第7話

こんにちは。僕の名前は、

いちの みどりです。


これは、僕の独り言で、斉原さんにはひとつも言っていません。僕が手話の理解をもう少しした頃にでも、話そうかなって思ってます。



わけあって、斉原さんには姓を偽っています。

僕なんて言ってますが、実は女です。別にこれといって、深い事情があるわけではありません。


僕は、生まれた時から母子家庭です。短いときは3ヶ月、長いときでも1年ほどで、新しいお父さんが来る生活をしています。


いつか来るお別れがすごく悲しくて、あんまりお父さんと仲良くすることができません。

お母さんはそれが気に食わないらしく、毎日とまではいかずとも、殴ったり蹴ったり、無視されたり罵倒されたりの日々が続いていました。


同級生たちが中学を卒業するころ、僕はついに開放されたと思いました。新しいお父さんがもう家に来ることがないばかりか、お母さんも家に帰ってくるのが3日に1度、週に1度、と減っていきました。


そしてもう、1度も帰ってこなくなったんです。

僕ひとりでの生活が始まったんです。


最初はすごく楽しかったです。お母さんがいないから、痛くもないし悲しくもないんです。寂しくなるかなって思ったけど、思いのほか大丈夫だったんです。

だから、家に友達を呼んだんです。お母さんがいたころでは、叶わなかった夢でした。


でも、時間がたつにつれて、生活の厳しさを実感しました。食費や光熱費などの生活費が、貯めていた僕のお年玉じゃ足りなくなったんです。

月ごとに払う学費も、払えなくなりそうです。

学校になんて、行けなくなったんです。

友達を頼る訳にもいきません。こんな話を聞いて、具体的に力を貸してもらおうなんて、僕にはとうてい、差し出がましいと思ったんです。


もうお金が底をついてしまいました。最近の話です。

僕は、自殺を決意しました。少し早いかなって思いました。でも、そんなことも言っていられません。生きてたって、生活できないなら死んでも同じなんです。こんなとき、家族がいれば、何ともなかったんだろうなって。すっごくそう思いました。


僕は、屋上への階段を歩きました。

このまま、誰にも見られないで、都会とも言えないこの建物の屋上で、飛び降りて死んでやろう。


僕が死んだことを知ったお母さんは、後悔してくれるのかな。僕が死んだことを知った友達たちは、悲しんでくれるのかな。

たぶん、どっちもないんだと思います。


屋上に着きました。でもそこには、先客がいたんです。なんでかは分からなかったけど、今まで誰にも話せなかった私の悩みを、話してもいいかなって。直感で思っちゃったんです。歳もすごい離れてるし、普段だったら絶対話さないような人なんだろうけど、思わず、声をかけてしまいました。もしかしたら、本当は僕も、そうして欲しかったからなのかも知れません。


でも、驚くことに、その人は声が出せなかったんです。


あ、僕はこの人には、一つだけどうしても隠さなきゃいけないことがあるんだ。この人は......


僕は、その人のためになろうとしました。どうしても、その人と会話がしたかったんです。


だから僕は、小さい頃に唯一お母さんに教えてもらった料理と、1晩かけてがんばって覚えた拙い手話を、その人にプレゼントしたんです。喜んでくれたみたいで、よかったです。


それと、あの人の名前、実は僕、知っていたんです。だから、やっぱり、僕の勘は、とっさに事実をひとつだけ隠した僕の勘は、正しかったんだと実感しました。

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