真白の巫女と黒鋼のカムイ

橘ツグミ

真白の巫女と黒鋼のカムイ


 少女が、その白い手を遺跡の扉にかけた。掌に力を入れると、格子状の扉は鈍い音を立てながら横に滑り、やがてその内部をあらわにした。

 そこは真っ暗な空間だった。入口を開けたことで空気に流れができたのか、透明な冷気が頬を撫でる。彼女はほんの一瞬だけそれに首をすくめてから、暗闇へと一歩を踏み出した。

 中は広く、壁には朽ちかけの格子窓があるのが見えた。そこから外界の光がかすかに漏れているものの、視界の助けとするにはいささか頼りない。

 そっとため息をついて、少女は後ろ手に扉を閉める。そのときに、ふと、自分の掌が真っ赤な色に染まっていることに気がついてしまって、彼女は反射的に眼を逸らした。

 浅い呼吸を繰り返す音が聞こえる。それはほかならぬ、彼女自身の喉から漏れだす音だった。

 息が弾んで、胸が苦しくて、少女は思わず着物の合わせを握りしめる。そうすると、自分の心臓がどくどくと激しい鼓動を打っているのが、肉と骨越しからでも嫌というほどに伝わってきた。


「……どこかに、隠れて、やり過ごさなきゃ」


 あれから逃げるんだ。そう呟いて、少女はふらふらと歩き出した。左腕に走るじくじくとした痛みに耐えながら、おぼつかない足を引きずるようにして奥へと進む。そのときに、ふと何気なく、彼女は天井を見上げた。

 暗順応を終えていないのでおぼろげにしか見えないものの、何やら大きな絵がえがかれているらしい。幾何学的でありながら、まるで何かを象徴しているかのような巨大な絵画が、天井一面に広がっていた。

 不意に、懐かしいものを見たような不思議な既視感を、少女は心に覚えた。しかし彼女にはその絵を眼にした憶えなんてない。この場所に訪れたのだって、この日が初めてのことだった。

 どうしてだろう、と自身が置かれている状況を忘れかけて天井絵にくぎ付けになっていた、そのとき――何かに足をとられた。

 へ、と間の抜けた声を出した次の瞬間にはもう身体が傾いていて、少女はそのまま、受け身をとることもできずに転倒する。全身に鈍い痛みが広がっていくのを、冷たい床の上で感じていた。


「……っ、あうぅ」


 上半身を起こし、いったい何につまずいてしまったのだろうと、少女は自身の足元に視線を向けた。眼が暗闇に慣れつつあるのか、おぼろげだった視界は、しだいにその輪郭をはっきりと浮かび上がらせてくる。

 そうして少女の眼に飛び込んできたものは、一本の腕だった。

 生身の肉体ではない。黒光りする材質――硬い、鉄のような金属でできた腕。

 それはまるで、あの怪物のような。それを認識した瞬間、彼女の心臓はどくんと大きな音を立てた。

 のけぞりながら後ろにさがって、汗ばんだ手を背中に回す。そして背負っている矢筒から矢を取り出そうとして――そこではたと、彼女は気がついた。


「……カムイじゃ、ない?」


 呆然とそれを見つめていた少女だったが、しばらくしてふと我に返ると、気を落ち着かせるために深く呼吸をした。

 そうして充分に息が整ったところで、彼女はおもむろに、自身の鮮血に塗れた指先を左の掌に走らせた。指を筆のように、血を墨のように使って、迷いのない指遣いでひとつの図形を描く――途端、掌から炎のように、淡い緋色の光が溢れ出した。

 揺れる光で照らすように、少女はそちらへと手をかざす。するとその全身が、闇の中に浮きあがった。

 それは――人間だった。

 人間の、男だった。

 どうやら若い青年らしい。少女より二、三は歳上に見えた。質素な黒ずくめの着物。漆のように黒い髪。目鼻立ちが凛々しく、引き締まった顔立ちをしていることが、暗がりの中でもわかった。

 その男は暗闇の中、仰向けに横たわっていた。そばには彼のものなのか、ひと振りの刀が鞘に納められたまま転がっている。

 彼女は青年の腕へと視線を向けた。光を跳ね返して、冷たく光る鋼の腕。黒い艶を湛えた鉄の指。それらには幾何学的な文様が走っている。

 それが義肢であると、少女は気づく。両の腕を失ってしまっている彼は、しかし穏やかな表情で眼を閉じていた。

 鉄の腕の持ち主が人間だったことにひとまずほっと息を漏らして、彼女は青年のそばに寄る。


「……生きてるの、かな」


 小さく呟いて、彼女は青年の手首に触れる。無機物の腕からは、当たり前だけれど、脈はわからない。彼はどうしてこんなところで倒れているのだろう。自分と同じように、手負いの状態でここに逃げ込んで、そのまま力尽きてしまったのだろうか。

 もしかしたら、もう亡くなっているのかもしれない。そう思うのに、彼の義手にどこか温もりがあるように感じてしまうのは、少女の手が冷たいからなのか。

 濡れた鮮血が、ねっとりと鋼鉄を染めたのがわかる。血は、熱かった。

 そのときだった。

 突如、派手な轟音が暗闇に響く。

 暗い空間が、ほのかに明るくなる。閉めていたはずの扉から光が差し込んでいた。扉が開かれている――いや、もはやそこに存在してさえいなかった。

 扉だったものは吹き飛ばされ、木っ端みじんに砕け散っている。原型を留めていない、ただの木片に成り果てていた。

 めりめり、と。木を押しつぶすような不快な音が聞こえて、彼女は急いで視線を入口に向ける。

 鬼を思わせる巨大な体格。黒く光る鎧に覆われた身体。その装甲は直線的で鋭く、見るものを圧倒させるような威圧感があった。

 鋼鉄を身にまとった怪物が、そこにいた。


「……見つかった」


 少女は愕然と呟く。白い肌から血の気が引いて、顔色は青みを帯びていた。

 音を立てないように膝を立て、今度こそ矢筒から矢を取り出す。それとは反対の手で弓の圧力汽缶きかんを確かめた。

 矢にも弓にも問題はない。いつでも打つことができる。

 そう判断するが早いか、少女は取り出した矢を身体の正面で構えて、すかさず両腕を上げた。そのまま弓を押して、矢を引く。

 矢尻に触れる指が、頼りなく震えていることには、気づかないふりをして。

 一歩、鎧が踏み出す――同時に、少女は矢を放った。汽缶から噴き出した煙が頬にかかって、彼女の髪を乱す。

 放たれた矢は鋭く宙を裂き、鎧の胸部に当たる。乾いた音を響かせて、装甲を僅かにえぐることに成功した。

 間を置かず、少女は次の矢も放つ。しかし今度の矢は鎧に傷ひとつつけることも敵わず、軽い音を立てて跳ね返されてしまった。

 先ほどよりも、明らかに威力が落ちている。

 彼女は思わずうろたえる。そのとき、圧力汽缶から昇るか細い煙が視界に入った。

 ガスが切れている。予備の汽缶はない。


「あ、……ぅ」


 血の気の引いた唇を固く結ぶ。鎧が一歩ずつ接近するたびに、左腕の傷の痛みが深みを増していくように思えた。

 いつの間にか、少女の右手は矢を放して、腕を抑えていた。痛みとともに血が滲んで、視界も霞がかかっていく。


「わたしは生きて、使命を果たさなくちゃ……みんなを幸せにしなきゃなのに」


 死にたくなんてないのに。まだ生きていたいのに。

 消え入りそうな声で、彼女は呟く。


「誰か……誰か、助けて――――」


 涙を含んだ声音で、なかば無意識のうちに少女は乞う――そのとき。

 突如、閃光が走った。

 眼が痛むほどの強烈な光。余りの眩しさに瞼を開けていられず、彼女は反射的に眼を閉じた。真っ白に染まった視界を遮るように、両手を眼の前にかざす。


「――おまえが」


 声が聞こえた。

 若い、男性の声だった。

 抑揚が少なく、感情の温度を感じさせない声色。けれどもどこか穏やかで、静かな響きを含んだ声だった。

 かざしていた手をおろして、少女はつむっていた眼をそっと開く。

 そこに立っていたのは、黒ずくめの着物と、漆の黒髪――そして、鋼鉄の腕をもった青年だった。

 切れ長の眼が、開かれている。

 獣のような金色の瞳が、暗闇の中でも輝いて、彼女を見おろしていた。


「おまえが、おれを呼んだのか」



* * * * *



 眼の前に白い少女がいた。

 少女の年齢は十代のなかばほど。柔らかい曲線を描いた輪郭と華奢な身体つきが、はおっている着物の上からもわかる。しかしその身に釣り合わない無骨な弓と、それにつがえるための矢がそばにあった。額には黒い鉢巻を巻いており、その下から流れた汗が、光を反射してほのかに輝いている。

 透き通るように白い髪。抜けるように白い肌。身体中どこにも濁りや穢れのようなものがない。頭の先から指の先まで、彼女は混じり気がなく白かった。

 ただひとつその白を染めていたのは、左腕から流れる鮮血だけだった。


「あなたは……」


 少女は口を開くも、しかし言葉が続かないようだった――否、続けることができなかった。

 木目の床を踏みつぶすように、鋼鉄をまとった怪物がまた一歩、二人に向かって接近してきたからだ。

 我に返ったように少女は顔を上げて、弓矢を手に立ちあがろうとする。


「わたしが囮になるから、そのあいだにあなたは――」


 ハクアは青年のほうを振り向かずに告げる。けれど、逃げて、と続けようとした声を遮るように、


「負傷者一名。守るべき対象と判断する」


 と。

 青年が、言葉を発した。


「標的は一人。眼前の鎧武者。武器は所持していないと予測」


 淡々と単語を並べるようなその声に、少女は思わず顔を上げる。そこで初めて、彼が既に刀を抜いていたことに気付いた。

 氷のように白い刀身が、外の光を受けて鋭く光る。


「戦闘を、開始する」


 その言葉と同時に――青年は駆け出した。

 姿勢を低く、床を滑るように加速し、一瞬にして彼は鎧と距離を詰める。そして懐に飛び込むと同時に、すかさず下から斬りあげた。

 しかし鋼鉄の武者は、その太い腕で彼の刃をやすやすと受け止める。鋼と鉄が衝突する音が響き、眼の前に火花が飛び散った。

 三歩、後ろに跳んで間合いをとり、刀を上に構えて、静かに右足を踏み込む。

 その距離を詰めるように、鎧武者が突進する。鋼鉄の腕を大きく振りかぶり、青年目がけて、勢いよく振りおろした。

 彼は飛んでくる拳を受け流そうとするが、しかし勢いを殺しきることができず、左肩に重い一撃を受けてしまう。腕全体に衝撃が走り、脳に鈍い痛みが響いた。

 けれど、身体は揺らさない。腰の重心を下げることで衝撃に耐え、更に踏み込む。青年は肩の骨が軋む音に眉をひそめて、しかし獣のような眼光で眼の前の敵を鋭く睨みつけた。

 そして、右足を軸に左足を勢いよく引きつけて鎧の腕をかいくぐり――胴体に、刀を打ち当てる。

 鎧をまとった巨躯の動きが止まる。そのとき、びしり、と何か重く乾いた音が耳に届いた。

 そちらに視線を向けると、刃の衝突した箇所に、深いひびが入っているのが見えた。やがてそれは、さながら蜘蛛の巣のように瞬く間に亀裂を広げていき、ほどなくして、その鋼鉄の内部をあらわにする。

 それを眼にしたとき、青年は大きく眼を見開いた。

 鎧の中には、誰も入ってなどいなかった。

 鋼の骨格、鉄のからくり、それらを結びつける数えきれないほどの線や管――そして胸部の中心に存在する、鈍い光を放つ深緋色の石。

 想像だにしていなかったその光景に、青年は数秒、ただ呆然と鎧の中を見つめてしまっていた。


「――心臓!」


 突然。鼓膜を震わせた少女の声に、はっと我に返る。


「心臓の核を壊して!」


 その声に応えるように、即座に一歩引いて刀を構えた。右手の力を抜いて、腰を落とすと――思い切り踏み込んで、心臓部の石に突きを放つ。

 刃が石を砕き、ばらばらになった欠片が飛び散っていく。それを視界の端で捉えた次の瞬間、赤い閃光が、彼の身体を包み込んだ。

 突然の強い光に眼がくらみ、青年は反射的に瞼を閉じる。


「……大丈夫?」


 不意にかけられたその声に、彼は閉じていた眼を開く。視界はまだ少し点滅していた。いずれ治まるだろうと判断して、数回まばたきを繰り返す。

 いつの間にか、眼の前に白い少女が立っていた。彼女はどこか憂わしげな顔つきで青年のことを見つめている。


「……大丈夫かというのは、おれに向けた問いか?」

「えっ、そ、そうだけど……」

「ふむ」


 ひとつうなずいて、青年は自分の身体を見おろした。


「負傷は左肩のみ――軽傷と判断。筋肉系統、問題なし。内臓挫傷、問題なし。関節…………ん、義手だったのか。まあ特に問題なし。疲労は多少蓄積されているが、休息は不要と判断する」

「……ええと。大丈夫そう、ってことでいいのかな?」

「その認識で問題ない」

「ならよかった」


 朴訥とした口振りで少女の問いを肯定すると、彼女はほっとしたふうに破顔してみせた。


「わたしの名前は、ハクア。助けてくれてありがとう」

「ハクア」


 青年は彼女の名前を繰り返す。


「うん、巫女トゥスノのハクアだよ。……それで、その、あなたは?」

「おれは――」


 その問いに答えようとして、しかし不意に、青年は何かを思いとどまったかのように口をつぐんだ。先ほどまでの表情とは打って変わり、その顔には怪訝けげんの色が浮かんでいる。ハクアと名乗った少女は、そんな彼の様子をただ不思議そうに見つめていた。

 何かを納得しかねているような表情で青年は首をひねっていたが、しばらくして、


「――おれは、誰だ?」


 と、独り言のように呟いた。その声音はさほど深刻そうなものではなかったものの、そんな彼とは対照的に、ハクアは眼を丸くさせる。


「どこから来たの?」

「わからない」

「家族は、わかる?」

「わからない」

「うーん……本当に何も思い出せないって感じだね」


 ためらいがちに投げられたハクアの言葉にも、彼は無言でうなずいた。

 記憶がない。どこから来たのか、親や兄弟はいるのか、どうしてこんなところで眠っていたのか――自分が何者なのかさえ、何も思い出すことができない。


「それにしては随分と落ち着いてるね……?」

「原因が不明で、かつ具体的な解決策も浮かばない以上、うろたえても意味はないからな」

「ご、合理的……」


 記憶を失っているとは到底思えないその合理さに、やや戸惑いぎみの笑みを漏らすハクア。それを仕切り直すように、よし、と彼女は手を打った。


「あのね、ここから東に進んだところにオシュマってくにがあるの。よかったらわたしと一緒に行かない?」

「おまえと?」

「ずっとこんなところにいても仕方ないでしょ?」

「……ふむ」


 どうかな? と反応をうかがうハクアに、青年は切れ長の眼を伏せて考え込む。その様子を受けてか、彼女も答えを急かすようなことはせず、ただ静かに彼の決断を待っていた。

 ほどなくして、


「……理解した。おまえの言葉におれは従おう」


 彼なりの結論が出たのか、青年はそう言ってうなずいた。その返答にハクアは表情を和らげる。


「よかった。これからよろしくね」

「ああ。よろしく頼む」

「それじゃあ、早速だけど行こうか。着いてきてね」


 言いながら、ハクアは弓と矢筒を背負い直す。そして破壊された入口に向かって歩き出そうとしたところで、


「あ、そうだ」


 と、思い出したように振り返って青年のほうを見上げた。


「あなたのお名前はどうしよう」

「名前? おれのか?」

「呼び名もないってなると、これからきっと不都合になると思うよ。あなたを呼ぶこともできないし、入國も認めてもらえないかも……」

「確かにそれは不便だな。おまえに呼ばれても気づけないようでは困る」


 青年は同意するように繰り返しうなずいて、それからハクアへと向き直る。


「ならおまえが名づけてくれ」

「わたしが? いいの?」


 無言で首肯する青年。責任重大だね、とハクアは困ったように笑って、それから唇に指を当てて思案するようなそぶりを見せる。

 しばらくの沈黙のあと、ふと思いついたように、彼女は口を開いた。


「――クロウ」


 ハクアは顔を上げて、青年に向かって微笑を浮かべて見せた。歳相応にあどけなくて、それでいながら慈愛を感じさせるような表情だった。


「あなたの名前は、クロウ。仮だけど、あなたは今日からクロウだよ」


 クロウ。その名前を、青年は反芻するように繰り返す。当然ながら聞き憶えのない言葉である。それが自分の呼び名になるということに、彼は少しばかりの違和感を覚えた。

 けれどその名は、記憶がない自分でも懐かしさを感じるような、そんな響きがあるように思えた。


「了解した。おれはクロウと名乗ることにしよう」

「うん。由緒のある名前だから、気に入ってくれたら嬉しいな」

「謂れがある名なのか?」


 青年の問いかけに、そうだね、とハクアはうなずいた。


神話ユーカラに謳われる――《黒き英雄》のお名前だからね」



* * * * *



 外に出ると、そこは色のない世界だった。

 視界が広く開けている。どうやらこの場所は山の上にあったようだ。大地は一面の灰白色に覆われていて、針のような葉を生やした木が、ときおり、枝葉に積もったそれを凍てついた地上に振り落としている。

 空を見あげてみた。雲は鉛のように垂れ込んでいて、の光が射し込む隙間もない。そこから粉のようなものが舞い降りてきて、思わず掌で受け止める。しかし、すぐに溶けて消えてしまった。無機物の肌ではその温度を感じることはできないものの、代わりに澄んだ冷たい風が容赦なく彼の頬を刺してくる。

 音という音が吸い込まれたかのように、静かな世界だった。


「雪だ……そうか、そんな季節だったのか。どうりで冷えると思った」

「ゆき? これはウナだよ」

「ウナ」

「吸っちゃ駄目だよ、毒があるから」


 そんなことを言いながら、ハクアは自身の懐へと手を伸ばす。そして下半分しかない無骨な仮面のようなものを取り出すと、そのまま顔に装着し始めた。


「何だそれは。面具のたぐいか?」

「めんぐ……っていうのはわかんないけど、これはマスクだよ」

「マスク」

「ウナを吸わないためのものだね。ほら、あなたもこれ使って。当座の代用で申し訳ないけど、ないよりはましだと思うから」


 そう言って、ハクアは額に巻いていた鉢巻を外して彼へと差し出す。クロウは手渡されたそれをためつすがめつ眺めたあと、彼女を倣うようにして鼻と口元に巻いた。

 そして二人はどちらからともなく下山を始めた。深く積もっている雪――彼女がウナと呼んだそれに足が沈まないよう気をつけながら、山麓を目指して慎重に斜面をおりていく。


「そういえば、先ほどのあれはいったい何なんだ。無人の鎧が独りでに動いていたが」

「えっ……あ、そうか。あなたは知らないんだよね。…………あれが何かもわからないのに戦ったの? そんなこと、普通はできないよ」

「そういうものだろうか。降りかかる火の粉を払うのは生物として当然の反応だと思うが。それに――」

「それに?」


 何かを言いさした様子の彼が気になって、ハクアはちらりと後ろを振り返る。しかしクロウは、些末なことだ、と返して首を横に振るだけだった。


「そう……まあ、大したことじゃないならいいの。それで、カムイの話だったね」

「カムイ」


 彼はハクアの言葉をそのまま繰り返す。どうやら初めて耳にした単語はつい繰り返してしまうようだ。


「カムイについては、正直、まだわかってないことのほうが多いんだよね」


 そう言って、ハクアは困ったように笑った。

 カムイの生態として判明しているのは〝大戦〟が終わって以降、千年ものあいだこの地を彷徨っていること。人の生き血を動力としているために、人間を襲い続けていること。

 何より異彩を放っているのは、その身体が鋼鉄製だということだ。だからこそ胸部の核を破壊しない限り、カムイは決して死ぬことはない。

 それくらいかな、とハクアは締めくくった。


「鋼鉄――黒鋼くろがね、か」


 彼女の話を受けて、クロウは小さく呟いた。


「大戦とは何だ」

「千年前に起こった、人と神さまの戦いのことだけど……」


 彼の前を先導していたハクアは、そこで一度言葉を切る。


「もしかして、神話ユーカラも知らない?」

「先ほどからおまえの言葉には知らない単語しかない」

「あう。困ったね」

「困りものだな、我ながら」


 そんなやり取りを交わしている間に、二人は山の麓に到着する。そこには木材や茅葺でできているらしい家々が、寄り合うように固まって並んでいた。

 集落だろうか――そんな印象をクロウは抱いた。しかしそこに立ち並ぶ家屋は全て壁が剥がれており、柱は朽ち果て、屋根も瓦礫の中に崩れ落ちてしまっている。何年も、あるいは何十年も昔から人が住んでいないかのように、ひどく荒廃した景色が広がっていた。


「この集落に人はいないのか」

「集落って……クロウには、これが里とか村とかに見えるの?」

「クロウ?」


 ああ、おれの名前か。彼は人ごとのように呟く。


「もう地上に人はほとんどいないよ。ウナが降るし、カムイもいるから。みんなは普段地下で暮らしてるの」

「地下」

「あ、ちょうどよかった。あれに乗らなくちゃ」


 そう言って彼女が指で示したのは――連なるようにしてそこに存在する、巨大な黒い箱だった。

 箱同士は何らかの部品で連結されているらしく、それらが繋がっているさまはさながら巨大な蛇のようだった。側面には透明な板がはめ込まれていて、箱の下には歯車のような部品も取りつけられている。

 その巨大な鋼鉄の箱の前に、一人の男が立っている。ハクアが着けているものとはまた別個のものなのか、その男は顔面全体を覆うような形状のマスクをしていた。

 ハクアは迷いのない足取りでそちらへと向かっていく。クロウがそのあとを追おうとすると、男のほうも二人に気づいたらしい。マスクの奥からのぞく眼と、視線が合ったような気がした。


「こんにちは。寒い中お疲れさまです」

「職務ですので。ご乗車されるならお名前とお國を端的にお答えください」

「ハクアです。ケミカワのウェンカル村から来ました」

「ケミカワ國の……ああっ、あなたが巫女トゥスノのハクア様ですか! お待ちしておりました!」


 直前まで愛想なく応対していた男が、途端に態度を変えた。その変わり身の早さに、クロウは男のことをまじまじと見つめる。そんな彼の視線に気づいたのか、男はばつが悪そうにひとつせき払いをした。


「そちらは巫女様の侍衛クィンジュでしょうか」

「あ、ええと。いろいろと事情があって……彼も一緒に入國できますか?」

「伝えさせましょう。お名前をうかがっても?」

「クロウです」

「……それはまた、お若いのに珍しい名を授かりましたね」


 言いながら、男は二枚の紙をハクアに手渡す。彼女はそれを受け取ると、クロウを連れて箱の中に乗り込んだ。

 外から見た印象よりも、中は割合広く感じられた。壁を背にするようにして配置されている腰かけに、ハクアは慣れた仕草でその腰を落ち着ける。所作が板についているな、とクロウは思った。きっと彼女は数えきれないほどにこの箱を利用してきたのだろう。

 そんなことを考えていると、不意にハクアがクロウのほうを見上げた。彼女はクロウと眼が合うと優しげに微笑んで、ぽんぽんと自身の隣をたたいて示す。それに促されるように彼も座席へと腰を下ろした。

 ハクアがマスクを外して、ほっとしたように息を漏らした。そんな彼女に倣って、クロウも口元に巻いている鉢巻をほどく。


「これ、返す。ありがとう」

「あげるよ。わたしたちの縁の証に」

「いや、しかしだな」

「いいのいいの。ちょっとあっち向いてくれるかなー」


 言われるがまま素直に背中を向けると、額に鉢巻が当てられた。頭の後ろで結ばれているのを感じながら、クロウは箱の中を興味深そうに観察している。


「これは何なんだ?」

「機関車だよ」

「機関車」

「うん。蒸汽機関車」


 そのとき。

 突如、箱の外から甲高かんだかい音が響き渡った。


「――蒸気?」


 そんな呟きをこぼした直後、底から打ち上げてくるような振動が二人を包み込んだ。

 反射的に、クロウは透明の板越しに箱の外へと視線を向ける。灰白色に染まった世界が、滑らかに、流れるように過ぎ去っていくさまを眼にして、彼は思わず身を乗り出した。

 見あげると、空に黒い煙が昇っているのが確認できた。その視線を今度は下のほうに移す。どうやらこの箱は鉄の線の上を走っているらしい。

 しばらくそうして流れていく景色を眺めていると、突然、がくんと大きく身体が揺れた。箱全体が激しく震えている。その振動に、クロウは浮遊感にも似た奇妙な違和感を覚えた。そこでもう一度外へと眼をやろうとする。しかし透明な板の向こう側は真っ暗闇で、夜の水鏡のように二人の姿を映していた。

 機関車という乗り物はその後も単調な振動を立て続け、さほど長くもない時間を経たころ――また、あの大きな音を立ててその動きを止めた。

 着いたね、とハクアが席を立つ。先導する彼女に連れられて、クロウは地下の國へと降り立った。

 そこは、夜の世界だった。

 暗がりに家々の明かりがいくつも浮かんでいて、まるで炎が群れを成しているようだった。空を見あげると、どこまでも続きそうな闇ばかりが広がっている。月も、星も浮かんでいない。ときおり、どこかから白い煙が噴き出しているのが見えるだけだった。

 先ほど眼にした廃村とは違い、地下の國には石造りらしい建物が立ち並んでいた。その全てが、深い闇に沈まないように、きらびやかに火を灯している。遠くには赤い鉄の柱が何本も立っているのが見えた。足元にも、同じ色の太い管が何本も無数に走っている。


「ようこそ、巫女様。私はこのオシュマのおう、サクサインである」


 視線をあちこちに移動させていたクロウは、不意に投げかけられたその声に振り返る。

 そこには一人の、大柄な体格の男がいた。彫りの深い顔立ちに、灰の交じった濃い髭を生やしている。既に初老にさしかかっている年齢のようだが、その立ち居振る舞いに衰えや弱さといったものは一切見受けられない。老練という言葉を想起させるような、そんな空気をまとう男だった。


「はじめまして、サクサインさま。お会いできて嬉しいです。わたしはハクア、こちらはクロウと申します。……クロウ、ご挨拶して。これからお世話になるおかただから」

「……この男、今王と名乗っていたが」

「オシュマで一番偉い人だもの」


 なるほど、と声を静めたままうなずくクロウ。それから顔を上げると、サクサインに向かって恭しく頭を下げた。


「紹介にあずかった。クロウという」

「ふむ……古き良き名だ」


 簡単な挨拶を済ませたのち、彼はクロウとハクアを自身の宮廷へと案内した。滞在中は自由に使っていいと言われて通された部屋は、二人で過ごすには少しばかり広い印象がある。

 使用人たちが料理や寝具を運び終わると、広い室内にはクロウとハクアだけが残された。


「さ、クロウ。肩の怪我を治療するから服を脱いでね」


 背負っていた矢筒や荷物を降ろしながら、ハクアは言った。


「この程度、唾でもつければ治るだろう」

「駄目だよ。めっ」


 聞き分けのない子供をしかるようなその言い方に、クロウは思わず閉口した。おとなしく彼女の言葉に従ったほうが賢明だと判断して、無言のまま羽織を床に落とす。

 黙々と、クロウは着物の襟を開いて腕まで下げる。そうしてあらわになった彼の上半身を見て、ハクアは大きく眼を見開いた。

 彼の身体には刺青が彫られていた。それ自体は特筆して珍しいことではない――ただ、その刺青が施されている範囲がいささか異質だったのだ。

 首から腰にかけて、どころか背中から腹部に至るまで。くまなく肌を塗りつぶすかのように、幾何学的な刺青が彫られている。そしてそれは二の腕と義手の境界を超えて、義手に刻まれている線と繋がっていた。


「――術、式?」


 無意識のうちに、ハクアはそんな呟きをこぼしていた。


「術式とは何だ」

「あ、えっと、なんでもないよ」

「そうか?」

「うん。でも……」


 上半身に広がる刺青をなぞるように、ハクアは彼の背中に指をわせた。無機質な鋼鉄の腕からは感じられなかった、クロウ本来の体温を指先から感じる。


「……この刺青のことも、憶えてないの?」

「どころか今知ったな」


 料理が盛りつけられた皿に義手を伸ばして、クロウは答える。背中から伝わる温度とは対照的に、相も変わらず淡々とした口調だった。


「……自分のことが何もわからないって、不安じゃない?」

「ん? いや、さほどだな」


 気遣わしげにかけられた問いにそう返してから、クロウは椀の中の料理をかき込んだ。喉仏がせわしく上下している。表情は朴訥としたままだが、どうやらかなり味を気に入ったらしい。見ていて気持ちがいいほどの喰いっぷりに、ハクアは思わず頬を綻ばせた。


「クロウは変な人だね」


 そう言って、ハクアは彼の刺青から指を離す。そして荷物の中から薬草を数種取り出した。


「トゥスノとは何だ」


 椀をかき込みつつ、クロウは振り向かずに訊ねた。その問いに、彼女は薬草の準備をしていた手を止める。


「そうだね……今から千年くらい昔の出来事なんだけど、かつてこの大陸で、わたしたちの祖先が神さまと争ったことがあるんだよ」

「そういえば先ほどもそんな話をしていたな。大戦と言っていたか」

「うん。それである日、《白き女神》って呼ばれるおかたが人々の前に現れたの」


 ハクアは一度そこで言葉を切り、改めて神話の続きを物語る。


「女神さまはとても慈悲深いおかたで、神さまたちの中でただひと柱、人類の味方になってくれた。そして《黒き英雄》――カムラクロウって名前の英雄と一緒に、戦争で人々を勝利に導いたんだよ」


 それが、この大陸に伝わる神話。彼女はそう締めくくった。

 神話――ユーカラ。

 千年前の大戦において人類を勝利へと導いた、カムラクロウと呼ばれる男の英雄譚。


「クロウの名前は《黒き英雄》から借りたんだよ。どう思う? 強そう? かっこいい?」

「珍しいだの古いだのとさんざん言われたが」

「あう……たしかにちょっと古風かもだけど」


 こほん、と。ハクアはごまかすようにせき払いをする。


「つまり巫女っていうのは、その《白き女神》の神託を受けて生まれてきた女性のこと。そして、わたしが女神さまから任された使命は――この大陸を救ってくれる英雄を、必ず見つけ出すこと」


 空は厚い雲に覆われ、ウナが含む毒は人々の命を犯し、鋼鉄の怪物は生き血を求めて地上を彷徨っている。生存をおびやかされた人類は地下に國を築き、死と隣り合わせの日々を過ごしながら、息を殺すようにして生きている。

 人が人らしく生きるには余りにも過酷すぎるこの大地には、たしかに必要なのだろう。《黒き英雄》――カムラクロウとやらに続く、新しい英雄が。

 しかし、それは――


「みんなを幸せにする。そのために、わたしは生まれてきたんだよ」


 そう語るハクアは笑顔だった。

 けれど、彼のことを見つめる瞳はひどく刹那的で――そしてそれは、この年齢の少女がもつにはおおよそ似つかわしくないもので。

 どこかが矛盾していて、何かが相反してしまっている。そんなちぐはぐな表情だと、クロウは思った。


「おれは」


 彼はおもむろに口を開く。


「ハクアは、ハクアのために生きるべきだと、おれは、そう思う」


 そう言ったクロウの声音には確かな熱が宿っていて、これまでの抑揚の少ない口調とは一転しているものだった。


「……クロウは、変な人だね」


 ハクアは優しげな微笑を浮かべて、そう言った。


「そんなこと、普通の人は言わないもん」



* * * * *



 その部屋には独特の匂いが漂っていた。物珍しげに室内の空気を嗅いでいるクロウに、薬草の香りだよ、とハクアが囁く。

 夜の帳が降りたころ――とは言っても、國が地中にあるためいまひとつ現実味がないのだが――一人の使用人が二人の元を訪れた。

 皇がハクアを呼んでいる。使用人はそう言った。彼女はすぐに承知して、クロウも無言でうなずく。

 案内されるまま向かった広間には、足の踏み場もないほどに、多くの布団が隙間なく敷き詰められていた。当然、その中には多くの人々が眠っている。それだけ大勢の人が集められているというのに、扉を開ける音が響くほどに中は静かだった。

 けれどその静寂は、地上で体感した清澄なものではない。この部屋の空気はひたすらに重く、淀んでいるように思えた。


「この人たちはね、みんな患者さんなんだよ」


 そう説明するやいなや、ハクアは眠っている患者の胸元をくつろげる。短刀で自分の指を切ると、傷口から滴る血で胸のあたりに図形を描く――と、血で描かれたそれが、鈍い光を放ち始めた。見る間に患者たちの表情が和らいでいき、それと同時に彼らがかすかに漏らしていたうめき声も止まる。

 そんな彼女の動向を、クロウは壁に寄りかかって注視していた。目覚めた患者やハクアの手伝いをしているらしき使用人たちが、次々に感謝の言葉を並べている。

 さすがは巫女様、我らが聖女様、と。

 それに対して、ハクアはただ微笑んでいる。ただ単に、笑っているだけに見えた。


「クロウ殿」


 その声に、クロウは一瞬反応が遅れた。呆けていたわけではない。クロウ、というその名前にまだ慣れていなくて、自分が呼ばれたとすぐに気づけなかったのだ。

 一拍遅れて、声が聞こえた方向へと振り返る。そこにはオシュマの皇・サクサインが立っていた。


「貴殿は記憶を失ってしまっていると、巫女トゥスノ様にうかがったのだが」

「……トゥスノ様、か」

「うむ?」

「いや、独り言だ。失礼した……記憶を失っているのはその通りだが、それが?」

「そうか……貴殿の心中は察して余りあるが、しかし案ずることはない。記憶を思い出すまで、クロウ殿の身はこのオシュマで世話をすると巫女様と約束したのだ」

「ハクアと……」


 そう呟くと、クロウはくだんの彼女へと眼をやる。


「あいつは何をしているんだ」

「見るのは初めてか。彼女はウナを浄化しているのだ」

「ウナ……あの雪のことか」

「ゆきとは?」


 怪訝な顔つきでクロウを見るサクサインに、なんでもない、と彼は返した。

 吸っちゃ駄目だよ、毒があるから――ハクアの言葉を思い浮かべて、彼は自分の額に巻かれた鉢巻に触れた。無機物の腕では、当然ながらその感触はわからない。


「この大陸にウナが染み込んでいない地などありはしない。飲み水は当然のこと、作物を育てるのにもウナの混じった水を使用することになる」

「それでは、国民は皆、ウナの毒に晒されてしまっているのか?」

「いや、浄水機で絶えず濾過は行っている。ゆえに口にしてもさほど害はないし、摂取したところで毒素はいずれ体外に出ていく。……が。積み重なれば、無論その影響は計り知れない」


 そう語る皇の声はひどく穏やかなものだったが、しかし努めて冷静であることを己に強いているようにも思えた。実際、その表情には僅かながらも苦悶の色が刻まれている。

 不意に、皇はやおら顔を上げた。その視線の先には、なおも患者たちの胸に図形を描き続けるハクアがいる。彼女を見つめる眼差しは、まさに藁にも縋るという言葉が似つかわしいものだった。


「……あれこそが法術」

「法術」

「術式に血を流す、または血で術式を描くことで奇跡のような現象を起こすわざのことだ。貴殿の義手に刻まれているそれも、恐らくは術式の一種だろう」


 クロウは鉢巻に触れていた腕を降ろして、そのまま義手へと眼を向けた。冷たい鋼鉄の腕と、それに走った幾何学的な線。なぜ己の腕は義肢なのか、そして全身に刻まれた刺青は何なのか――そもそも自分は何者なのか、何もわからない。

 もしもこの文様が、皇の言う術式というものだとすれば――


「この大陸で法術を扱えるのは、女神の加護を受けた巫女――つまりは彼女ただ一人。彼女は各國を旅し、その奇跡でウナの毒に犯された人々を癒しているのだ」

「……あいつだけ、か」


 その言葉に、クロウは改めてハクアを見る。彼女は今しがた切ったばかりの指とは別の指を、また短刀で切りつけているところだった。新たに生まれた傷口からぷくりと血が膨れ上がり、雫となったそれは、ややあって筋を描きながら落ちていく。

 白く細い指に滴る血を、ハクアは再び床に臥せる者たちの胸元へと塗りつけた。癒すための術式を描いて、やがて傷口から血が止まるともう一度指先を切り、そして次の患者を癒す。その繰り返しだった。

 そんなハクアに、周囲の者たちは心酔したような眼差しを注いでいる。その光景は、クロウの眼には異様を通り越して狂気的にさえ映った。


「…………」


 ハクアと出会ったとき、彼女は左腕に深手を負っていた。いつの間にかそれが癒えていることを考えるに、くだんの法術とやらは、彼女自身の傷を治すこともできるのだろう。

 今は傷だらけで鮮血に染まっている指先も、いずれ跡形もなく、傷痕が残ることもなく治癒されるのかもしれない。

 ……けれど。

 だからといって、そのときに感じた痛みまで、無かったことにはならないはずだ。


「さすがは、我らが巫女様である」


 不意に、サクサインがそう呟いた。それはクロウに向けてのものではなく、何気なくひとりごちただけの言葉だったのだろう。

 けれどその呟きははっきりとクロウの耳に届き、そしてその瞬間、彼の心臓は唐突に沸騰を起こした。腹の奥底で煮え立った何かが頭にまで昇って、じりじりと脳を焦がしてくるような錯覚さえ起こしている。

 感情が荒れている。彼は人ごとのように――あるいは俯瞰的に、そう判断した。どうしてだろう。わからない。ならば考えよう。クロウは静かに眼を閉じて、思考する。霧がかかったような頭の中を整理するために、懐に手を入れて考えた。

 しばらくの沈思の末に、彼は瞼を開く。


「……なるほど、理解した」


 その独白のような声に、サクサインはハクアから眼を外して、何気なく隣の青年へと再び意識を戻す。

 そして、獣のような眼光で皇を射貫く、彼の眼と視線が交わった。


「つまりおまえたちは、あいつに依存しているんだな」


 サクサインを見上げるようにして、クロウは言い放つ。その声は彼の眼光以上に鋭く、何より真っ直ぐなものだった。


「……依存だと? 我々がか? いったい何の話をしだすんだ、突然」

「違うのか」


 クロウの威圧的な語気に、サクサインは戸惑っていた。先ほどまでのどこか朴訥とした雰囲気のあった青年とは、まるで別人のようだったからだ。


「誰も彼もがあいつのことをトゥスノ様と呼ぶ。よくもまあ、一人の少女にそこまで寄りかかれるものだ。法術を扱えるのはハクアだけと言ったか? それがどうした、自傷行為だぞ。神聖だの霊力だのはおれにはわからないが――血を流していることに、変わりはないだろう」


 彼の口調は、あくまでも淡々としたそれだ。しかしその語気には、触れれば斬れるような鋭利さがある。

 まるで、刀だった。ひと振りの、鋼鉄の刀のようだった。


「しかしこれは、言うならば巫女様――ハクア殿の使命なのだ。記憶のない貴殿には理解しがたいやもしれぬが、それは我らが唯一神……白く尊き、アイナレタルより託されたもの。放棄するなど、できようはずもない」

「…………ああ、そういうことか」


 弁解のような皇の言葉に、そこでようやく得心がいったようにクロウはうなずいた。それからおもむろに、切れ長の眼を伏せる。


「大人たちが寄ってたかって、一人の少女にそんな使命ものを押しつけていることに、誰も罪悪感を抱かないんだな」


 と。

 彼はそう、言葉を続けた。


「それがこの世界の常識なんだな。把握した……把握はできたが、しかし…………」


 抑揚の少ない声で何事かを呟くクロウ。その声からは既に皇を弾劾するような鋭さはなくなっている。

 それでも、自分よりふた回りは年若い青年の言葉に、サクサインは眼を大きく見開いた――――そのとき。

 突如、地下空間にすさまじい轟音が響いた。

 上空から何かがなだれ込むかのような、荒々しく激しい物音。音自体は一瞬で終わったものの、地鳴りのような唸りはなおも続いている。

 人々のざわめきが、部屋の中で渦を巻いていた。緊張感と不安が瞬く間に室内を支配する。さまざまな声や言葉があちこちで交差していて、音が洪水を起こしているかのようだった。

 反射的に、クロウはハクアのほうを見た。視界に捉えた彼女は顔から血の気が引いていて、白い肌が更にその色を失っている。唇を震わせながら、何か考え込んでいる様子だった。


「サクサイン皇!」


 大きな音を立てて、扉が開かれる。それと同時に若い男が室内に飛び込んできた。荒い呼吸を繰り返し、大量の汗を流している。激しく肩を揺らしながらも、彼は自分の責務を果たそうと皇に向き合った。


「カムイが……カムイが多数、東の門から侵入しました! 現在死者はおりませんが、重軽傷者が多数!」


 瞬間、裂けるような悲鳴が上がった。叫び声と泣き声が室内を満たしていく。助けを求める言葉が聞こえた。誰かが嗚咽するような声もしている。人から人へ、恐怖が感染していっているようだった。

 そのとき、唐突にハクアが立ち上がった。彼女は弓と矢筒を手に取り、部屋を後にすると長い回廊を全速力で駆けていって、宮廷の外へと飛び出す。クロウが後を追って外に出ると、ハクアは逃げ惑う人々を躱すようにして走っているところだった。

 彼女は、東へと向かっていた。


「ハクア!」


 彼女の背中に追いついて腕をつかむと、ようやくハクアは立ち止まった。少女らしい、華奢な腕。鋼鉄の手で握ったら折れてしまいそうなほどに、ハクアの腕は細かった。

 こんな細腕で、彼女は、人類を救うという大役を背負わされているのだ。


「……わたしが囮になる。時間を稼いでくるから、クロウは皇さまに、みんなを安全な場所に避難させてって、伝えてくれる?」

「理解できない。何がおまえをそこまでさせる」


 ハクアの身体を引き寄せて、クロウはなかば無理やりに自分と向き合わせた。それでも彼女は往生際悪くクロウから眼を背けようとする。その横顔は何かをためらっているような、あるいは尻込みしているかのような、そんな表情だった。

 クロウは再び、ハクア、と彼女の名前を呼ぶ。それで観念したのか、ハクアはようやく顔を上げた。そしてクロウを見上げると、彼女らしくもない、力のない微笑を浮かべる。


「……わたし、ね。カムイを引き寄せる体質なんだ」


 だから、わたしがいたらみんなを不幸にしちゃうんだよ。と、そう言った。

 あどけない少女が、誰にも言えなかった秘密を打ち明けるような、そんな声音で。


「わたしの血ってね、特別なんだよ。法術を使えるだけじゃない――わたしの血を狙って、カムイがやってくる。前の巫女も、その前の巫女も……みんな使命を果たせないまま、カムイに殺されちゃったんだって」


 さながら懺悔のようなその言葉に、クロウは僅かに眼を見開く。しかしすぐに表情を引き締めた。


「それが事実だとしても、今は逃げるべきだ」

「わかってる」

「囮になったとして、無事に助かる保障はない」

「わかってる」

「……おまえ一人が、犬死にすることになるかもしれない」

「わかってる」


 わかってるよ。ハクアは念押しするように――あるいは自分自身に言い聞かせるかのように、そう繰り返した。表情には笑みを浮かべている。微笑を、顔に張りつけている。

 そして彼女は、クロウの腕を振りほどこうとした。



「――――わかっていないっ!!」



 男の声が響いた。怒りと、苛立ちをあらわにした――激しい感情のこもった、怒鳴り声。

 その声に、ハクアは大きく眼を見張る。怒声の主が、眼の前の青年だったからだ。

 この青年は、抑揚のない口調で話し、合理的な考え方をして、無機質なほどに感情を表には出さない人物だったはずだ。そんな彼が、ここまで激情を剥き出しにするなんて、ハクアには思いもよらなかった。

 ……いや、違う。

 もしかしたら、これこそが、彼の本来の人間性なのかもしれない。


「おまえの犠牲でっ、この国の民を、助けること、がっ、できるのかもしれない。けれど――だけどっ、それではおまえが救われない!」


 荒々しい声と、言葉遣い。ハクアが知っている、淡々とした話し方ではない。まるで喉に詰まった言葉を、一生懸命に吐き出そうとしているかのようで。

 どこまでも、人間らしい声だった。


「そんな自己犠牲に、意味はないだろうが! 何故、それがわからない!」

「わかってるよ」


 対して。

 彼女は、冷静だった。


「わかってる。クロウの言うことが正しいって、わかってる――わかってるけど」


 でも、と。そこで一度言葉を切る。


「わたしは、みんなを幸せにするために生まれてきたんだもん」


 みんなを巻き込んじゃったら駄目なんだよ。

 穏やかで、どこまでも落ち着いた声で、ハクアは諭すようにそう言った。


「わたしは救われないかもしれない。幸せにもなれないかもしれない。でもね、それでもいいんだよ。みんなを助けることができたら、それだけで満足」


 だから。


「これは、自己犠牲なんかじゃない――わたしの、自己満足なんだ」


 クロウは何も言わず、ただ黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。眼を閉じて、荒れた感情を徐々に落ち着かせていく。感情の波が過ぎ去っていくのを待った。

 いつの間にか、周囲には人気がなくなっていた。がらんとした街並みに、突然、無機質な足音が響いたのが聞こえて、彼は閉じていた眼を開いた。

 眼の前に、無数の鋼鉄の鎧――カムイがいた。クロウが初めて相対したカムイと似ているもの、それより細いもの、背の高いものもあった。どうやらさまざまな種類が存在しているらしい。


「……自己満足、か」

「うん」

「そうか……なるほどな……」


 小さな声で呟いて、クロウは彼女の腕から手を離した。どことなく、何かが腑に落ちたような面持ちを浮かべて。


「自己満足。いい言葉だ。それなら、おれも自己満足で動くことができる」


 言いながら、彼は静かに刀を抜いて身体の正面で構える。


「考えてみれば、この世界の常識なんておれの知ったことではないしな。こうなると、記憶を失ったことはむしろ好都合だったのかもしれない」

「クロウ……? なに、言って」

「誰も彼もがおまえのことを蔑ろにするのなら、おれだけは、おまえのことを守ってやる」


 少女が息を飲む。それから震える声で、どうして、と訊ねた。


「どうしてクロウは、そこまで、わたしに寄り添ってくれるの……?」


 その問いかけに、黒衣の青年は不思議そうな表情を浮かべる。まるで、何を今更なことを、とでも言いたげに。


「助けて欲しいと願ったのは、おまえのほうじゃないか」


 死にたくないとも言っていた。事もなげに、彼は平然とそう答えた。

 ――死にたくなんてないのに。

 ――誰か助けて。

 それは確かに、彼女の本当の願いだった。

 ハクアが口を開こうとする。しかし、それと同時にカムイの一体が突進してきたため、彼女の言葉は声にならなかった。

 そんな彼女を尻目に、クロウはカムイの前に飛び出した。

 カムイは不死身の怪物。だが、弱点は存在する。

 心臓の核。それさえ破壊すれば、この鎧は動かなくなるのだ。

 繰り出されるカムイの拳をかいくぐり、鎧の懐に踏み込んだクロウは、刀を横に一閃する。

 衝突音が響く――けれど。

 鋼鉄の鎧には、傷ひとつついていなかった。


「――――っ!?」


 クロウの顔に驚愕の色が浮かんだ。頬に、汗が流れる。

 以前倒したカムイと、眼の前にいるカムイ。材質は同じ鋼鉄製で間違いがない。戦う場所が地上と地下ということを除けば、前回の戦闘と条件は同じなはずだ。

 けれど、その鎧を貫くことができなかった。

 クロウは眉間に深く皺を寄せて、小さく舌を打つ。慢心していた。驕っていた。一度倒したことのある敵だと、同じように倒せるはずだと思っていた――思い上がっていた。

 そのとき、カムイの一体が腕を大きく振りかぶった。思考に意識をもっていかれていたクロウは、一瞬、反応が遅れてしまう。

 脳天に、重い衝撃が走った。ぐらりと視界が回って、平衡感覚が狂う。

 抵抗もできず、彼はそのまま地面へと身体を叩きつけられる。


「クロウ!」

「問題、ないっ」


 地面を転がって、カムイと距離を取る。体勢を整えて、再び刀を構えた。額には血が滲み、黒い鉢巻がより深い色に染まっている。彼の頬に、赤い筋が糸を引くように流れていった。

 突如――鋭く、空気を裂くような音が響いた。乾いた音がクロウの耳に入った、その次の瞬間に、足元から熱い煙が噴き出す。

 周辺は白い蒸汽に包まれ、カムイたちの姿が淡い影となっていく。霞がかった視界の中で、地面を走る管を、一本の矢が貫いているのが見えた。


「クロウ、下がって!」


 少女の声が彼の鼓膜を震わせて、反射的に後ろへと飛びのいた。ハクアが弓を構えて立っている。その弓の汽缶から、細い湯気が立ち上っていた。

 彼女は右手を前にかざして、空中を指で撫でるように動かした。すると、さっき患者たちの治療の際に使った傷口から血が溢れ、宙に浮かぶように文様を描いていく。それはじわじわと広がっていき、やがてこの通りを塞ぐほどの大きさになると、鈍い光を放ち始めた。


「この障壁、時間稼ぎくらいにしか使えないの。だから、今のうちに治癒の術を――」


 ハクアがそう言っているあいだにも、結界の向こう側から、カムイたちが衝突し続けている音が響いていた。急いで彼の傷を治療するために、彼女はクロウに向けて手をかざす。

 すると。

 鋼の腕に走る、幾何学的な文様を描く線。それが、彼女の血に反応するように、光を放ち始めた。

 はっとして、クロウはハクアに視線を向ける。その先で、同じようにクロウを見つめている彼女の瞳と眼が合った。

 あの時――あの遺跡で、初めて出会ったとき、彼女は自分に何をしていた。

 血に濡れた手で、この義手を握っていたではないか。


「――ハクア」

「うん、クロウ――術式を起動します!」


 クロウの呼びかけに応えるように、ハクアが叫ぶ――それと同時に、空気を砕くような筆舌に尽くしがたい音が響いて、彼女の描いた障壁が砕かれた。

 カムイが突進してくる。もう一度まともに攻撃を喰らってしまったら、クロウは死んでしまうかもしれない。

 ハクアは手をかざす。同時に、鋼鉄の義手に刻まれた術式が、より鮮烈に光り輝いた。

 そのとき、全身の血が熱く沸いたのがわかった。肉体にも義手にも、隅々まで力が渡っていっているようだった。


「っ、ああああぁぁぁぁああっ!」


 獣のような咆哮を上げるクロウ。

 刀を上段に構え、襲いかかってくるカムイの間合いに踏み込み――その心臓目がけて、全霊の突きを打つ!

 鋼と鉄が衝突して、一瞬の火花が上がる。クロウの突きは鋼鉄の装甲を砕き、心臓の核ごと、鎧を貫いた。

 瞬間、赤い閃光が発した。放射状に放たれた光は、やがて垂直な光の束になり、そして消える。

 体勢を整えると、再び刀を構える。身体が軽くなっているような気がした……否、気がしたのではない、実感が追いついてきたのだ。眼の前の敵に集中できている。何が起きても筋肉や関節を最善に動かすことができる、そんな自信さえ込み上がってきていた。

 腕を振り上げる。敵の間合いに踏み込む。胴体を切り捨てては、胸に刃を深く突き立て、心臓の核を破壊する。

 カムイの装甲や、内部のからくりがばらばらに飛び散った。活動を停止した鎧の亡骸が、次々と積み上がっていく。蒸汽で霞む視界、核を破壊するたびに発する赤い閃光にも気を止めず、クロウは刀を振るい続けた。

 その戦い方は、まるで――


「――神の如きカム・ラ・クロウ


 神話に謳われし英雄の名を、ハクアは呟いた。人でありながら、神の如き力と強さを手にした、その英雄の名を。


「クロウは――本物の、英雄みたい」



* * * * *



「もう行くのか」


 クロウの声に、ハクアは振り返る。そこはオシュマを発つ蒸汽機関車の前でのことだった。


「ウナの浄化は終わったし、英雄の手がかりもないし、……またカムイを引き寄せちゃうかもだし……、もう次の國に行かなきゃ」


 隣國のイシュカリに行こうかなー、とハクアは努めて明るい口調で言った。


「そういえば、皇さまや國の人たちにとても謝られたんだけど、何か知ってる? わたし、なんにも心当たりがないんだよね……」

「おれも知らないな」


 だよねぇ、とハクアは納得したようにうなずいた。

 皇や國民の心境にどのような変化が起きようと、クロウにはあずかり知らぬところだった。


「クロウとは、ここでお別れだね」


 ハクアは、寂しそうに言った。


「短いあいだだったけど、あなたに会えて、本当によかった。記憶、思い出せるといいね」

「その件なんだが、ひとつ、おまえに頼みがある」


 クロウはそう言うと、ハクアに向かって直角に頭を下げた。


「おれを、ハクアの旅に同行させてくれないか」


 唐突な申し入れに、ハクアは眼を見開いた。クロウは頭を上げると彼女に向かって手をかざす。

 鋼鉄の義手には相変わらず線が走っている。今はもう、光輝いてはいなかった。


「この記号みたいなものは術式……とかいうやつで、これを使えるのは大陸でおまえだけなんだろう。だから、おれの記憶を取り戻す鍵はおまえにあるのではないかと、推測している」


 ハクアは納得したようにうなずく。法術も術式も、巫女トゥスノである彼女以外には扱えないものだ。そんな代物がクロウの全身に刻まれている。それは恐らく、ハクアと無関係なことではないはずだ。

 けれどクロウは、いや、違うか、と呟いた。


「ハクアと、この世界を知りたいんだと、おれは、きっと、そう願っているんだろう」


 彼らしくない、喉につかえるような喋り方で、そう言った。

 自己犠牲でも、自己満足でも――彼女に、そう願われたからでもなく。

 彼が、彼自身の意思で、ハクアと共にいたいと、そう言ったのだ。


「クロウは、変な人だね」


 ハクアは笑った。それは飾らない、本来の彼女らしい笑顔だった。


「そろそろ、その名前にも慣れようね」

「善処しよう」


 彼女が白い手を差し出した。彼も同じように、黒鋼くろがねの手を差し出す。

 漆黒の鋼が、冷たく輝いた。





【終】

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真白の巫女と黒鋼のカムイ 橘ツグミ @T-citrus

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