好きな物語について語る・その1

三角海域

好きな物語について語る・その1

4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて(村上春樹)


カンガルー日和(講談社文庫)に収録


 衝撃。とにかくそれが最初だった。

 主人公が100パーセントの女の子に出会ったのと同じように、僕にとってこの短編は100パーセントだった。

 100パーセントの女の子をタイプファイすることなんて誰にもできないと作中で語られているが、その通りだと思う。実際、僕はこの短編のどこが好きと問われると、ものすごくたどたどしく、この言葉の持っていきかたが、みたいにそれっぽいことを語ることしかできなくなる。

 読了した時、びっくりするほど何も残っていなかった。

 心に大きな穴が開いて、あれこれと考えることが好きなはずの僕の思考と、あれこれと語ることが好きなはずの僕の言葉を根こそぎ吸い込んでしまった。

 読んでいる時には確かにあったはずの強烈な好きという感情。読み直すたび、何度もその感情を頭の中で整理し、今度こそはと思うのだが、読み終えるとやはりその言葉は消えてしまう。

 ひとつの作品として見ると、そこまで強烈な作品というわけではない。100パーセントの女の子と実際に関わるわけではないし、ほとんど独白で進む文章も、所々にお洒落な言い回しがあるものの、主人公の内面に深く入り込んでいくわけでもない。

 一人称ではあるのだけど、そこで表現されるのは、ひたすらに現在なのだ。今この瞬間の感情をどう語るかではなく、その瞬間そのものを言葉にする。自身の気持ちを饒舌に語ったかと思えば、そうした感情の正体を「そういうことなのだ」と自己完結させてしまう。

 なんだろう。どう表現したらいいのだろう。こうして語っている今も、言葉はふわふわと舞っていて、上手くつかみ取ることができないでいる。

 なんとか言葉をひねり出すなら、文章を読むという面白さがあるということだろうか。

 主人公の気持ちに寄り添うとか、そういう部分ではなく、小説という文章媒体において、テキストを読むという面白さに溢れているように感じる。これはこの短編に限った話ではなく、村上春樹の作品全体に言えることかもしれない。

 物語を分解してしまえば、そこにあるのは簡潔な要素であって、その要素を繋ぎ合わせることで、作品が出来上がっている。

 純粋に、「読む」という事に特化しているのかもしれない。

 ~を読むだとか、~を味わうだとか、そういうことではなく、ただそこにある物語を読む。

「昔々」で始まり、「悲しい話だと思いませんか」で終わる。と表現されれば、それはその通りにしかならないのだ。

 無理やりひねり出してみたが、しっくりはこない。けれど、僕が感じた魅力を無理やり言語化するのなら、そういうことだと思う。

 僕がこうして語る言葉、誰かと交わす言葉。それは前にしか進まない。

 心の中で様々な感情が渦巻くのが人間ではあるし、それを表現するのも小説の面白さではあるのだけど、僕たちが普段交わすような、前にしか進めない言葉や、処理しきれないけれど、確かにそこに存在する曖昧で語りようのない言葉を表現として用いることに、なんだか強烈な魅力を感じてしまう。

 あれこれと語ってきたが、とにかく、僕はこの短編のせいで、村上春樹に惚れてしまった。「そういうことなのだ」。

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