2-9

 耳を刺激したのは、聞き覚えのある女子の声。


 その呼び名で俺を呼ぶ女子はアイツしかいない――、アマトはおもむろに目を向けると、


「んあー、遊奈か。どうした、一人か? 脳内に架空のカレシつくって、一人でシミュレーションでもしてる最中だったり?」


 シャギーの入った長い黒髪を振り、愛らしさ満天の顔で彼を覗き込む同級生、――轟遊奈は、


「こらこら、あたしはそんなに寂しい子じゃないです。ついこないだ破局したって、健気に振る舞えるのが遊奈ちゃんスタイルですし」


 白の長袖シャツ、太ももが覗く程度に短いデニムのパンツというシンプルな私服姿。

 遊奈はアマトの隣に腰掛け、


「しのみーは買い物? それとも映画を観に?」

「……んー、どっちも今日は果たした。ま、そんなトコじゃねーの?」


 隣からは目線を外し、濁し気味の口調で彼は告げた。琴夜と二人で買い物に来たとは、なぜか進んで言いたくなかったから。

 しかれども遊奈は、彼の顔を逃さずジッと見つめ、


「ねー、それだけ? 遠くからだと、誰かと待ち合わせしてるように見えたけど?」


 ニコッと顔を緩める彼女。が、その表情に反して、アマトは背筋に薄ら寒い何かを覚える。


「ああ、男友達を待ってたんだ」

「フツー、男って付ける? あれれ、ひょっとしてしのみーって、……ソッチ系?」

「ちげーよ、断じてないわ。わざわざ男って付けたのは、……気にすんな」


 一目すれば見惚れるであろう円らな瞳は見ず、アマトは吹き抜けに語るよう口にする。

 そうすると遊奈は、何の前触れもなしにアマトへと大胆に身を寄せ、


「ちょっと、遊奈……。な、何を……」


 彼に対する遠慮など知らぬように、茶髪で覆われる耳元に唇を添え、


「嘘つき。女の子の匂い、いーっぱい染みこんでるよ?」


 肩に押し付けられる柔らかな感触。耳を刺激する生温かな息遣い。


 その口調こえは心の底を鷲掴みにするような、冷たくて怖いもの。

 ゾクゾクゾクッと背筋を震わせて、アマトは後退りのごとくベンチ端へ退き、


「え、ナニお前!? 不倫でも疑う嫁のつもり!? それ演技だとしたら前人未到のアカデミー主演女優賞三年連続狙えんぞ!?」

「そのリアクション、ビミョー。緊張感ぶち壊しでしょ? もう、しのみーのダメダメさんっ」


「別に今はサスペンスドラマじゃねーし。つーか、それにしてもすっごい冷たい声だったような……」

「ん、気のせいじゃないの?」


 耳に残り続けるあの口調が嘘のように、遊奈は可愛く頬を緩め、


「デリカシーのないしのみーが、まさか女の子とお買いものデートをするなんて、ちょっと信じられないかも。どうしちゃったの、どういう風の吹き回し?」

「やっぱり知ってたのかよ……。ま、女の子と買い物なんて珍しくないし。実家に帰れば、親戚の女の子の買い物によく付き合うけど?」


 女の子とは言っても、五つ年下の小学生ではあるが。


「へー、『俺はハリウッド女優としか付き合わない!』とかドヤ顔で前に言ってなかった? やっぱ琴……時永さんクラスの超絶美少女に誘われると、恥ずかしげもなくホイホイ尻尾振っちゃう?」

「俺は犬か……。なんだ、今日の遊奈はいつにも増して毒舌モードか? ひょっとして琴夜に妬いてるのかよ? ああ、それともお前が琴夜を――……」


 遊奈はアマトの言葉を遮るように、ふふーんと得意げに、


「しのみーが女の子と二人きりで過ごすことに、ちょっぴりムカついたらだよー。あたしの知ってるしのみーじゃないじゃん、って思って。それに、あの部室で年ごろの男女が二人きりなのもどうかなー? あたしみたいな三人目がいれば話は別だけど」

「元々女子は苦手じゃないし。遊奈の知ってる俺なんて、ほんの些細な面だけじゃないッスか?」


「あはは、そうかも。でもでもー、会長さんの件を放ったらかしてデート楽しむことは遊奈、認めないぞ?」

「どうしてそれも知ってるんだよ……」

「このこと、会長さんが知ったらどうなると思う? あのおねーちゃん、怒らせると厄介だし」


「だろうね、普段穏やかな人をキレさせると怖いわ。だから遊奈、今日の件は俺と遊奈だけの秘密にしよう」

「お、それはあたしと対等の人間にしか許されないセリフだぞ?」


 からかい気分でアマトの目を恥ずかしげもなく見る彼女であるが、最後はニコリと、


「わかった、会長さんには内緒にしといてあげる。その代わり、これは貸しだからね? 今後、遊奈が困るような場合は絶対に助ける、いい?」

「勝手に盗った物を返すから対価出せ、って要求する泥棒並みの理論かよっ。……わかった、だけどもしバラしたら、『轟遊奈はマンガやアニメを見たいがために男を落とした女』ってホラを吹いてやるから覚悟しとけよ?」

「……、しのみー怖いっ。こら、女の子に脅迫はダーメ」


 アマトの額をツンとデコピンした彼女は腰を上げ、傍目に向けてチラッと目を細め、


「じゃあね、バイバイ。また来週、文化祭の打ち合わせで」


 気さくに手を振り、こうして彼女は去っていったのであった。

 アマトは黒髪の後姿を見届けたのち、ふぅと一息つき、


「あー、ビックリしたぜ……。まさか遊奈と遭遇するとは…………ってうおおおぃ!!」


 シマリの失くした顔を水平に戻した直後だった。頬を膨らませ、最大限に睨みを利かせている琴夜の姿が目に入ったのは。


「こっ、琴夜! いっ、いつからそこに……」


 むむむっ、という面持ちは変えないまま、彼女は早足でアマトに歩み寄り、


「私たち、別に付き合ってるとか、そういう関係じゃないのはわかってるよ? だけどさぁ、私と別れたのを見計らって、他の女の子と馴れ馴れしくおしゃべりするのはどうなの?」

「いや、遊奈から声を掛けられたんだよ。地蔵になってるわけにもいかないし」


 琴夜は呆れ顔で、その『他の女の子』が先ほど座っていた位置に腰掛け、


「気さくに下の名前で呼んじゃって……。それもよりによって……、なんでこんな時に……」

「……俺だって、正直『轟さん』とでも呼びたいんだよ。だけど遊奈がフレンドリーに呼び合わない? って言うから」


 どうしてなのか、その理由は自身でさえもハッキリとわからない。彼女を見て『遊奈』と呼ぶ際、今でも心残りとも言えそうな違和を感じ取ることに。


「……私のことも?」

「いや、琴夜には感じないんだよな。凪沙も。なぜか遊奈だけなんだよ。……ま、今のは聞かなかったことにしてくれ」


 しかし琴夜は、いつの間にか戻っていた平常時の目顔をアマトに向け、


「ヒント、彼女の目を見ればその答えが見えてくるかも。凪沙ちゃんや涼乃ちゃんとは違う、アマトくんに対するあの目」


 何かを感づいていそうな彼女にアマトは尋ねようとしたが、それを拒むようにオレンジ髪の同級生は立ち上がり、


「あーあ、なんか複雑かも」


 言葉の影に、迷いとも呼べるようなものを纏わせて琴夜は呟く。


「ん、どういう意味?」


 琴夜は横に首を振り、「いーえ」と突き放して、


「さ、プレゼントを買いに行こ? 償いとして、完璧なプレゼント選びをしてくれないと許さないんだからねっ?」

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