには物理媒体印刷時に特有の化学反応が、つまり冷静な潤いと鬼気迫る重量感さえ蔑ろに圧縮されているのではなかろうか。
わたしの小説の迫力はそこにあって、紙面上で読まなければ著しく迫力に欠ける物語であったのではないか――。
いけない、変な考えに支配されてしまっている。なにせ精一杯頭を捻っても、手元に募るのは吹けば飛ぶようなメガバイト・ファイルばかりで。人生を掛けて挑み続けた創作の記録はローカルディスクの空きデータ量から俯瞰しても、未だ本体容量の25%にすら遠い。
本物の原稿用紙なら、どれだけの山になっただろうか。無性に万年筆の香りを嗅ぎたくなった。
三ヵ月待って、当たり前に一次選考で落ちた。
三ヵ月経って、千夏は契約通りに出版社との繋がりを確保し、『第24回大学生新人文学賞』受賞作出版レースに漕ぎつける。
あくる日の朝、わたしは最寄り駅の前の書店で『大型藝大生新人現る。』というポスターを見かけて、衝動を堪えきれず立ち寄った。
全国大学生一位の称号で華々しく装丁された単行本は、わたしが生涯に見たどんな宝石よりも遥かに輝かしい色彩で陳列されている。平積みのまま、他の書籍と比較して目立って売れている様子はないものの、いざ立派な単行本を持ち上げるとその重みを支え切れるかが不安になってしまう。
書くのに夢中で、読むのが疎かになっていたせいかな。
或いは、気付かないうちに筋肉が衰えていたのか。
本当は、複雑な思いを抑えきれないだけだろう。
意を決して物語の小箱を開けると、よく見慣れた千夏のテキストが、実に美しいレイアウトで飾り付けられている。
わたしの作品と同じくらいに、幾度も読み返した千夏の物語。
奥からやってきた男性客が千夏の単行本を手にし、表紙を眺めてからポップアップを見上げる。例の売り文句に「ほう」と興味深そうな顔を浮かべ、軽やかな足取りで三番レジに持っていく。
千夏の本は一八〇〇円と引き換えに男の手へ渡った。二枚の千円札と二百円のおつり、それが資本主義社会に認められた千夏の小説の価値なのだろう。
見知った文字列が、共に紡ぎ合った物語が、お金になっている。
わたしは手元の単行本を見やった。
そっと元の平積みに返し、書店を後にする。
上の空で満員電車に揺られ、乗り換え、また揺られ、駅中の大通りに降りる。
書店はここにもあって、やはり駅前同様に件のポスターが貼られていた。千夏の小説は平積みから少しばかり売れて、その行方は探すまでもなく容易に見つかる。
制服姿の少女が提げた書店のレジ袋。
男学生のハンドバックからはみ出た書影。
オフィスウーマンの両腕に抱えられた単行本。
サラリーマンが右手に携えたブックカバー付きの本。
おいおい。末期症状にも誰もが持ち歩く本という本が、一冊残らず千夏の小説に見えてしまっているみたいじゃないか。
頭を横に振って妄想を振り払う。そんなのありえない――なのに、なのに。
バイアスと自己分析の谷間に著しい吐き気が生じて、居た堪れない蝕みが通勤ラッシュの激流に溶けていく。
結局、その日は大学を無断欠席した。
帰宅して、キーボードにままならぬ嫉妬(?)らしきものを刻む。
複雑怪奇に絡まった情景を、生の感情のまま文章に落としてやれ。でも、タイピングの手は感情をひとしきり吐き出した途端に急ブレーキを叫んだ。
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