scene6-1

■ そして


 ぺらり、ぺらりと一定の速度でページを繰る音がする。

 目が覚めるときに傍にいる人が咄嗟に思い付かなくて、疑問符ばかり思い浮かべながら目を開けた。白い天井はあたしの部屋のものじゃない。……たぶん? あれ? 部屋の天井って、どんなのだっけ?

 寝すぎた時みたいに頭が重い。人の気配を頼りに視線を移していくと、派手な茶髪が目に飛び込んできた。サングラスをかけたまま、文庫本を手にしてるのは――


「……お、にい、ちゃん?」


 つと本から顔を上げ、こちらを向くと、お兄ちゃんは立ち上がって手を伸ばした。

 一瞬何かが怖くてぎゅっと目を閉じたけど、お兄ちゃんの手はあたしの頭上でかちりと音をさせてすぐ離れていった。


「何か、覚えてるか?」


 聞かれたことがよく解らない。ぼんやりとお兄ちゃんを見つめていると、ノックの音がして看護師さんが入ってきた。

 簡単な質問に答えているうちに、少しずつ意識がはっきりしてくる。遅れて入ってきたお医者さんがお兄ちゃんと二言三言会話するのを見て、入院してるんだと自覚した。


 精密検査をしたり、リハビリを始めても、あたしの記憶は霞がかかったようだった。特に直近の入院することになった原因はさっぱり思い出せない。お医者さんもお兄ちゃんも急いで思い出すことはないと言う。よくある話だから、先に身体を元気にしましょうって。意識のない間に治ってしまったのか、何処にも痛いところはないんだけどね。


 お兄ちゃんは毎日病院にやってくる。意識のない間もそうしていたのだと言う。仕事は? って聞いたら、次のを探してるって素っ気なく言われた。

 それは、前の仕事は辞めたということだろうか。あたしのために?

 お兄ちゃんは色々足りない。言葉だったり、感情表現だったり、流行り風に言うなら、忖度そんたくだったり。だから、してほしいことや聞きたいことは、こちらがしっかり口にしなければいけなかった。


 あたしたち兄妹ってこんな感じだったっけ? って首を捻ったけど、事故の話を聞いたら少し納得できた。

 お兄ちゃんが高校生の時にお父さんが転勤になって、お兄ちゃんだけこの街に残ったこと。そのまま就職までしたこと。久しぶりに家族でお兄ちゃんに会いに来たこと。その帰りに事故に遭ったこと。二人きりの家族になったこと……

 淡々と事実だけを語るお兄ちゃんとの距離は、そのまま生活の距離だったのかもしれない。


 あたしの仕事はどうなってるのかと思えば、お兄ちゃんに会いに来る前に辞めていたそうだ。何があったのか、自分で思い出せない。

 スマホでもあれば、SNSの過去ログから何か分かったかもしれないけど、荷物は何ひとつ残ってはいないようだった。全てがぼんやりしていて、過去のことは幕の向こうにある感じ。ステージで何か上演されてることはわかるけど、役者や背景は見えない。

 心の片隅に引っかかる不安はあったものの、自分の記憶さえ覚束ない今、頼れるのはお兄ちゃんだけだった。




 退院に目処がつく頃、あたしもお兄ちゃんに慣れてきた。

 基本、お見舞いに来ても本ばかり読んでるので、用がなければ来なくていいと言ったことがあるんだけど、何かあってもすぐ連絡がつかないから、と言われて、初めてお兄ちゃんがスマホの類を持っていないことに気が付いた。

 苦手だからと渋るお兄ちゃんに、あたしの分もいるから、同じのを二つ手に入れろと促して、病院で一緒に設定をしてしまう。ラインをダウンロードして使い方を教え込むまでに三日かかってしまった。


 黒い服に金髪頭、サングラスと悪目立ちする外見だから、絶対職探しも難航してそう。質問にはだいたい答えてくれるけど、本を読むときにも外さないサングラスの訳は教えてくれなかった。

 それでも毎日顔を合わせていれば、乏しい表情を読む眼力もついてくる。基本マイペースで人間嫌いで、口数少なくて意外と真面目。でもあたしのことは責任があると思ってるらしく、歩み寄ろうと努力してる感じ。

 そういうことが解ってくれば、あたしもぐいぐい行っちゃうもんね。

 あたしの我儘に、お兄ちゃんが渋々付き合う。そんな関係が出来つつあった。


大空おおぞら朋生ともきさん」


 退院の日、会計に呼ばれてもすぐには気付けなかった。

 さっさと立ち上がってお金を払うお兄ちゃんの後ろ姿を見て、ちょっと複雑な気分になる。


「どうした。変な顔して」


 戻ってきたお兄ちゃんが少ない荷物を持ち上げながら聞いた。


「う、ううん。そんな名前だったかなって、ちょっとだけ……」

「トモキ」

「ああ、うん。大丈夫」


 入院中もそう呼ばれていたし、別に違和感があったわけじゃないんだけど。やっと退院できるからちょっと興奮してるのかな。

 事故から半年ちょっと経っていて、きっとこれが人生で一番長い入院生活になるに違いない。


「車回してくるから」


 腕にかけていた自分の黒いコートをあたしの肩にかけると、お兄ちゃんは溜息混じりにそう言った。季節は冬の終わり。と言っても、この辺じゃ春はまだ遠い。あたしの着替えは当時着ていた夏物しかなく、退院にあたっての服は調達してきてくれたけど、コートまで気が回らなかったんだそうだ。お兄ちゃんらしいというか。

 あたしじゃ床にすりそうなコートの匂いを何気なく嗅いで、お兄ちゃんの匂いだとにやける。と、同時に、煙草の匂いはしないのかと妙なことを思った。

 お兄ちゃんは煙草を吸わない。しないのは、当たり前なのに。




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