第5話 男の考え 女の思い
則子は味噌汁に入れるねぎを刻みながら、男とは何て単純な動物なんだろうと、ふと考えた。例えば、この味噌汁の中に今、雑きんの絞り汁を入れることも、あるいは毒を入れることも彼女の意のままである。
わがまま勝手で、傲慢で……そういう夫の振る舞いが、この家の中だけでこれまで許されてきたのは誰のおかげなのか、まだわからないらしい。自分のもっとも近い誰かに、人生の行く末までも握られているのだと言うことに、少しも気がついていない。
そう思うと、夫がなぜ朝はトーストとコーヒーだけで済ませてくれないのか、という不満も少しは薄れる。トーストに毎朝、味噌汁をつけるなんて奇妙すぎる。味噌汁を作る手間よりも、則子は、夫、菅野のそういうライフスタイルが嫌なのかもしれない。
「刑事って仕事はどうしても外食が多いからな」
菅野の口癖はいつもこうである。その外食をとる時間すらままならない妻の立場を考えることなど、きっといつまでもないのだろう。子供でもいれば、少しは違うのかもしれないが、こればかりは自分の思いだけではどうしようもないことだ。
籠に閉じ込められた鳥のようだと、則子は自分の事をそう思って憐れんでいる。なぜ、女を家に縛り付けようとするのか、それが男の甲斐性だと思い込んでいる馬鹿さかげんにうんざりしている。
テーブルの真ん中で、トーストを頬張りながら新聞を広げている夫の目の前に、則子は味噌汁の椀を音をたてて置いた。
「あ、ありがとう」
菅野は新聞からちらりとも目を離さず、その椀を持ち上げて口に運んだ。男が単純な動物であると言う理由はこういうところにもある。ひとつに集中すると、わき目を振ることも出来ないのだ。
則子の朝は、ブラックコーヒーだけである。テーブルの向かいで、そのカップを手にしながら、新聞紙の向こうにある菅野の顔をそっと窺ってみた。今日は、どうしても聞いておきたい話がある。
「ねえ、今晩も帰りが遅いの?」
「ああ、今日は張り込み番だからね」
気の無い返事である。まるで、新聞と話をしているようだ、と則子は思った。
男がウソをつくときは、たいがい仕事にかこつけてする。新聞が邪魔で、表情が読めないので、その言葉がウソである可能性だって否定できない。
「張り込みって、どこであるの?」
菅野は答えない。
その態度に悪意があるわけではないのはわかっている。ただ真剣に人の言うことを聞いていないのだ。
男の脳梁は、女のそれに比べてずっと細く、未発達だそうである。女は逆だ。だから、常に右脳と左脳をフル回転で使用できる。ひとつの事に捕らわれず、同時にいくつもの物事を考え処理する。
そうすると、人間としての発達度は男よりも女の方が少し上なのかもしれない。男はどちらかというと肉食動物に近い。集中していると、まったく周りが見えなくなる。眼の先の獲物しか見ていない。つまり、単純なのである。
ややあって、ふと我に返ったように、菅野は新聞を目の前から下げた。
「○○街の駅前だ。君も知っているだろうが、連続婦女暴行殺人事件の犯人を張り込んでいるんだ」
「新聞で読んだわ」
どうやらウソではないらしい。菅野の表情が見えると、本当とウソの見分けはすぐについた。
「まさか、浮気でもしているのか、なんて疑ってるんじゃないだろうな」
馬鹿な冗談である。則子は笑う気にもならない。
菅野は、まんざらでもないような顔つきで則子をじっと見ていたが、すぐに真顔になった。ずるずると音をたてて味噌汁をすすってしまうと、新聞を横にたたんで身を乗り出した。
「最近始めたという、護身術の道場通い、今日はやめておけ」
「どういうこと、私の数少ない楽しみの一つだわ。」
「あの道場は事件の現場から近すぎる。新聞にも書いているように、今度の事件の犯人はとんでもないサイコ野郎だ。犠牲者はすでに八人にも上っている。そのどれもが暴行の後で、両手両足の指、耳、鼻などを丁寧に切り取り、さらに局部まで抉り取るという残酷さだ」
「やめてよ、朝からそんな話は……」
則子は両手で耳を塞いだ。
「聞けよ」
菅野は容赦なかった。事実をちゃんと教えてやる事が彼女の身を守ることだと思っている。
「八人の犠牲者の中には、オカマもいるんだぜ。精神異常者の仕業としか考えられない。犯行現場は今でこそ集中しているが、いつどこへ飛び火するのかわからんのだ」
「一週間に一度のことよ」
ただをこねる子供のようである。
「だめだ、今日は家にいろ」
「あなたはなぜ私を家に縛り付けようとするの。はっきりいうけど、今日だけの話じゃないわ。私だって、日中は時間を見つけてパートに出てみたいとも考えている。少しは余ったお金で、指輪やイヤリングを買ってみたいと思うわ。あなたは、私に一度もそんなものを買ってくれはしないし」
「おいおい、それは今する話じゃないだろう。それに、分不相応な家を建ててしまったんだ。ただし、それが君の望みだったはずだよ。少し位の節約で文句をいうなよ」
「だから、昼間にパートに出るぐらいはいいじゃない、と言っているのよ」
仕方ないかもしれないな、と菅野は考えていた。
男とはかくあるべし、女とはかくあるべし、という古風な家柄に育った彼は、最初から妻に外で働かせることなど考えもしなかった。だが、もうそういう時代ではないようだ。二人の間に子供でもいればまた違ったのかもしれない。だが、もう彼女を家に縛り付けている理由はまったくないだろう。
則子がずっと前から言い続けていた日中のパートの件は、すでに許してやる気分になっている。ここ数年は、家のローンに追われて、彼女に何一つ贅沢な思いをさせていないのは充分わかっていたからだ。
だが、今日の外出ばかりはどうしても許せなかった。
もちろん、彼女の身の危険を一番に考えている。同じ曜日に犯行が繰り返されるところを見ると、今日が最も危ない日だからだ。しかし、菅野の強引さには、さらにもうひとつ別の理由があった。
実は今日のおとり捜査で、菅野は女装しなければならなくなったのである。
変装による巡回は、この手の事件でもっとも有効な手段である。仕事だからそれは仕方ないと割り切ってはいるが、捜査手順にいつどんな変更があるかもしれない。隣町の道場に通う則子に、女装のまま出会ってしまう可能性だってあるのだ。
結婚以来、厳格な夫を演じつづけていた菅野がそんな姿を妻に見せられるはずはないではないか。
「とにかく」と、菅野は意固地になって言った。
「今日は家にいろ。体を鍛えたいのなら、最近君が通販で買ったベンチプレスやサンドバッグが家にあるじゃないか。だいたい、そういう健康器具ばかりたくさん買って、日ごろ贅沢していないとは言わせないぞ」
一気に捲し立てた後で、言い過ぎた、とすぐに菅野は反省した。彼女がこのごろ妙に体を鍛えまくっているのは、外の世界に出て行きたい苛立ちが原因なのはわかっていたからである。
「殺人鬼なんか少しも恐くないわ。なんのために護身術をならっているのよ」
「馬鹿! 君が9人目の犠牲者になるかもしれないんだぞ」
則子のあまりにも常識知らずな言い返しに、菅野は今度は怒声を出さざるを得なかった。
いくら護身術を身につけているとはいえ、しょせん女性の力なのである。凶器を手にして全力を挙げて向かってくるサイコ野郎にかなうはずがない。
例えば、必ず護身術では、「金的蹴り」をもっとも有効な技のように教える。ところが、互いに興奮し、気が動転している現場で、的確に狙い蹴りができるはずはないのである。逆にへたな事をすると、かえって相手を激昂させ、助かる命も助からなくなることだってあるのだ。だが、それをたとえ一から説明したとしても、女が理解できる頭脳を持っているとは思えない。
菅野には次の言葉が見つからない。思わず、拳を力いっぱい振り下ろしていた。
「とにかく今日は家にいろ」
どーんと、空気が張り裂けるような音がして、テーブルに置いた調味料の小瓶が生き物のように跳ねた。
それを合図にしたように、則子はテーブルに突っ伏して声を上げて泣き出した。
最後はいつもこうだ。
菅野は、いつまでも泣き止まない妻の背中をにがにがしくにらんでいた。
結局、女という奴は理性で良い悪いを考えるんじゃない、感情がすべてを支配しているのだ。どうしようもないほどに……。
家を出ていく菅野の気配を、テーブルにうつぶせたまま確認すると、則子は何事も無かったような顔をしてすぐに立ち上がった。
あの場では泣くより仕方なかった、だからそうしただけのことである。
女は、悲しみや悔しさなどなくても、泣くことを自在に操れる能力があるのを男は知らない。
顔を洗って服を着替え、ガレージに吊るしたサンドバックの前に立った。
二三度、回し蹴りを入れてみる。いい音である。調子のいい時でなければこんな音はでない。
則子は、夫のつまらない説教などに従うつもりはまったくなかった。今日は何があっても外出するつもりでいる。もちろん、菅野のいる街とは反対の方向だ。
それにしても男の単純さにはあきれる。猟奇殺人の犯人といえば、サイコ野郎だという思い込みがある限り、いつまでたってもこの犯罪を止めることはできないだろう。
則子には、菅野に黙っている秘密があった。鏡台の小物入れの中に隠している、彼女には不似合いな八個の指輪と、八組のピアスのことである。
ひょっとしたら、ふたりは、永久にお互いを理解できないままかも……。
今さっきねぎを刻んだ包丁を手の中で巧みに操りながら、則子はそんな不敵なことを考えている。
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