scene6-2

 お兄ちゃんは2LDKのアパートだった。広さに、というか、何も無さにしばし声も出ない。テレビさえもないと、部屋って広く見える。


「お兄……ひとりで、ここに?」

「ばか言うな。引っ越したんだ。お前の部屋はそっち」


 居間から続くドアは二つ。その、左側をお兄ちゃんは指差した。

 ベッドが入っている他は何もない。入って右手のドアはクローゼットかな。


「ちゃんと鍵もかかるから。必要な物は適宜買ってくれ」

には……」


 お兄ちゃんはしばし黙ってあたしを見ていたけど、一息吐き出すと小さく首を振った。


「悪いが、しばらくは仕事休めない。お前ひとりじゃまだ心配だし、落ち着くまでは行けそうにない。その代わり、パソコンでも洋服でも好きに買っていいから」

「お金、大丈夫なの?」


 入院費だってかなりかかったはずだ。


「保険、下りたからな」


 ああ、そうかとあたしは頷いた。そういう煩雑な手続きもひとりでやってくれたんだ。目を覚まさなかったふた月ちょっとの間、お兄ちゃんは結構大変だったんじゃないだろうか。今のあたしは両親のこともぼんやりとしか思い出せないし、住所も覚えてない。葬式に出たわけでもないし両親を亡くしたという感覚が薄い。お兄ちゃんは悲しむ暇があったんだろうか。


「……余計な事は考えなくていいから、まずは生活のリズムを戻して――」


 顔に出たんだろう。説教くさいことを言いだすお兄ちゃんのサングラスを不意打ちで取り上げたら、凄い目で睨まれて、すぐに目を逸らされた。


「うちにいる間は、外してもいいんじゃない?」


 小さく舌打ちが響く。

 掌を差し出されたので、その上にきちんとたたんだサングラスを乗せてやった。


「…………善処する」


 踵を返したお兄ちゃんはスタスタと隣の部屋に入ってしまった。この数ヶ月でわかったことは、お兄ちゃんは静かに怒るということ。怒鳴ったり手を上げたりすることはないけど、元々口数少ないのにさらに無口になるので、原因に心当たりがない時は大変だ。

 ずっとひとりでやってきたのに、急に誰かと暮らすなんて、きっとストレスなんだろうとは思う。あたしも早く職を見つけて出ていってあげた方がいいのかもしれない。

 お兄ちゃんの部屋の扉を見つめながら小さく溜息をついたら、そのドアが勢いよく開いた。


「……晩飯、何食いたいか考えとけ」


 不機嫌そうにそれだけ言うとまた引っ込んでいく。

 もう。怒るのか気遣うのかどっちかにしてよ。なんだか可笑しくなって、あたしはひとり肩を震わせた。


 近くで見たお兄ちゃんの瞳は片方だけ緑がかっていた。両親と疎遠だったのも、いつもサングラスをしてるのも、何かトラウマになるようなことがあったのかもしれない。

 それで髪の色もあれなのかな。聞いてみたくもあるけど、でも多分、かなり地雷なんだろう。そういうことも話せるまでは、まだしばらくかかりそうだなぁ。

 いつの間にか仕事も見つかったみたいだし、これからだんだん普通の生活に戻っていくんだ。まずは――食器と着替えかな。




 そんな風に二人暮らしが始まって、春を迎え、夏が近づくと、だいぶ遠慮が無くなった。そろそろ仕事をと活動を始めた矢先、出張から帰ってきたお兄ちゃんがついでに両親の家も片付けてきたと言って大喧嘩(と言っても、喧嘩腰なのはあたしだけなんだけど)になった。

 あたしだって一緒に行って、自分の暮らした場所を見れば、もう少し何か思い出せたかもしれなかったのに。お気に入りの物とか、大切な物があったかもしれないのに。

 業者に処分を任せて、家自体は売りに出したって……手際がいいにも程がある。


「思い出せないのなら、大したことじゃない。もう暮らしはここに移ってる。過去うしろを見ることはない」

「そうだけど!」


 忘れたくなかったことが、あったような気がするのだ。

 散々お兄ちゃんを責めた後、口も利かなくなったあたしにお兄ちゃんは困惑しているようだった。

 いつもは作る夕食もほっぽって部屋に引きこもっていたら、お腹が鳴り始める頃に控えめにノックの音がした。もちろん応えてやらない。


「トモキ、入るぞ」


 ……鍵を閉めてないのは、うっかりだからね。

 子供みたいにふてくされてベッドに寝転がるあたしの傍に、お兄ちゃんは腰掛けた。枕元に何かが置かれる。


「……悪かった。トモキの部屋はすごく片付いてたから……必要なのはこれくらいだと思ったんだ」

「……え?」


 振り返ると枕元には一台のノートパソコンが置かれていた。メタリックな赤い色には見覚えがあるような、ないような。


「後で中も確認してみるといい。でも、その……先に、何か食いに行かないか」


 電気も点けてなかったから、ドアから漏れてくる居間の明かりしかないけど、お兄ちゃんの横顔は見える。サングラスの無い顔はどこか頼りなげで、慣れないことに緊張しているのが分かった。食にもほとんどこだわりの無いお兄ちゃんが(ほっとくと2食とか平気で抜くんだよ!)外食に誘うなんて、めいっぱい気を使ってるに違いない。

 視線は合わないけど、家ではサングラスも外してくれるようになったし……買ってきた黒以外の服も着てくれる。

 う〜〜〜。

 あたしって、甘いかな?!

 全部を許した訳じゃないけど、終わってしまったことは戻ってこない。こうやって目の前に出されても、はっきりと思い出せることもない。少しずつだけど、お兄ちゃんは歩み寄ってくれてるのに、我を通そうとするのは、悪い、かも、しれない。


「……もう、勝手にしない?」

「……たぶん。気を付ける」


 しないと言い切らないところが、お兄ちゃんらしくて。


「し、仕方ないな。デザートもつけてもらうからね!」


 ちらりと視線を寄越して、お兄ちゃんはあからさまに肩の力を抜いた。


「わかった」


 立ち上がり、部屋を出ていく。あたしはそれを引き留めた。


「お兄」


 ドアのところでお兄ちゃんが振り返る。


「あたしも、言い過ぎたことはごめん」

「わかってる」

「部屋、本当に片付いてた?」

「え? ああ」

「そう……」


 少し怪訝な顔をしながらも、あたしが黙ってしまったので、お兄ちゃんはそのまま自分の部屋に戻っていった。上着とサングラスを取りに行ったんだろう。

 あたしもベッドから降りて上着を羽織る。

 旅行に出る前のあたしは何を考えていたんだろう。すぐに戻るつもりだったら、きっとそこまで片付けない。もしかしたらお兄ちゃんの所にずっといるつもりだったのかな。だとしたら、大切な物は持ち歩いていたかもしれない。それも叶わず、やっぱり帰ることに?

 あたしの荷物は、ショルダーバックひとつ残ってない。自分のことなのに全然しっくりこなくて、あたしは赤いノートパソコンにそっと手を添えてから玄関へと向かった。




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