scene5-2
「
美由はスマートフォンを耳に当てたまま、ゆっくりと頷いた。そんなこと、樹にわかるはずもない。
けれど、美由の頭の中は樹が読み上げた朋生からの手紙の文面をなぞっていて、そこまで気が回っていなかった。
何故、と、どうして、がぐるぐると渦巻いている。別れたのは今朝だ。何かあったんだろうなとは思ったものの、そんな突拍子もないことだとは思いもしなかった。
「麻野? ……ああ、もう。俺、これからそっち行くわ。明日、仕事は?」
「……休み」
「なら、いいな。……なぁ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃなくてもっ」
美由の声は震えていた。
「どんなことしたって、時間作るよ……!」
遠まわしな自殺とも、誰かに狙われているとも取れそうな文面。
だけど朋は自殺なんてしない。自分を終わらせるなんてことは考えない人だった。智也を亡くして、その傾向は強くなったと思ってたのに。なのに、なんで。消えるって、どういうこと?
何なのよ。
もしも誰かが彼女を狙っているのだとして、うっかり朋生がその手にかかってしまうなんて、許せない。朋生も、相手も、絶対、許さない。
美由は涙が滲みそうになる目を強くこすった。それから通話の切れたスマートフォンを操作する。朋生には何度かけても繋がらないと樹が言っていた。念の為かけてみてもやはり繋がらない。電源を切っているんだろう。用意周到さにイラッとさせられる。
なんで、そこまでして!
電話帳からもうひとりの名前を探し出す。
涼。
あの文面なら、今日中ならまだ間に合うかもしれない。まだ時間は二十二時少し前。
涼には伝えなきゃいけない。上手く伝える自信なんてないけど。馬鹿言うなって鼻で笑われても。朋が涼に会っているなら、なおさら。
我儘かな? でも、私はもうこれ以上何も失いたくない。
私じゃ出来ないかも。でも涼なら。樹じゃダメかも。でも、涼なら。涼なら出来るかもしれないって思うから。違う街に行った朋生を変わらずに大切にしていた、涼なら。
何で朋生が、消えてしまうなんてことを飲み込んでいるのか。わからない。存在否定なんてされても「あたしはあたしだからここにいる」って、そう言い切るタイプだったのに。いつから変わってしまったのか。何が変えてしまったのか。どうして――
涼。
たすけて。
たすけて。あの人を。
私の……私達の朋生を……
けれど、美由が何度かけ直しても聞こえてくるのは同じ声。
――おかけになった電話は電源が入っていないか電波の届かない場所にあるためかかりません……
無情にも時間だけが過ぎていった。
***
消えた? そんな。そんなことって。
月明かりしかない闇の中、おぼろげだった輪郭も見えなくなって、何度も彼女の名を呼んだ。手を伸ばせば触れる距離にいたのに、欄干に登ろうとしていた彼女は捕まえられたのに、何処に手を伸ばしても、冷たい夜気以外もう触れる物はない。
当り散らすように道路脇の草むらに蹴りを入れても、獣一匹出て来やしなかった。
元の場所まで戻って、呆然と闇を睨む。五分? 十分? 時間の感覚なんてとうに失われていた。
自分の目の前で起きたことが、まだ信じられない。信じられる訳がない。
会いたい、と言った。何時になってもいいから、と。
それが、こういう理由があったからだなんて……そう簡単に納得できるはずがない。
それに。
「ごめん……て」
聞く者のないその場所で、涼は呟く。
「ごめんて、何だよ……迷惑って、何だよ。……忘れんなってっ……」
知らずうちに拳に力がこもる。
どうしてこんなことになったのか。何が起こっているのか。
樹に知らせたから、樹から聞けと、何もかも終わった後でそんなことを言うのか?
「冗……談じゃ、ねぇ……」
納得のいく答えが、樹から聞けるとは思わない。涼の勘はそう言っていた。
ふと、車に置きっ放しのスマートフォンに思い当たって、涼は慌てて運転席のドアを開ける。助手席にはまだ人の気配が残っていた。少し前まで、いつもと変わりなく笑っていた、友人の気配が……
覗き込んだ画面の中には圏外の表示。ただいくつか着信履歴が残っていた。気付かなかったということは、ワンコールかそれ未満で切れてしまっていたのだろう。
盛大に舌打ちを打って、涼は後部座席にスマートフォンを投げつけた。
――有海……
口にしたのか、そうじゃないのか。返ってくるものなど、ありはしない。
それでも。何度も。
やがて、涼は運転席に身を滑り込ませると、タイヤを軋ませて車を発進させる。
まずは、電波の届く、その場所まで。
***
スーツの人は曖昧に微笑んでいた。
「裁定を」
事務的な茶髪の男の声に、彼は小さく息を吐いた。
「そうだ、な」
え?
その声と共に見えているものが色を失くした。モノクロになった世界は輪郭だけを残し、徐々にぼやけていく。焦って瞬いても、輪郭はカクカクとし始め、拡大したイラストのように小さな四角に分かれて、だんだんと白の割合を増やしていった。
あたしの足が感覚を失くす頃には、どこを向いても視界は白一色で……
おそらく、バランスを崩しただろう身体に何かが触れる。
「ヒトの世界ではヒトのココロに干渉できるのはヒトだけ。お前が、再調整するように」
聞こえているものが、言葉から音に変わる。
あたしは立っている? 支えられている? 誰に? どうして?
そうして。
次に瞬いた時、あたしの意識はふつりと消えた。
「彼女を戻すので?」
「アリウミ・トモキとしては無理だが、彼女はまだ人に戻りたがっている。お前も、もうひとときヒトの世を見てくるがいい」
「御命令とあらば」
す、とスーツの男は心持ち青い目を細めた。
「どうせだから、楽しめばいい。久しぶりだろう?」
「必要あるとは、思えませんが」
茶髪の男の声は常に平坦だ。
「そうか。私は少し羨ましい。行けるなら、私が行くのに」
「貴方は自分に無いものをヒトに見ようとしているだけだ。そんなにいいものではない」
「……そうかもしれんな。それでも時々、ヒトは眩しいよ」
そう言うスーツの男の姿がぼんやりと薄くなって、辺りの空気に滲み始めた。
「人の姿をとるのも楽しいな。今度から時々、そうしようか」
「必要のないことはお止め下さい」
「……本当に、お前は遊び心がないな。いつまでも人に戻せない」
「戻るつもりはありませんので」
空気の揺らぎと変わらなくなった男は、口の辺りを歪ませて苦笑する。
「それも、困るんだが。まあ、それはまた別の話だ。アリウミ・トモキに関する記憶の処理は、ヒトの時間で一年をかけよう。出来るだけ不自然の無いよう、ゆっくりと……」
茶髪の男は朋生を抱え上げながら、ゆっくりと頷いた。
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