第7話 妻を返せ
剥き出しの鉄板を重ねた階段を二階へ登り、突き当たったところにひどく汚れたドアがある。
ひとりの中年男がそのドアを連打しながら、大声で呼ばわっている。
古い木造アパートの建物全体が揺れるような勢いだが、時間帯のせいか、なにごとかと顔を覗かせてみる住人はひとりもいない。
あたかも、逢魔が刻であった。
しばらくしてドアが開くと、内側から異様に痩せた青年が出てきた。。
「何の用ですか」
夕日が横から差して、その顔を赤く照らした。表情には、ひどく倦怠感が漂っている。
「何の用かだと」
と、中年男は怒声を上げた。
叫びながら、ドアの中に強引に押し入った。一間しかない狭い部屋だが、家具がふたつみっつ置いてあるだけで、恐ろしく空っぽで殺風景である。しかし、その隅に、きれいに畳まれた衣服が並べられていた。
女性の匂いが仄かに残っているようだった。
「妻を返せ、妻はどこにいる」
と、中年男は青年に掴みかかった。
「今度こそはお前と別れると私に約束して、この部屋に入っていった。そのままだ。いつまで待っても出てこないのはどういうことだ」
中年男は犬のように吠えた。
青年は、ただ、女のように白い顔をしかめて見せた。その表情が、ただ小憎らしく思えて、男の怒りをさらに助長した。
「お前たちがいつから付き合いを続けてきたのか知らんが、不倫をして私を裏切った妻を許すわけにはいかない。だが、もっとも許せないのは、妻をたぶらかしたお前だ」
「ご主人」
と、青年がやっと口を開いた。
「お気持ちはわかりますが、何か誤解されているように思えます。不倫など、とんでもないことだ。それに、僕は朝から頭痛がひどく、アルバイトを休んで今まで寝ていたのです。どうか……」
「嘘をつくな。この部屋に妻が来たことは間違いない」
男は何も信じていない。
「出て来い! これ以上私を騙そうとするなら、お前の首を締め上げてやる」
言いながら、狭い部屋の中を見渡した。
勝手に襖を開けたり、トイレを覗き込んだりしたが、人が隠れている場所は見当たらない。
窓の外は小さなベランダがあって、物干し棹が渡してある。幾つかの洗濯物が干したままだったが、まさか、この窓から逃げ出したようには思えなかった。ずっと、アパートの外で待っていたのだ。たったこれだけの空間と時間のあいだで、人間ひとりが消えるなんてことはありえない。
しかし、男は結局、妻を見つけることができず、ただ当惑するしかなかった。
これ以上は、そこにいる理由がない。
「気が済みましたか」
仕方なくすごすごと部屋を出て行く後ろから、青年の皮肉な声が聞こえてきた。男は歯軋りしながら、外に出た。
すでに、夕闇が迫っていた。古いアパートの周りを包む木々がざわざわと鳴って、生ぬるい風が男の頬を撫でた。
ふと、先ほどの部屋のあたりを見上げると、例の青年が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。
大きなコートを抱えるようにしてロープを解き、重そうに降ろしている。
その一連の動作を遠目で眺めて、あっと気がついた。
ここで妻を待っていたとき、あそこに、あんなコートは干してなかったはずだ。いや、吊るされていなかったと言った方が正しいのかもしれない……。
だがそれも憶測にすぎない。
どちらにせよ、今生のうちで、もう二度と妻と会うことはないだろうと思うと、男の目からどっと涙があふれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます