第5話 恋愛展開図
会社に、
状況が変わったのは偶然だった。たまたま彼女の席の近くを通りかかったとき、彼女は社内報を読んでいた。彼女の近くの社員が
「読んでるの?」
と聞いていた。彼女は頷いた。
「嫌いになった?」
その社員がさらに聞いた。
「ううん、もっと好きになった」
そういうやり取りがたまたま聞こえた。その時の社内報、俺も頼まれて寄稿していた。俺の文章のことだと断定できるほどの根拠はなかったけど、たぶんそうだろうと思った。
ある時、年配の同僚が、別の部署の女性と食事をしたいので、一緒に来てくれと言われた。お世話になってる人だったので、意味はよく分からなかったが付き合った。なぜかその席に彼女もいた。やっぱり意味がわからず、たいして会話もなく食事会は終わった。結局意味があったのかは、今でもわからない。
残業をしているとき、彼女が仲のいいらしい友達と近くを通って帰っていったことがあった。その時の会話が部分的に聞こえてきた。友達の方が
「~の悪口言うと、あの子怒るんだよ」
と言ってた。どうやら~の部分は俺のことらしい。あの子は誰のことかわからなかったけど、その時は後にやめてしまった彼女のことのような印象を受けた。
そもそも人の悪口なんか言うなよって話でもあるんだが、自分の隣にいる彼女も、どちらかというと怒る方だと思うんだけどね。ほとんど会話したこともない俺の方が彼女の気持ちに気づいて、いつも一緒にいる友達が気づきもしないってどういうことかね?
それから結構長い時間があって、彼女が俺のことを好きとカミングアウトしたらしいことに気づいた。周りでひそひそと話しているのが耳に入ることがあったのだ。正直、一人くらい彼女の気持ちを考えてこちらに言ってくる人間がいるかと思った。
ある時、目の前の同僚が唐突に話しかけてきた。
「彼女と君がうまくいったら、みんな怒るだろうね」
本当に突然こんなセリフが飛んできたのだ。なんの脈絡もなく。普通いきなりそんなこと言われてもまったく意味がわからないだろう。俺はわかってしまうんだが、わかると言っても、言葉の裏に彼女の俺への気持ちがあるということがわかるだけで、どうしてこういうセリフが出てきたのかはさっぱりわからない。一応、俺は何も知らないことになってるし、ちょっと考えた末、次のように返した。
「なんでここで彼女の名前が出てくるんですか?」
何にもわからない人間なら当然の質問だと思うし、こちらの質問に素直に答えれば、彼女が俺を好きだって話が出てくることになるだろう。こちらとしては気を遣って話を振ってやったわけだ。こちらの配慮も空しく、なんの回答もなくて話はそれで終わってしまったが。
しばらくしてその同僚が、別の同僚に話かけているのが聞こえた。
「まさか彼女があいつと付き合うとは思わなかった」
そっか、彼女、誰かと付き合いだしたのか。まぁ、こちらは積極的に付き合う気持ちがあったわけではないんだし、仕方ない話だな。そう、思った。
同僚は続けた。
「言ってやらなくていいんですか?」
それに対するもう一人の同僚の回答は
「いいんだよ、いいんだよ」
やけに軽薄そうな口調だった。彼女にしてみれば一生に関わることだろうに。そんな軽薄でいいのか? かと言って、知らないことになってる俺がとやかくいうことでもないし、付き合う気があれば直接彼女にぶつかればいい話だ。ただ、周りにこういう態度をされると、正直しらける。彼女には「同情」は感じるけど、同情で付き合うのも不誠実だろう。結局俺としては何もできなかった。
その後彼女は結婚した。同僚が言っていた相手かどうかはわからないけど、今更俺が気にすることもないだろう。
わざわざ彼女が結婚したことを言ってきた人がいた。その人は好意で言ってくれたのはよくわかっているんだけど、だからと言って今更そんなことを言われても、どうしろというのだろうか? 俺はなるべく平板に
「そうですか・・・」
と返した。それを聞いて相手は
「関係ないかぁ・・・」
とちょっと嘆いた感じで言った。俺は「ええ、まあ」と言ってそうそうにその場を離れた。
だけど、どうしてこちらが彼女の気持ちを知ってるという前提なのかね? まぁ、実は知ってるんだが、普通は知らないはずなんだけどね。誰も言ってこないんだから。
それから、本当にめったにないことだけど、そのころ彼女から俺の部署へ問い合わせがあり、たまたまその電話に俺が出た。一通りの説明をして、話は終わった。正直、その時が彼女とした一番長い会話だった。
確かその翌日だったと思う。出社途中で後ろから、その時の上司と女性の同僚が後ろで話している会話が聞こえてきた。聞こえてきたのは上司の
「彼女も言ってくれればよかったのに・・・」
というセリフだった。また何かあったのか? 俺が気のない返事をしたのが伝わったせいなのか、長い電話がきっかけだったのかわからないが、彼女が泣いたかなんかしたのか? でも今更どうしようもない。
その日、例の芸能人顔負けの綺麗な『彼女』からの電話を受けた。軽薄そうな返事をしてた同僚への電話だったので、すぐに電話を代わった。電話の向こうの声のはずなんだが、『彼女』の声が聞こえた。
「なんで言ってあげなかったの?」
結構強い口調だ。彼女の俺への気持ちをと言うことだろうか? まだ俺のことも気にかけてくれているのか? それはそれで、すごく申し訳ない気持ちになった。
それに対する同僚の回答は
「あいつは興味なさそうだったから・・・」
おいおい、あなたと彼女のことについて話した覚えはないんだが? 俺が「なんでここで彼女の名前が出てくるんですか?」と言った時には横にいたと思うけど。あれを興味なさそうと判断したのか? ずいぶん勝手な解釈だな。それと、あなたが彼女の気持ちを伝えることになってたのか? それを伝えず、俺の反応がないことが原因で彼女が想いを諦めたとしたら、ほとんど詐欺みたいなものじゃん。
と、心の中で思った。
そういえば、思い返してみると、彼女と2度ばかり目が合って、なんか待ってるような表情をされたことを思い出した。その時はその意味はわからなかったが、俺に自分の気持ちが伝わってると思い込んでいて、俺からのアプローチを待ってたったことか? いくら俺が超が付くほど察しがよくても、さすがにテレパスじゃないんだから、そこまでわからん。
でも、その時そういう気持ちでいたとしたら・・・。本気で彼女がかわいそうになったが、もうどうしようもない。
同僚は電話を置くと、なぜか俺の方に向き直った。
「『(電話の)彼女』が話があるって」
またもや意味がわからず、おれは「はぁ」と返す他なかった。結局、『彼女』と話す機会はなかった。
また、別の人たちが話していたことも耳に入った。
「説得してくれてありがとうございます」
ある男性の社員が言った。
「あの子は今の方が幸せなんだよ」
別の女性社員がそう返した。
彼女が結婚をやめるとか言い出したのを説得したって話か? 俺はどっちでもいいけど、それって彼女にとっていいことなのかね? 彼女の幸せは彼女が決めるべきだと思うが。言い方は悪いかもしれないが、周りの人間て、彼女の望みをかなえてやることには動かないのに、彼女の気持ちを踏みにじるためには動いてやるのか? 彼女の気持ちに気を遣ってるのが俺だけなのって、なんかばかばかしくなってきたわ。俺なんか、自分の気持ちで判断していい立場なのであって、彼女の気持ちはむしろ周りの人間が気を遣うべきじゃないのかな?
俺も動かなかったし、実際に説得も効いたのか、その後しばらくは何もなかった。
ちょっとだけあったエピソードが、俺が別の部署に派遣されてるとき、そこで年配の社員の会話が聞こえてきたことだ。
「もっと積極的にアプローチすればよかったのにな」
と男の方が言ったのに対して女性の方が
「まだそんなこと言ってるの!」
と声を荒らげて答えた。その後彼女はさすがに声を潜めたが、なんと言っていたかはだいたい想像がつく。「彼女の方が片思いしてただけなんだよ。彼からアプローチするわけないじゃない」とでも言ってたのだろう。まあ、その通りだね。恋愛なんて、好きになった方が動かなくちゃあ、進展しようがない。
そこまでは女性社員の側に同意だったが、次に聞こえてきた発言には同意できなかった。
「罪滅ぼしに、誰か紹介してあげる?」
おいおい、俺に罪滅ぼししようっていうのか? 罪滅ぼしをされるとしたら、むしろ彼女の方だろう。男性社員の返事は。
「やなこった、自分でみつけてこい」
言い方!
その後お昼時間が来て、その男性社員がこちらに来て通りすがりがてら
「誰も好きになったことないんだろう?」
と言い残して出て行った。だから、前の話の脈絡わからないと意味わからんぞ。俺はわかってるけど。
真面目な話、少しは彼女の方の気持ちを考えればいいのに・・・。
その後、やらかしちゃったのは俺の方だった。自分の部署に人員増の可能性が出てきて、来るとしたら誰が来るんだろうな~と、トイレで用を足し終わり、手を洗いながら考えていると、ふと、彼女が俺の職場の経験者であることを思い出した。ちょうど同期の彼女と職場が同じだった時で、そこにさらに彼女が加わると二人分気を遣うことになる。彼女たちに申し訳ないとは思うが、本気でうんざりした。
こういう時は、思い切って口にすればすっきりすると思った。要は王様の耳はロバの耳の話に出てくる床屋と同じだ。口に出すにあたっては、現状をきちんと表せるように、頭の中で文面を吟味した。
「彼女も馬鹿だよね~。彼女が好き~ってわけじゃなかったけど、好きなら好きと言ってくれば反応しようもあったのにね」
確かに少しすっきりした。さて、職場に戻ろうと水道から向き直ったところ、トイレの個室の扉が閉まっているのに気づいた。当然、中に人がいるってことだ。やっちまった~。まさかオチまで王様の耳はロバの耳になるとは・・・。
俺は言い訳しようかどうか悩んだ。しかし、言い訳をすると余計泥沼に入りそうだし、言い訳がましいのは自分のポリシーに反する。また、入ってる人間が事情を知ってる人間だとは限らない。そのままトイレを出ることにした。
結論を先に言えば、ものの見事に事情を知ってる人間だったようだ。周りに話が広まっていた。
ある若い女の子が、軽薄そうに「いいんだよ」と言ってた社員に食って掛かってるのに出くわした。その子が責めたのに何か言い訳をして、女の子に「そういうのってありなんですか?」と再度突っ込まれてた。
彼女のだんなが他の人間と遠くにいた時に、二人の会話の一部聞こえてきた。
「もう、忘れてるよ」
と言ってた。おいおい、こっちはやろうと思えば、いくらでもおたくの家庭に波風を立てられたんだぞ。こっちが気を遣ってたから、今があるんじゃないか。感謝されてもいいくらいだぞ。
その後、別の職場に行った後の話だ。例の彼女の友達と、他二人の女性が俺の後ろで話していた。どうやら、彼女に俺が知ってるってことを話した人がいたらしい。そういえば、仕事上ほとんど関係ないはずなのに、彼女が職場にいたことがあった。意味が分からないので、単に横を通り過ぎただけだったが、その話を聞いたからか?
どうでもいいけど、当事者のすぐ後ろで話すなんて無防備すぎだぞ。いくらわからないような話し方をしても、事情を知ってれば結構推測はつくんだぞ。
そのエピソードの後、その時話していた女性の一人が、見合い話を持ってきた。
「あなたのこと話したら、会ってもいいって」
とのこと。速攻断った。「会ってもいい」と言われても、こっちは別に合わなくてもいいんだけどね。まぁ、相手の子が悪いというより、その女性の話のもっていきかたが悪かったんだろうけど。
また「罪滅ぼし」ってやつ? なんでそうみんな勘違いするんだろうね。俺の方は別に彼女のことで罪滅ぼしされる必要はないんだけどね。
もしくは、彼女の気持ちが揺れないように? だとしたらダシにされる女の子もかわいそうだし、俺だっていい気持ちはしない。
もっとも、断った一番の理由は、見合いの類にもうこりごりだったからだけど。
結局のところ、彼女の結婚生活がどうだったか知らないよ。本当に幸せだったのか、妥協の幸せだったのか、実際は不幸だったのか、俺がとやかくいうべきことじゃない。もちろん、俺の方が彼女を幸せにできたなどと言うつもりはないけど、たとえば、俺がちゃんと彼女を振ってやれれば、彼女はもっと前向きに結婚生活を送れたかも知れないとは思う。
彼女の視点で見ていた彼女の恋、展開してみると実はこんな風になっていたんだよね。俺はどうしたらよかったんだろうか? 理屈で考えれば、どう考えても俺が悪いわけじゃないんだけど、結果として彼女を傷つけてしまったことは今でも気にしている。彼女の気持ちはわかっていたけど、好きという気持ちにまで至らないのに、彼女を思いやって「好きだ」とアプローチするのは不誠実であるように思えた。それなりに確信をもってはいるが、全て俺の妄想だという可能性も捨てきれないしね。彼女から言ってもらえば、それに応えるってことはできたと思うんだが。
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